聖書の言葉 119:71 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。詩編 119章71節 メッセージ 今日は十戒の学びを中断し、「意味を問う」と題してお話致します。 71節に「苦しみに会ったことは」とあります。新共同訳聖書は「卑しめられたのは」と訳していますが、元のヘブル語の意味は「押えつけられる」ですので、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました」という翻訳で良いでしょう。 詩篇作者は、苦しみに会ったことで、私は最終的に神の掟を学んだと言い、苦しみに会ったことは、私にとって幸いだったと神に告白致します。苦しみは苦しみであり、それ自体が幸いなはずがありません。しかし、後になってこう言える者になった、ということです。 では、何故こう言える者になれたのでしょうか。神の掟、要するに、神の御心(みこころ)を更に深く知るに至ったからです。 「何故ですか」と、神に苦しみの意味を問う言葉が、詩篇の42~44篇などに多く見られ、意味を問うことで、困難に耐え、それを乗り越えた例が少なくありません。 思いがけない苦しみや痛み、問題に直面する時、私たちは「どうして自分がこんな目に遭い、苦しまなければなければならないのか」と困惑し、苛立ち、また先のことを思って「どうしたものか」と思案に暮れ、絶望的な気持になり、自分を失いそうになることもあると思います。そこから逃げたり、極力、辛いその問題を考えずに忘れようとするかも知れません。 しかし、それでは問題を乗り越えることは難しいです。聖書はむしろ、「何故こういうことが起るのを、神はお許しになるのか」と、苦難の意味を問うことを教えます。「これにはどういう大事な意味があるのか。神は何を私に教えようとしておられるのか」と神の前に問いますと、私たちは、問題それ自身に対しても自分自身に対しても距離を置くことが出来、客観的になり、一呼吸つくことが出来ます。問題は相変らず続いているのですが、自分自身が守られ、冷静であれます。これは是非、試してみたいと思います。私自身も、このようにして自分を守られることが何度も、いいえ、何十回もあります。 それと、クリスチャンは、やはりローマ8:28の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」という神の約束を信じ、苦しみに会う時、自分は本当に神を心から信じ、神を愛しているだろうかと、改めて自らに問いたいと思うのです。その上で、神はどうしてこの苦しみに私が遭うことをお許しになり、何を教えようとしておられるのかと思い巡らし、自分の不信仰は直ちに悔い改め、自分のなすべきことをするのです。 しかし、いくら意味を問うても、分らないことがあります。むしろ、分らないことの方が多いかも知れませんね。そういう時は、答を無理に作り出そうとせず、神に委ねるのです。無理やり答を得ようとしますと、却って神を疑い、失望し、神を憎み、私たちを創られた神から自分を引き離す危険性があります。 意味を問うというこのことで、第二次世界大戦中にアウシュヴィッツなどナチスの強制収容所に入れられ、そこでの体験を書いた『夜と霧』の著者、精神科医V.フランクルが唱えたロゴセラピーを思います。ロゴセラピーとは、言葉や意味を表わすギリシア語ロゴスと、癒しを表わすギリシア語のセラペイアを組み合せたフランクルの造語であり、「意味を問うことによる癒し」ということです。これは苦しみの中にある人を援助する優れた方法の一つだと思います。 苦しみや辛さの余り、「何もかもイヤになった。人生に意味なんかない」としか思えない時でも、必ず人生には意味がある。そしてその意味、例えば、自分を必要としている何かや誰かがいることに気付く時、人は絶望しないで生きていくことが出来るし、大切な自分の人生を放棄せず、むしろ完成することが出来る、ということです。 フランクルは、この考えを24歳位から提唱していたそうですが、強制収容所の中で彼自らが実際に体験し、収容所内の他の囚人たちにおいてもこれが有効であることを知りました。実際、苦しみの中で生きる意味などないと考え、絶望した囚人たちは早々と死に、意味があると考えた囚人たち、そこにはフランクル自身も含まれていましたが、より多く生き延びたといいます。 この考えに、彼はどうして至ったのでしょうか。彼はクリスチャンではありませんでしが、ユダヤ人であり、幼い頃から神を当然として生きていたことが、やはり根底にあるでしょう。 今の時代にも、生き辛くて、物事が思い通りに行かず、人生に意味なんかないと考え、虚無的に生きる人は少なくありません。けれども、聖書の教える「意味を問う」ということを実践することで、神だけがお与えになれる人知を超えた平安、力、生き甲斐、魂の満たしに、是非、ご一緒に与りたいと思います。慈しみに満ちた主イエスが、どうか、私たち一人一人を御霊によって導いて下さいますように! 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『詩編』
