聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 愛をもって私たちを造られた神を、私たちが自分の全存在を上げて喜び、賛美し、神の栄光を表す上で大切な十戒を今日も学びます。 第七戒「姦淫してはならない」の6回目となる今日も、前回、学びましたウェストミンスター大教理問答の問13、すなわち、第七戒が私たちに求めている義務は何か、ということの続きを学びます。 前回は、第七戒が求める義務として「身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔。並びに自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと。目や全ての感覚に用心深くあること。節制。きよい交際を守ること。服装の慎ましさ」という所から、いくつかの点を見ました。今日は、後半、つまり、「禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚、夫婦間の愛および同居、自分の職業に精を出すこと、全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないこと」を学びます。 尚、結婚と性に関する第七戒は、年齢や他の理由で今の自分には余り関係がない、という人もいるでしょう。しかし、私たちは常に他の人のことも考え、必要ならば助言し、共に主の道を歩むように召されています。従って、第七戒を改めてよく確認する意義はあるでしょう。 さて大教理は、「禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚」を教えています。大教理問答が上げています参照聖句のⅠコリント7:2、9は言います。「淫らな行いを避けるため、男は夫々自分の妻を持ち、女も夫々自分の夫を持ちなさい。…自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚する方が良いからです。」 淫らな行いを避け、欲情に燃えないために結婚を、というのは、消極的で低次元な理由だと思えなくもありません。しかし、罪の内にある人間の現実をよく考えますならば、私たちは人間の自制心を決してかいかぶってはならないと思うのです。 自分の命を狙うサウル王を倒せる状況にありながらも自分を律し、手を下しませんでした立派な信仰者ダビデでさえ、王宮から目にしたバテシバへの情欲は抑えられませんでした(Ⅱサムエル12章)。若くてハンサムなヨセフを見て、信仰者ではありませんが、エジプトのファラオの侍従長ポティファルの妻は情欲を抑えられませんでした(創世記39章)。Ⅰテモテ5章は、若いやもめたちについて注意し、道を踏み外した者もいたことに触れています。聖書がこれらを伝えていることは、意味のないことではありません。「私なら、彼なら、彼女なら絶対大丈夫」などとは、決して安易に言えないのです。私たちは心からへりくだり、主の憐れみに救いを求めたいと思います。 次に大教理は、「夫婦間の愛」をも義務として教えます。「夫婦間の愛」なんて、当り前のことではないかとも思えるのですが、大教理が参照聖句として上げています箴言5:19、20を見ますと、ここでの愛は性的な愛のようです。そこを読みます。「あなたの雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うが良い。わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。」 人間の弱さを思いますと、夫婦間で性的な愛を大切にすることも、とても大事なのです。 大教理はまた「夫婦間の…同居」にも言及し、Ⅰペテロ3:7を上げます。読んでみます。「夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻と共に暮らしなさい。また、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなた方の祈りは妨げられません。」 ここの御言葉全体を今詳しく見ることはしませんが、淋しさと自由さから来る罪や誘惑を避けることに関して言いますならば、夫婦が同居する意義は大きいのです。暫く離れて生活しなくてはならないとしても、極力短期間にし、その間も夫婦は可能な限り共に会い、或いは今の時代であるなら、電話やメールなどで一緒によく祈り、信仰を支え合い、色々話し合うようにする工夫と努力が大切です。 大教理は更に「自分の職業に精を出す」ように教えます。参照聖句もありますが、とにかく、自分のなすべき仕事に精を出し、責任をもって仕事に打ち込むことは、家庭を神に喜ばれる安定したものに保ち、かつ性的な罪や誘惑を避ける上でも、結構、大切な知恵と言えます。 最後に大教理は、「全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないこと」と教えて、問138を終ります。 不潔のきっかけとなることは遠ざけ、近づかない。或いはそこから逃げる。これは優れた知恵ですね。また誘惑を感じても断じて屈しない、という強い覚悟の大切さを、大教理は改めて私たちに気付かせ教えてくれます。 聖霊が、どうか知恵と覚悟を私たちにお与え下さり、私たちが結婚と性を通しても神を全身全霊をもって喜び、感謝し、ほめたたえ、主の福音を飾ることができますように! 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
