Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 8:14 神の御霊に導かれる人は皆、神の子供です。8:15 あなた方は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。8:16 御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子供であることを証しして下さいます。ローマの信徒への手紙 8章14節~16節 メッセージ 去年の7月から、私たちは礼拝説教で、キリスト教信仰の基本内容を、古代教会が信仰の戦いの中で告白し、徐々に整っていった使徒信条により確認しています。 「使徒」信条と呼ばれますが、これはイエス・キリストの使徒たちの作ったものではありません。告白されている内容が「使徒的」、つまり、聖書に基づく正しい内容ですから、「使徒」信条と呼ばれます。 さて、使徒信条は三つの部分からなっています。第一部は父なる神とその御業(みわざ)を、第二部は神の独り子イエス・キリストとその御業を、第三部は聖霊とその御業を、夫々告白しています。 私たちは、第一と第二、すなわち、父なる神と御子イエス・キリストについての所を、27回にわたり確認して来ました。今朝は第三部、つまり、聖霊についての告白の中の「我は聖霊を信ず」に進みます。聖霊は御霊(みたま)とも呼ばれます。 1986年に出されました日本キリスト改革派教会創立40周年記念宣言には、「聖霊について」の告白があり、聖霊とそのお働きについて、よくまとめられています。しかし今朝は、聖書から大切な点を、大きく二つだけ確認致します。 大きな第一のことは、聖霊は真(まこと)の神だ、ということです。父なる神、子なる神イエス・キリストと共に、聖霊は三位一体(さんみ)の神の第三位格(いかく)であられます。今、「位格」と申しました。お一人の神の内に、夫々違う仕方で存在され働かれるご人格を表わします。 キリスト教の異端は皆、聖霊を神の力やエネルギーや影響力ぐらいにしか考えず、そもそも人格を認めません。しかし、例えばローマ8:26は、私たちのために「御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって…執り成して下さる」と言います。ですから、聖霊が、私たちを愛し、父なる神に取り成して下さる人格的ご存在であることは明白です。 大切なことは、聖霊は神だという点です。クリスチャンは、天地の創り主、全能の父なる神とその独り子イエス・キリストを信じ、しかし、聖霊をもハッキリ神と信じて生きます。この三位一体の神を信じない人たちは、興味深いことに、その信仰も生活も必ず変になります。聖書の読み方が、どこか間違っているからでしょうね。とにかく、聖霊が神だというこの大切なことを、改めて心に留めたいと思います。 そこで大きな第二点に進みます。聖霊のお働きをよく理解して、聖霊を信じ、聖霊のご支配と導きとに自分自身を明け渡すことが大切だということです。。 聖霊は大変豊かな働きを御父と御子と共にされます。天地創造は勿論、摂理(せつり)の御業、すなわち、全被造物を保持し、支配し、導いておられます。ということは、今も世界と歴史、また私たち一人一人の存在と命に関っておられます。私たちの心臓の鼓動、体中の血液循環、呼吸、胃や腸や膵臓などの消化機能、神経活動、また知性、感情、意志、永遠を想う私たちの心と魂など、全て、聖霊に支えられています。 けれども、何より大切なことは、聖霊が私たちの罪と滅びからの「救い」に決定的に関っておられることです。この点をよく認識して聖霊を信じ、聖霊に自分を明け渡すことが重要です。 大まかに言いますと、父なる神は私たちの救いを計画され、御子イエスは御父のご計画に従って、私たちが罪のために受ける永遠の刑罰を私たちに代って十字架で受けて死なれ、また私たちが本来守るべき神の戒め・律法を私たちのために完全に守られました。こうして御子イエスは、全世界を贖って(あがなって)尚、余りある絶大な救いの力を獲得され、今、天の父なる神の右に座しておられます。 そして聖霊は、御子が獲得された救いの恵みを私たち一人一人に適用され、救いを具体的に実現して行かれます。宗教改革者カルヴァンが聖霊を「キリストと私たちとを結ぶ帯」と言った通り、キリストの救いの恵みは、キリストと私たちを結び付けていて下さる聖霊によって具体的に私たちに臨み、私たちを本当に罪と滅びから救い、永遠の命に与らせます。 