今日は十戒の学びを中断し、「意味を問う」と題してお話致します。
71節に「苦しみに会ったことは」とあります。新共同訳聖書は「卑しめられたのは」と訳していますが、元のヘブル語の意味は「押えつけられる」ですので、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました」という翻訳で良いでしょう。
詩篇作者は、苦しみに会ったことで、私は最終的に神の掟を学んだと言い、苦しみに会ったことは、私にとって幸いだったと神に告白致します。苦しみは苦しみであり、それ自体が幸いなはずがありません。しかし、後になってこう言える者になった、ということです。
では、何故こう言える者になれたのでしょうか。神の掟、要するに、神の御心(みこころ)を更に深く知るに至ったからです。
「何故ですか」と、神に苦しみの意味を問う言葉が、詩篇の42~44篇などに多く見られ、意味を問うことで、困難に耐え、それを乗り越えた例が少なくありません。
思いがけない苦しみや痛み、問題に直面する時、私たちは「どうして自分がこんな目に遭い、苦しまなければなければならないのか」と困惑し、苛立ち、また先のことを思って「どうしたものか」と思案に暮れ、絶望的な気持になり、自分を失いそうになることもあると思います。そこから逃げたり、極力、辛いその問題を考えずに忘れようとするかも知れません。
しかし、それでは問題を乗り越えることは難しいです。聖書はむしろ、「何故こういうことが起るのを、神はお許しになるのか」と、苦難の意味を問うことを教えます。「これにはどういう大事な意味があるのか。神は何を私に教えようとしておられるのか」と神の前に問いますと、私たちは、問題それ自身に対しても自分自身に対しても距離を置くことが出来、客観的になり、一呼吸つくことが出来ます。問題は相変らず続いているのですが、自分自身が守られ、冷静であれます。これは是非、試してみたいと思います。私自身も、このようにして自分を守られることが何度も、いいえ、何十回もあります。
それと、クリスチャンは、やはりローマ8:28の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」という神の約束を信じ、苦しみに会う時、自分は本当に神を心から信じ、神を愛しているだろうかと、改めて自らに問いたいと思うのです。その上で、神はどうしてこの苦しみに私が遭うことをお許しになり、何を教えようとしておられるのかと思い巡らし、自分の不信仰は直ちに悔い改め、自分のなすべきことをするのです。
しかし、いくら意味を問うても、分らないことがあります。むしろ、分らないことの方が多いかも知れませんね。そういう時は、答を無理に作り出そうとせず、神に委ねるのです。無理やり答を得ようとしますと、却って神を疑い、失望し、神を憎み、私たちを創られた神から自分を引き離す危険性があります。
意味を問うというこのことで、第二次世界大戦中にアウシュヴィッツなどナチスの強制収容所に入れられ、そこでの体験を書いた『夜と霧』の著者、精神科医V.フランクルが唱えたロゴセラピーを思います。ロゴセラピーとは、言葉や意味を表わすギリシア語ロゴスと、癒しを表わすギリシア語のセラペイアを組み合せたフランクルの造語であり、「意味を問うことによる癒し」ということです。これは苦しみの中にある人を援助する優れた方法の一つだと思います。
苦しみや辛さの余り、「何もかもイヤになった。人生に意味なんかない」としか思えない時でも、必ず人生には意味がある。そしてその意味、例えば、自分を必要としている何かや誰かがいることに気付く時、人は絶望しないで生きていくことが出来るし、大切な自分の人生を放棄せず、むしろ完成することが出来る、ということです。
フランクルは、この考えを24歳位から提唱していたそうですが、強制収容所の中で彼自らが実際に体験し、収容所内の他の囚人たちにおいてもこれが有効であることを知りました。実際、苦しみの中で生きる意味などないと考え、絶望した囚人たちは早々と死に、意味があると考えた囚人たち、そこにはフランクル自身も含まれていましたが、より多く生き延びたといいます。
この考えに、彼はどうして至ったのでしょうか。彼はクリスチャンではありませんでしが、ユダヤ人であり、幼い頃から神を当然として生きていたことが、やはり根底にあるでしょう。
今の時代にも、生き辛くて、物事が思い通りに行かず、人生に意味なんかないと考え、虚無的に生きる人は少なくありません。けれども、聖書の教える「意味を問う」ということを実践することで、神だけがお与えになれる人知を超えた平安、力、生き甲斐、魂の満たしに、是非、ご一緒に与りたいと思います。慈しみに満ちた主イエスが、どうか、私たち一人一人を御霊によって導いて下さいますように!