聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 暫く中断していましたが、十戒の第七戒「姦淫してはならない」をもう少し学びます。5回目の今日は、世界の改革派・長老派教会が大切にして来ましたウェストミンスター大教理問答を見たいと思います。 ウェストミンスター大教理問答は、幾つかの国の改革派・長老派教会の神学者たちがロンドンのウェストミンスター寺院に集まり、1643年7月から始りました会議の終りの1647年に出来ました。これは、聖書に基づき、色々具体的な点に触れる行き届いたものです。宮崎彌男訳で見てみます。 問137「第七の戒めは、何ですか。」答「第七の戒めは、『姦淫してはならない』です。」 そして問138は「第七の戒めで求められている義務は、何ですか」と、第七戒で積極的に求められているものを教え、問139では逆に「禁じられている罪は何ですか」と消極面を教えます。積極面と消極面の両方から神の戒めを包括的に捉えようとするウェストミンスター大教理問答と小教理問答の視点は、非常に大切です。 今日は、第七戒が積極的に求めている義務について、問138の答から学びます。読んでみます。「第七の戒めで求められている義務は、次の通りです。すなわち、身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔、並びに自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと、目や全ての感覚に用心深くあること、節制、きよい交際を守ること、服装の慎ましさ、禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚、夫婦間の愛および同居、自分の職業に精を出すこと、全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないことです。」 少し中身を見てみます。 私たちの守るべき義務として、最初に「身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔」を上げます。わざと性的に目立つことや異性の気を引くようなこと、そこには卑猥な言葉や振る舞いも含まれますが、それらとは逆の純潔、清さを心がけることは、結婚と性を元々清く良いものとして造られた神に感謝し、神の栄光を現す上で、何と大切でしょうか。 次に大教理は、「自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと」と教えます。性的な清さを、自分自身は勿論、他の人との間にあってもしっかり保つようにと教えます。当然とは言え、このことを確認しておくことは、やはり大切でしょう。 続いて大教理は、「目や全ての感覚に用心深くあること」と教えます。実際、性的不潔さや姦淫の罪に傾いて行くことの初めに、私たちが目にし、あるいは、私たちの目が追うものが大いに関係していると言えるでしょう。そのことで、大教理は、ヨブの言葉を証拠聖句に上げています。ヨブはこういう点での自分の純潔、清さを訴えて、こう言いました。ヨブ31:1「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目をとめられるだろうか。」ヨブは、自分の目が勝手に人やものを見ることを許さず、自分の目と契約を結んだと言い、自分が見るものにも注意深くあり、制御し、野放しにしませんでした。性的な画像や言葉が氾濫している現代という時代にあって、自分の目を監視し制御することは、どんなに大切でしょうか。 更に大教理は、「節制、きよい交際を守ること、服装の慎ましさ」をも具体的に上げます。この中の「服装の慎ましさ」について、大教理はⅠテモテ2:9を証拠聖句に上げていますので、10節も含めて読んでみます。「同じように女たちも、慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪形や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちに相応しく、良い行いで自分を飾りなさい。」 服装や飾り物に関して、結婚している婦人たちに対して書かれましたⅠペテロ3:3、4も読んでおきます。「あなた方の飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはなりません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」 服装、髪形、ファッション、装飾品などは、女性も男性も時代と場所によって違いがあり、教会の中でも同じです。従って、一概にどうこう言えないでしょう。しかし、異性の気を引くような感じのものについては、第七戒という基準から見て、私たちクリスチャンは、自分の嗜好を振り返り、自分の中でキチンと枠を設けることが大切だと思われます。もし派手で華美な服装や髪形、装飾品を好む自分自身に気付くならば、自分の根底にあるものが何かを、よくよく考えたいと思います。 女性、男性を問わず、私たちは心身共に、是非、いつでもどこでも主の御目に清潔で、主イエス・キリストの清さと品性とを、自然と現わす者でありたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