そこで、私たちが救われて行く、その救いの順序(ラテン語で、オルド・サルティス)、救いのプロセスの中心的なものを振り返ります。 まず、人がイエス・キリストにより永遠の救いに与る第一段階は、心に何か飢え渇きや求めを覚え、真(まこと)の神を覚えることから始まります。実はこれは聖霊によるのであり、これを聖霊による有効召命(ゆうこうしょうめい)と呼びます。また私たちの内に起っている変化を再生(さいせい)と言います。 第二段階で、人は教会へ行き、説教を聞き、あるいは聖書を読み、自分の罪を深く自覚し、神を恐れて「これではいけない」と悟って悔い改め、しかし、こんな自分のために十字架で死なれた神の御子イエスが救い主であることを知り、イエスに救いを求めます。この悔改めと信仰も聖霊のお働きです。Ⅰコリント12:3に「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言うことはできません」とある通りです。 次の第三段階で私たちは、神と教会の前に信仰を告白し、洗礼を受け、神と教会との厳かな契約に入れられ、クリスチャンとして生き始めます。救いの確信や実感がまだ薄く、その後も迷うことがあります。私もかつてそうでした。けれども、とにかく教会生活を送り、説教や聖餐式や祈りなど、恵みの手段に忠実に与り続ける時、自分が主イエスの十字架により罪を赦され、義(ぎ)とされ、永遠の命に与り、神の子供とされた確信も増して行きます。これも聖霊の働きによります。ローマ8:15、16は言います。「あなた方は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは、『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証しして下さいます。」 自分が何に立って霊の戦いをするかは色々ですが、厳しい宗教改革の中、ルターは、自分が洗礼を受けていることに自分の救いの確信の土台を置き、また聖霊に導かれた者が神を父と呼べることが如何に大切かを繰返し語りました。彼自身、常にそこに立ち、辛く苦しい時も信仰の戦いを続け、打ち勝つことが出来たのでした。 私たちもこのことをよく覚えておきたいと思います。何かに押し潰されそうで、もう駄目と思う時も、「そうだ。私はイエス様のお蔭で神の子供とされている。全知全能の神が私の父だ」とハッキリ思い起すのです。どんなに勇気づけられるでしょうか。聖霊は、こうして私たちに働かれ、キリストの恵みを取り次ぎ、私たちを導かれます。 最後ですが、第四段階で聖霊は、御言葉によりクリスチャンを聖化(せいか)されます。つまり、ますます罪に死に、義に生きる者へと信仰者を導かれます。この世では、完全聖化はありませんが、死の瞬間に私たちを聖霊は全く清め、天国に相応しい者に変えて下さいます。 要するに、私たちの救いは、初めから終りまで全て、主イエス・キリストが獲得された救いの恵みを一つ一つ取り次がれる聖霊によるのです。従って、聖霊を心から信じ、聖霊を求め、聖霊に自分を明け渡すことがとても大切です。「我は聖霊を信ず」とは、こういうことなのです。私たちは、主イエスが獲得して下さった救いを私たちの内で具体的に実際に推し進めて下さる聖霊なる神に、謙って、全く自分を開き、聖霊を信頼し、何度でも自分を聖霊の力と導きに委ねたいと思います。聖霊は一層私たちに働いて下さるでしょう。 しかしそれだけに、聖霊を悲しませてはなりません。エペソ4:30、31は言います。「聖霊を悲しませてはいけません。…無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」 更に言いますと、私たちは聖霊を恐れなくてはなりません。イエスは言われました。マタイ12:32「人の子(イエスご自身)に言い逆らう言葉を口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」 「聖霊に逆らうことを言う罪」、つまり、自分の自己中心の罪や不信仰が分っているのに、それを認めず、開き直ったり頑なであること程、罪深いことはありません。聖霊を本当に恐れる者でありたいと思います。 むしろ私たちは、自分の罪や不信仰を幼子のように素直に認め、「神様、ごめんなさい」と言って神にお詫びをする…。また色々私たち気付かせ、心を照らして下さる聖霊なる神に感謝し、聖霊の導きに自分を委ね、常に神の御言葉が語られる教会の交わりの中に自分を置き、そうして互いに励まし、主を賛美し合って歩んで行きたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の日曜朝の礼拝 『ローマの信徒への手紙』
