2023年07月09日「我は聖なる公同の教会を信ず(使徒信条の学び30)」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

我は聖なる公同の教会を信ず(使徒信条の学び30)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
エフェソの信徒への手紙 1章20節~23節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

1:20 この大能の力を神はキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から甦らせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
1:21 全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられる全ての名の上に置かれました。
1:22 また、神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、全てのものの上に立つ頭(かしら)として教会に与えられました。
1:23 教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられるところです。エフェソの信徒への手紙 1章20節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、古代教会が作成しました使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を続けて学んでいます。前々回から、「我は聖霊を信ず」で始まります三位一体の神の、特に聖霊なる神についての告白部分に進み、まず聖霊ご自身について学びました。

 使徒信条はそのあと、「聖なる公同の教会」と続きます。つまり、教会を聖霊との関係において告白しています。確かにⅠコリント3:16は「あなた方は、自分が神の宮であり、神の御霊が自分の内に住んでおられる事を知らないのですか」と、コリント教会の信徒たちに言いました。すなわち、教会とは、目には見えないが聖霊が住まわれる宮であり、聖霊が、イエス・キリストの永遠の救いの恵みを豊かにかつ具体的に現される所が教会だということです。従って教会は、聖霊の御業(みわざ)の中心にあると言っても過言ではありません。

 今朝は「聖なる公同の教会を信ず」という点を、ご一緒に学びたいと思います。

 ところで、「我は…聖なる公同の教会を信ず」というこの言い方に、首を傾げる方もあるのではないでしょうか。「教会」を信じるとは、どういうことでしょう。教会は信じるものなのでしょうか。教会は信じる対象なのでしょうか。はい、その通りであり、私たちは教会を信じるのです。

 私たちは、天地の創り主、全能の父なる神を信じます。またその独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます。すなわち、十字架の死と復活による罪の赦しと永遠の命の恵みを与えて下さる主イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、自分の今現在のことでも死後の永遠の世界のことでも、イエス・キリストに全く依り頼みます。それと同じように、私たちは、聖霊のお働きの故に、「教会」をも信じるのです。

 では、教会をどのように信じるのでしょうか。一言で言えば、聖書が教える通りに信じるのですが、これが意味するところをもう少し考えたいと思います。

 まず何より第一に確認したいことは、「我は…教会を信ず」と告白する位、教会は本当に大切なものだということです。

 使徒信条の原型と言われるローマ信条と呼ばれるものがあります。これを作りましたローマを中心とする2世紀以降の古代教会の人々は、教会の大切さをよく認識していました。ローマ帝国からの度重なる激しい迫害、弾圧、嫌がらせ、それに対する大きな恐怖と不安。一方でこれに呼応するかのように、教会には殉教者と背教者も少なからず出てました。しかし、そういう大きな痛みと悲しみと不安の中、古代教会の人々は、教会の重要性を、聖書によってよく認識し、また実際の教会生活を通しても体験しました。そこで神に感謝し、教会というものを改めて信じ、教会に信仰と生活の基盤を据え、厳しい苦難と戦いながらも、イエス・キリストの福音に生き、神と人に一生懸命仕えようとしたのです。

 教会の中には、不信仰や罪も見られたでしょう。クリスチャンは、イエス・キリストへの信仰により罪を赦されてはいますが、まだ罪の汚れた性質が残っている罪人に他ならないからです。また信仰生活や他の点での意見の違いもあり、求道者やクリスチャンになってまだ間もない人たちに躓きを与えるなど、問題は当然、色々あったと思われます。

 では、彼らはがっかりして教会に愛想をつかし、サッサと教会そのものを捨て去ったのでしょうか。いいえ、違いました。では、それは何故なのでしょう。恐らく彼らは、現実の教会について性急に結論を下すのではなく、神の前で深くじっくり祈り、教会の本質について考えたのだと思います。