暫く中断していましたが、十戒の第七戒「姦淫してはならない」をもう少し学びます。5回目の今日は、世界の改革派・長老派教会が大切にして来ましたウェストミンスター大教理問答を見たいと思います。
ウェストミンスター大教理問答は、幾つかの国の改革派・長老派教会の神学者たちがロンドンのウェストミンスター寺院に集まり、1643年7月から始りました会議の終りの1647年に出来ました。これは、聖書に基づき、色々具体的な点に触れる行き届いたものです。宮崎彌男訳で見てみます。
問137「第七の戒めは、何ですか。」答「第七の戒めは、『姦淫してはならない』です。」
そして問138は「第七の戒めで求められている義務は、何ですか」と、第七戒で積極的に求められているものを教え、問139では逆に「禁じられている罪は何ですか」と消極面を教えます。積極面と消極面の両方から神の戒めを包括的に捉えようとするウェストミンスター大教理問答と小教理問答の視点は、非常に大切です。
今日は、第七戒が積極的に求めている義務について、問138の答から学びます。読んでみます。「第七の戒めで求められている義務は、次の通りです。すなわち、身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔、並びに自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと、目や全ての感覚に用心深くあること、節制、きよい交際を守ること、服装の慎ましさ、禁欲の賜物を持ち合わせていない人々の場合の結婚、夫婦間の愛および同居、自分の職業に精を出すこと、全て不潔のきっかけとなることを遠ざけ、不潔への誘惑に屈しないことです。」
少し中身を見てみます。
私たちの守るべき義務として、最初に「身体・精神・感情・言葉・振る舞いにおける純潔」を上げます。わざと性的に目立つことや異性の気を引くようなこと、そこには卑猥な言葉や振る舞いも含まれますが、それらとは逆の純潔、清さを心がけることは、結婚と性を元々清く良いものとして造られた神に感謝し、神の栄光を現す上で、何と大切でしょうか。
次に大教理は、「自分自身および他の人々の内に純潔を保つこと」と教えます。性的な清さを、自分自身は勿論、他の人との間にあってもしっかり保つようにと教えます。当然とは言え、このことを確認しておくことは、やはり大切でしょう。
続いて大教理は、「目や全ての感覚に用心深くあること」と教えます。実際、性的不潔さや姦淫の罪に傾いて行くことの初めに、私たちが目にし、あるいは、私たちの目が追うものが大いに関係していると言えるでしょう。そのことで、大教理は、ヨブの言葉を証拠聖句に上げています。ヨブはこういう点での自分の純潔、清さを訴えて、こう言いました。ヨブ31:1「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目をとめられるだろうか。」ヨブは、自分の目が勝手に人やものを見ることを許さず、自分の目と契約を結んだと言い、自分が見るものにも注意深くあり、制御し、野放しにしませんでした。性的な画像や言葉が氾濫している現代という時代にあって、自分の目を監視し制御することは、どんなに大切でしょうか。
更に大教理は、「節制、きよい交際を守ること、服装の慎ましさ」をも具体的に上げます。この中の「服装の慎ましさ」について、大教理はⅠテモテ2:9を証拠聖句に上げていますので、10節も含めて読んでみます。「同じように女たちも、慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪形や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちに相応しく、良い行いで自分を飾りなさい。」
服装や飾り物に関して、結婚している婦人たちに対して書かれましたⅠペテロ3:3、4も読んでおきます。「あなた方の飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはなりません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」
服装、髪形、ファッション、装飾品などは、女性も男性も時代と場所によって違いがあり、教会の中でも同じです。従って、一概にどうこう言えないでしょう。しかし、異性の気を引くような感じのものについては、第七戒という基準から見て、私たちクリスチャンは、自分の嗜好を振り返り、自分の中でキチンと枠を設けることが大切だと思われます。もし派手で華美な服装や髪形、装飾品を好む自分自身に気付くならば、自分の根底にあるものが何かを、よくよく考えたいと思います。
女性、男性を問わず、私たちは心身共に、是非、いつでもどこでも主の御目に清潔で、主イエス・キリストの清さと品性とを、自然と現わす者でありたいと思います。