去年の7月から、私たちは礼拝説教で、キリスト教信仰の基本内容を、古代教会が信仰の戦いの中で告白し、徐々に整っていった使徒信条により確認しています。
「使徒」信条と呼ばれますが、これはイエス・キリストの使徒たちの作ったものではありません。告白されている内容が「使徒的」、つまり、聖書に基づく正しい内容ですから、「使徒」信条と呼ばれます。
さて、使徒信条は三つの部分からなっています。第一部は父なる神とその御業(みわざ)を、第二部は神の独り子イエス・キリストとその御業を、第三部は聖霊とその御業を、夫々告白しています。
私たちは、第一と第二、すなわち、父なる神と御子イエス・キリストについての所を、27回にわたり確認して来ました。今朝は第三部、つまり、聖霊についての告白の中の「我は聖霊を信ず」に進みます。聖霊は御霊(みたま)とも呼ばれます。
1986年に出されました日本キリスト改革派教会創立40周年記念宣言には、「聖霊について」の告白があり、聖霊とそのお働きについて、よくまとめられています。しかし今朝は、聖書から大切な点を、大きく二つだけ確認致します。
大きな第一のことは、聖霊は真(まこと)の神だ、ということです。父なる神、子なる神イエス・キリストと共に、聖霊は三位一体(さんみ)の神の第三位格(いかく)であられます。今、「位格」と申しました。お一人の神の内に、夫々違う仕方で存在され働かれるご人格を表わします。
キリスト教の異端は皆、聖霊を神の力やエネルギーや影響力ぐらいにしか考えず、そもそも人格を認めません。しかし、例えばローマ8:26は、私たちのために「御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって…執り成して下さる」と言います。ですから、聖霊が、私たちを愛し、父なる神に取り成して下さる人格的ご存在であることは明白です。
大切なことは、聖霊は神だという点です。クリスチャンは、天地の創り主、全能の父なる神とその独り子イエス・キリストを信じ、しかし、聖霊をもハッキリ神と信じて生きます。この三位一体の神を信じない人たちは、興味深いことに、その信仰も生活も必ず変になります。聖書の読み方が、どこか間違っているからでしょうね。とにかく、聖霊が神だというこの大切なことを、改めて心に留めたいと思います。
そこで大きな第二点に進みます。聖霊のお働きをよく理解して、聖霊を信じ、聖霊のご支配と導きとに自分自身を明け渡すことが大切だということです。。
聖霊は大変豊かな働きを御父と御子と共にされます。天地創造は勿論、摂理(せつり)の御業、すなわち、全被造物を保持し、支配し、導いておられます。ということは、今も世界と歴史、また私たち一人一人の存在と命に関っておられます。私たちの心臓の鼓動、体中の血液循環、呼吸、胃や腸や膵臓などの消化機能、神経活動、また知性、感情、意志、永遠を想う私たちの心と魂など、全て、聖霊に支えられています。
けれども、何より大切なことは、聖霊が私たちの罪と滅びからの「救い」に決定的に関っておられることです。この点をよく認識して聖霊を信じ、聖霊に自分を明け渡すことが重要です。
大まかに言いますと、父なる神は私たちの救いを計画され、御子イエスは御父のご計画に従って、私たちが罪のために受ける永遠の刑罰を私たちに代って十字架で受けて死なれ、また私たちが本来守るべき神の戒め・律法を私たちのために完全に守られました。こうして御子イエスは、全世界を贖って(あがなって)尚、余りある絶大な救いの力を獲得され、今、天の父なる神の右に座しておられます。
そして聖霊は、御子が獲得された救いの恵みを私たち一人一人に適用され、救いを具体的に実現して行かれます。宗教改革者カルヴァンが聖霊を「キリストと私たちとを結ぶ帯」と言った通り、キリストの救いの恵みは、キリストと私たちを結び付けていて下さる聖霊によって具体的に私たちに臨み、私たちを本当に罪と滅びから救い、永遠の命に与らせます。
そこで、私たちが救われて行く、その救いの順序(ラテン語で、オルド・サルティス)、救いのプロセスの中心的なものを振り返ります。
