聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 第七戒「姦淫してはならない」を学んで来ました。結婚は神が人間の幸せとご自分の栄光のために作られた大切な制度であり、それだけに姦淫が非常に罪深いこと、また夫と妻がキリストと教会の関係に倣って相手に従い仕える愛を神が何より望んでおられること、更に性的な罪や弱さとどう戦うかなどを見て来ました。今日も性について聖書から学びます。 神は言われました。創世記1:26「さあ、人を我々の形として、我々の似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地の上を這う全てのものを支配するようにしよう。」ヘブル語原文には、「さあ」に相当する言葉はありませんが、神はご自分に対して決意を表明しておられ、その力の入れようが分ります。また他の被造物を支配し管理する目的で、神が人をご自分の形に、ご自分に似せて造られたことも分ります。 続く27節は言います。「神は人をご自分の形として人を創造された。神の形として人を創造し、男と女に彼らを創造された。」創世記は、神がわざわざ「男と女に」彼らを創造された、と言います。女性がひどく蔑視されていた旧約時代の異教世界全体の常識から見ますと、神が人を「男と女」に造られたと聖書が言うことは、驚異的なことでした。神は、ご自分の似姿に男も女も全く同じように創られたのです。従って、どちらの性が上で、どちらの性が劣っているかなどは、神の前では全く論外だということです。 この認識は非常に重要です。性暴力を行なったことのある男性には一般的に、女性を男の自分より下に見る傾向があります。また自分より低い階層の人とか、自分より劣った民族だと蔑んでいる相手には、人はひどい暴力を振うことに余り良心の痛みを感じないことが分っていますが、性犯罪、性暴力にも同じことが言えます。ですから、神の前で、自分とは違う、しかしあくまで神がご自分の形に造られた他の性の人の大切さを自分がどれだけ明確に認識しているか否かが、とても重要なのです。創世記1:27は言います。「神は人をご自分の形として人を創造され、…男と女に彼らを創造された。」 もう一つ大事な点があります。それは、創世記によれば、私たちが女か男かということ、すなわち、性を持っていることは、自分の人間性と人格の根本に関っていることであり、極めて重要だということです。 今は、LGBTとかLGBTQ、LGBTQ+ などと言われる性的少数者の方々のことがよく話題になります。例えば、性同一性障害の場合、生れつき体に備わっている性と、心の性との不一致に、大変苦しみます。何故そういう不一致が起るのか、またDNAレベルでの違いなどはどうなのかなど、今後、更に研究が進むと思いますが、ここではこれ以上触れることはできません。あくまで聖書が述べている範囲で考えてみます。 今、心に覚えたいことは、私たちは男または女の違いはありますが、根本的には性を持つ存在として生きるということです。どちらであるかは、神が永遠のご計画によって決められることですが、大切なことは、私たちは性を持つ、すなわち、性機能と性を持つ人間として、神に似せて造られたという点です。この事実を私たちはよく自覚し、それ故、自分の性機能を神の御前でよく管理し大切にし、また神の創造の目的に従って、女、男という特徴ある自らの性をよく生かしたいと思います。 まず、性的に放縦とかだらしないということは、単に体の問題に終らず、聖書によれば、神の形に造られた私たちの人間性や人格の根本に関わる問題なのです。自分の性に自覚と責任を持ってこそ、私たちは人格的にも高められるのです。 前にも申しましたが、十戒が第六戒で「殺してはならない」、つまり、私たちの命、存在そのものに関わる重要な点を取り上げたことに続き、すぐ第七戒で「姦淫してはならない」、すなわち、結婚と性を何より取り上げることの意義は大きいと思います。どちらも人格そのものに大いに関係しているのです。私たちは、神がご計画により夫々を男や女という性に造られ、主の十字架の愛と救いはそこにも及んでいることを改めてよく認識したいと思います。 そしてもう一つ。夫々、男性あるいは女性としての役割を、天に召される時まで、神からの召命として果たし、また自分とは違う性の人たちを尊び、その性を持つ存在としてその人たちが神の前に完成することに仕えたいと思います。創世記2:20に「助け手」という大切な言葉が出て来ます。その通り、私たちは夫々の性ならではの賜物や特徴を発揮し、足りない所は互いに「助け手」となって補い合い、神のご栄光、そして人の救い、つまり人の本当の幸せのために生き、また大切な主の体なる教会を建て上げることに、喜んで自分を献げたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