愛をもって私たちを造られた神を、私たちが自分の全存在を上げて喜び、賛美し、神の栄光を表す上で大切な十戒を今日も学びます。
第七戒「姦淫してはならない」の6回目となる今日も、前回、学びましたウェストミンスター大教理問答の問13、すなわち、第七戒が私たちに求めている義務は何か、ということの続きを学びます。
前回は、第七戒が求める義務として「身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔。並びに自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと。目や全ての感覚に用心深くあること。節制。きよい交際を守ること。服装の慎ましさ」という所から、いくつかの点を見ました。今日は、後半、つまり、「禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚、夫婦間の愛および同居、自分の職業に精を出すこと、全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないこと」を学びます。
尚、結婚と性に関する第七戒は、年齢や他の理由で今の自分には余り関係がない、という人もいるでしょう。しかし、私たちは常に他の人のことも考え、必要ならば助言し、共に主の道を歩むように召されています。従って、第七戒を改めてよく確認する意義はあるでしょう。
さて大教理は、「禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚」を教えています。大教理問答が上げています参照聖句のⅠコリント7:2、9は言います。「淫らな行いを避けるため、男は夫々自分の妻を持ち、女も夫々自分の夫を持ちなさい。…自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚する方が良いからです。」
淫らな行いを避け、欲情に燃えないために結婚を、というのは、消極的で低次元な理由だと思えなくもありません。しかし、罪の内にある人間の現実をよく考えますならば、私たちは人間の自制心を決してかいかぶってはならないと思うのです。
自分の命を狙うサウル王を倒せる状況にありながらも自分を律し、手を下しませんでした立派な信仰者ダビデでさえ、王宮から目にしたバテシバへの情欲は抑えられませんでした(Ⅱサムエル12章)。若くてハンサムなヨセフを見て、信仰者ではありませんが、エジプトのファラオの侍従長ポティファルの妻は情欲を抑えられませんでした(創世記39章)。Ⅰテモテ5章は、若いやもめたちについて注意し、道を踏み外した者もいたことに触れています。聖書がこれらを伝えていることは、意味のないことではありません。「私なら、彼なら、彼女なら絶対大丈夫」などとは、決して安易に言えないのです。私たちは心からへりくだり、主の憐れみに救いを求めたいと思います。
次に大教理は、「夫婦間の愛」をも義務として教えます。「夫婦間の愛」なんて、当り前のことではないかとも思えるのですが、大教理が参照聖句として上げています箴言5:19、20を見ますと、ここでの愛は性的な愛のようです。そこを読みます。「あなたの雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うが良い。わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。」
人間の弱さを思いますと、夫婦間で性的な愛を大切にすることも、とても大事なのです。
大教理はまた「夫婦間の…同居」にも言及し、Ⅰペテロ3:7を上げます。読んでみます。「夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻と共に暮らしなさい。また、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなた方の祈りは妨げられません。」
ここの御言葉全体を今詳しく見ることはしませんが、淋しさと自由さから来る罪や誘惑を避けることに関して言いますならば、夫婦が同居する意義は大きいのです。暫く離れて生活しなくてはならないとしても、極力短期間にし、その間も夫婦は可能な限り共に会い、或いは今の時代であるなら、電話やメールなどで一緒によく祈り、信仰を支え合い、色々話し合うようにする工夫と努力が大切です。
大教理は更に「自分の職業に精を出す」ように教えます。参照聖句もありますが、とにかく、自分のなすべき仕事に精を出し、責任をもって仕事に打ち込むことは、家庭を神に喜ばれる安定したものに保ち、かつ性的な罪や誘惑を避ける上でも、結構、大切な知恵と言えます。
最後に大教理は、「全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないこと」と教えて、問138を終ります。
不潔のきっかけとなることは遠ざけ、近づかない。或いはそこから逃げる。これは優れた知恵ですね。また誘惑を感じても断じて屈しない、という強い覚悟の大切さを、大教理は改めて私たちに気付かせ教えてくれます。
聖霊が、どうか知恵と覚悟を私たちにお与え下さり、私たちが結婚と性を通しても神を全身全霊をもって喜び、感謝し、ほめたたえ、主の福音を飾ることができますように!