まず、人がイエス・キリストにより永遠の救いに与る第一段階は、心に何か飢え渇きや求めを覚え、真(まこと)の神を覚えることから始まります。実はこれは聖霊によるのであり、これを聖霊による有効召命(ゆうこうしょうめい)と呼びます。また私たちの内に起っている変化を再生(さいせい)と言います。
第二段階で、人は教会へ行き、説教を聞き、あるいは聖書を読み、自分の罪を深く自覚し、神を恐れて「これではいけない」と悟って悔い改め、しかし、こんな自分のために十字架で死なれた神の御子イエスが救い主であることを知り、イエスに救いを求めます。この悔改めと信仰も聖霊のお働きです。Ⅰコリント12:3に「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言うことはできません」とある通りです。
次の第三段階で私たちは、神と教会の前に信仰を告白し、洗礼を受け、神と教会との厳かな契約に入れられ、クリスチャンとして生き始めます。救いの確信や実感がまだ薄く、その後も迷うことがあります。私もかつてそうでした。けれども、とにかく教会生活を送り、説教や聖餐式や祈りなど、恵みの手段に忠実に与り続ける時、自分が主イエスの十字架により罪を赦され、義(ぎ)とされ、永遠の命に与り、神の子供とされた確信も増して行きます。これも聖霊の働きによります。ローマ8:15、16は言います。「あなた方は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは、『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証しして下さいます。」
自分が何に立って霊の戦いをするかは色々ですが、厳しい宗教改革の中、ルターは、自分が洗礼を受けていることに自分の救いの確信の土台を置き、また聖霊に導かれた者が神を父と呼べることが如何に大切かを繰返し語りました。彼自身、常にそこに立ち、辛く苦しい時も信仰の戦いを続け、打ち勝つことが出来たのでした。
私たちもこのことをよく覚えておきたいと思います。何かに押し潰されそうで、もう駄目と思う時も、「そうだ。私はイエス様のお蔭で神の子供とされている。全知全能の神が私の父だ」とハッキリ思い起すのです。どんなに勇気づけられるでしょうか。聖霊は、こうして私たちに働かれ、キリストの恵みを取り次ぎ、私たちを導かれます。
最後ですが、第四段階で聖霊は、御言葉によりクリスチャンを聖化(せいか)されます。つまり、ますます罪に死に、義に生きる者へと信仰者を導かれます。この世では、完全聖化はありませんが、死の瞬間に私たちを聖霊は全く清め、天国に相応しい者に変えて下さいます。
要するに、私たちの救いは、初めから終りまで全て、主イエス・キリストが獲得された救いの恵みを一つ一つ取り次がれる聖霊によるのです。従って、聖霊を心から信じ、聖霊を求め、聖霊に自分を明け渡すことがとても大切です。「我は聖霊を信ず」とは、こういうことなのです。私たちは、主イエスが獲得して下さった救いを私たちの内で具体的に実際に推し進めて下さる聖霊なる神に、謙って、全く自分を開き、聖霊を信頼し、何度でも自分を聖霊の力と導きに委ねたいと思います。聖霊は一層私たちに働いて下さるでしょう。
しかしそれだけに、聖霊を悲しませてはなりません。エペソ4:30、31は言います。「聖霊を悲しませてはいけません。…無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」
更に言いますと、私たちは聖霊を恐れなくてはなりません。イエスは言われました。マタイ12:32「人の子(イエスご自身)に言い逆らう言葉を口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」
「聖霊に逆らうことを言う罪」、つまり、自分の自己中心の罪や不信仰が分っているのに、それを認めず、開き直ったり頑なであること程、罪深いことはありません。聖霊を本当に恐れる者でありたいと思います。
むしろ私たちは、自分の罪や不信仰を幼子のように素直に認め、「神様、ごめんなさい」と言って神にお詫びをする…。また色々私たち気付かせ、心を照らして下さる聖霊なる神に感謝し、聖霊の導きに自分を委ね、常に神の御言葉が語られる教会の交わりの中に自分を置き、そうして互いに励まし、主を賛美し合って歩んで行きたいと思います。