第七戒「姦淫してはならない」を学んで来ました。結婚は神が人間の幸せとご自分の栄光のために作られた大切な制度であり、それだけに姦淫が非常に罪深いこと、また夫と妻がキリストと教会の関係に倣って相手に従い仕える愛を神が何より望んでおられること、更に性的な罪や弱さとどう戦うかなどを見て来ました。今日も性について聖書から学びます。
神は言われました。創世記1:26「さあ、人を我々の形として、我々の似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地の上を這う全てのものを支配するようにしよう。」ヘブル語原文には、「さあ」に相当する言葉はありませんが、神はご自分に対して決意を表明しておられ、その力の入れようが分ります。また他の被造物を支配し管理する目的で、神が人をご自分の形に、ご自分に似せて造られたことも分ります。
続く27節は言います。「神は人をご自分の形として人を創造された。神の形として人を創造し、男と女に彼らを創造された。」創世記は、神がわざわざ「男と女に」彼らを創造された、と言います。女性がひどく蔑視されていた旧約時代の異教世界全体の常識から見ますと、神が人を「男と女」に造られたと聖書が言うことは、驚異的なことでした。神は、ご自分の似姿に男も女も全く同じように創られたのです。従って、どちらの性が上で、どちらの性が劣っているかなどは、神の前では全く論外だということです。
この認識は非常に重要です。性暴力を行なったことのある男性には一般的に、女性を男の自分より下に見る傾向があります。また自分より低い階層の人とか、自分より劣った民族だと蔑んでいる相手には、人はひどい暴力を振うことに余り良心の痛みを感じないことが分っていますが、性犯罪、性暴力にも同じことが言えます。ですから、神の前で、自分とは違う、しかしあくまで神がご自分の形に造られた他の性の人の大切さを自分がどれだけ明確に認識しているか否かが、とても重要なのです。創世記1:27は言います。「神は人をご自分の形として人を創造され、…男と女に彼らを創造された。」
もう一つ大事な点があります。それは、創世記によれば、私たちが女か男かということ、すなわち、性を持っていることは、自分の人間性と人格の根本に関っていることであり、極めて重要だということです。
今は、LGBTとかLGBTQ、LGBTQ+ などと言われる性的少数者の方々のことがよく話題になります。例えば、性同一性障害の場合、生れつき体に備わっている性と、心の性との不一致に、大変苦しみます。何故そういう不一致が起るのか、またDNAレベルでの違いなどはどうなのかなど、今後、更に研究が進むと思いますが、ここではこれ以上触れることはできません。あくまで聖書が述べている範囲で考えてみます。
今、心に覚えたいことは、私たちは男または女の違いはありますが、根本的には性を持つ存在として生きるということです。どちらであるかは、神が永遠のご計画によって決められることですが、大切なことは、私たちは性を持つ、すなわち、性機能と性を持つ人間として、神に似せて造られたという点です。この事実を私たちはよく自覚し、それ故、自分の性機能を神の御前でよく管理し大切にし、また神の創造の目的に従って、女、男という特徴ある自らの性をよく生かしたいと思います。
まず、性的に放縦とかだらしないということは、単に体の問題に終らず、聖書によれば、神の形に造られた私たちの人間性や人格の根本に関わる問題なのです。自分の性に自覚と責任を持ってこそ、私たちは人格的にも高められるのです。
前にも申しましたが、十戒が第六戒で「殺してはならない」、つまり、私たちの命、存在そのものに関わる重要な点を取り上げたことに続き、すぐ第七戒で「姦淫してはならない」、すなわち、結婚と性を何より取り上げることの意義は大きいと思います。どちらも人格そのものに大いに関係しているのです。私たちは、神がご計画により夫々を男や女という性に造られ、主の十字架の愛と救いはそこにも及んでいることを改めてよく認識したいと思います。
そしてもう一つ。夫々、男性あるいは女性としての役割を、天に召される時まで、神からの召命として果たし、また自分とは違う性の人たちを尊び、その性を持つ存在としてその人たちが神の前に完成することに仕えたいと思います。創世記2:20に「助け手」という大切な言葉が出て来ます。その通り、私たちは夫々の性ならではの賜物や特徴を発揮し、足りない所は互いに「助け手」となって補い合い、神のご栄光、そして人の救い、つまり人の本当の幸せのために生き、また大切な主の体なる教会を建て上げることに、喜んで自分を献げたいと思います。