 すると、気付くことがありました。教会内の問題や弱さ、欠けについてですが、それらはイエス・キリストの使徒たちがまだ生きていて、聖霊が豊かに生き生きと働かれた紀元1世紀の初代教会時代にもあったのです。実際の所、紀元1世紀の初代教会の時代に書かれた新約聖書の手紙の殆どは、教会内の色々な問題に答えるために書かれたのです。

 そこで、使徒信条を作った古代教会の信徒たちは、聖書が教会について教えているその本質というか聖書の教える教会観の中心にあるものの重要性を、よく理解したのでしょう。ですから、先の見えない大きな困難の中でも、「教会を信じる」と告白できたわけです。

 それでは、聖書は教会をどう教えているでしょうか。これについては、R.B.カイパーという米国の神学者が書きました『聖書の教会観 -キリストの栄光の体- 』という本に、53章に分けてよく書かれています。ですから、いつかご一緒に学べればと思います。

 しかし今朝は、聖書の御言葉そのものを四つだけ見ることに致します。

 第一はエペソ1:22、23です。パウロは聖霊に導かれて、「神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、全てのものの上に立つ頭(かしら)として教会に与えられました。教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられる所」だと教えます。すなわち、神は被造世界を支配する全ての権能を、復活された御子イエス・キリストに与え、キリストを頭として教会にお与えになったのです。ですから、教会はキリストの体であり、頭なるキリストに絶えず耳を傾け、キリストを愛し、キリストに結びつき、キリストに従順な教会は、キリストの諸々の祝福と恵みに必ず与る(あずかる)ということです。

 第二はⅠテモテ3:15です。パウロは「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会の事です」と教えます。つまり、教会とは、神が私たちと共にいることを喜ばれ、楽しまれる神の家であり、私たちを罪と滅びから本当に救い、神の下さる永遠の命と喜びに与らせる真理の柱、真理の土台だということです。

 第三はマタイ16:19です。私たちの喜び、希望、命であられる御子イエスは弟子たちにこう言われました。「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上で繋ぐことは天においても繋がれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

 要するに、教会には、人が天国に入ることを禁じ、また許可する、いわゆる「鍵の権能」が与えられているということです。御言葉と聖霊の導きに忠実に従う教会は、驚くべきことに、これ程の権能を、イエス・キリストから託されているのです。

 第四はマタイ18:19~20です。イエスは、心を合わせて皆で祈る教会の祈りは、天の父なる神が叶えて下さり、また二人か三人がイエスの名によって集まる、つまり教会の交わりには、「私もその中にいる」と言って、私たち信徒が特に教会において一緒になって祈ることへの祝福を固く約束されたのでした。

 古代教会の人々も、弱さや欠け、罪のある教会の現実は、当然、よく分っていたでしょう。しかし彼らは、聖書によって教会を考え、聖書によって教会を信じました。そうして彼らは、二百数十年にわたるローマ帝国からの迫害に耐え、困難の中でも尚多くの人々の魂をイエス・キリストによる永遠の命へ勝ち取ったのでした。

 ある教会に失望し、去る人もいたでしょう。しかし全体として彼らは、聖書によって教会の本質を信じ、そこで別の教会につながってでも罪と戦い、福音を喜び、福音に一生懸命生きたことでしょう。ですから、使徒信条のような告白が作れたのでした。

 私たちも、目に見える現実の教会に失望、落胆することがあるかも知れません。

 しかし、使徒20:28が言いますように、教会は「神がご自分の血をもって買い取られた」ものです。ですから、守り、残すべき点はしっかり残し、変えるべき点は変え、つまり、御言葉によって絶えず改革し、目に見えない教会の中心にあります本質的なものにいつも心を留め、大切な方々を更に教会へ招き、魂の食べ物である御言葉を絶えずしっかり頂きつつ、共に天の御国を目指して歩みたいと思います。

 その意味で、古代教会時代から言われて来ました「教会を母とするのでなければ、神を父とすることはできない」という言葉には、とても大切な真理の一端があると思います。

 「我は教会を信ず。」聖霊が与えて下さる信仰により、このことを改めて自覚し、神の祝福に、ご一緒にますます与りたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す