神の右に座するイエス(使徒信条の学び25)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 使徒言行録 2章29節~35節
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなた方に確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
2:30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
2:31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、「彼は陰府に捨て置かれず、その体は朽ちて滅びることがない」と語ったのです。
2:32 このイエスを、神は甦らせました。私たちは皆、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなた方が目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。
2:34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。
「主は、私の主に言われた。
あなたは、私の右の座に着いていなさい。
2:35 私があなたの敵を
私の足代とするまで。』使徒言行録 2章29節~35節
使徒信条を今日も続けて学びます。
前回は、主イエスが復活の後、天に昇られたことの意義を学びました。続いて使徒信条は、主イエスが「全能の父なる神の右に座し給えり」と告白します。
先程お読みしました使徒2:33で、ペテロは「神の右に上げられたイエス」と言います。そして34節では「ダビデが天に昇ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、私の右の座に着いていなさい。私があなたの敵を、あなたの足台とするまで。」』」と言い、詩篇110:1を引用して、要するに、イエスがメシア・救い主であられることを人々に教えました。マタイ22:43、44などにありますように、かつて、イエスが詩篇110:1により、ご自分について教えられたことをペテロは思い出して語ったのでしょう。
天に昇られたイエスが父なる神の右に座しておられることを教える御言葉(みことば)は、他にもあります。特に印象的なのは、使徒の働き7章の終りのステパノの殉教箇所です。ユダヤ人たちで石で打ち殺される時、彼は天を仰ぎ、7:56「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言いました。ステパノが見たイエスは、神の右に「立って」おられました。すなわち、彼の霊をしっかり受けとめようとしておられる主イエス・キリストでした。
ステパノは、人々が石を投げている間、7:59、60「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈り、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫んで死にました。信仰と愛の人として彼をここまで支えたのは、父なる神の右に座しておられる主イエスだったのです。告白したいことが沢山ある中で、使徒信条が敢えて「父なる神の右に座し給えり」とイエスを告白する理由も分ると思います。ここに、死を超えた深い慰めと励ましがあるからです。
なお、「神の右」とは、場所のことではありません。「右」は力や権威の象徴であり、自分の愛する者を置く所でもあります。つまり、天の父は、御子イエスを無限の愛をもって愛し喜び、御子イエスにご自分の一切の権威を授けられたのでした。
では、今、イエスは天の父なる神の右で、何をしておられるのでしょうか。無論、救いの働きをしておられます。特にウェストミンスター小教理問答の問23が言いますように、預言者、祭司、王としての働きをしておられます。そこで、今朝はこれらを確認したいと思います。
第一に、イエスは預言者、つまり、神の言葉を預かり、神の言葉を人に伝える務めをしておられます。具体的には、今、イエスは聖霊によって私たちの心を照らし、聖書の言葉と説教、また優れたクリスチャンたちの書物や言動を用いて、神の救いの愛と真理と知恵を教え、導いておられます。
イエスはまた、教会やクリスチャンたちを通して福音を世に伝え、あるいは、国や社会が神の律法に反することを行なう時には、罪を指摘し、悔い改めを説く預言者の働きをしておられます。教会とクリスチャンは、天におられるイエスの唇として、預言者の働きに召されているのです。職場、学校、近隣地域、家庭の中でも、です。
従って、神の右におられるイエスが聖霊と聖書を通して語られます神の真理の御言葉を絶えずよく聞き、また私たちを用いて福音と真理を世にお伝えになることに、私たちも是非、喜んで自分を献げたいと思います。
第二に救い主イエスは、祭司としてのお働きをしておられます。
メシア・救い主を預言する詩篇110の4節は、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と述べていました。つまり、救い主は祭司でもあるということです。
では、今、天にあって、イエスは祭司としてどのような働きをしておられるのでしょうか。ヘブル人への手紙からよく分りますが、イエスは信仰者のために絶えず父なる神に執り成して下さっています。
預言者は神に代って神の御心を人に伝えますが、祭司は人に代って人を神に取り次ぎます。
信仰がありましても、私たちは本当に弱い者だと思います。試練はこの世で必ずあり、多くのクリスチャンを苦しめ、時には背教させてきました。病気、事故、災害、人間関係の問題など、試練はヘブル12:6が言いますように、神による訓練の一つですが、私たちの姿勢次第で悪魔の試みともなります。
罪も同じです。イエス・キリストを心から信じることで、私たちは神の前に義とされます。しかし、腐敗した罪の性質が残っているため、私たちは罪を繰り返し犯します。悪魔・サタンはそこに働き、私たちは自分に絶望し、「私は駄目な者だ」と考え、救いを諦めたりすることもあります。
しかし、聖書は絶対に、私たちに救いを諦めよとは言いません。むしろ、こんな弱い私たちをもよくご存じで、天の父なる神に取り次いで下さる大祭司イエスを仰ぐ信仰をこそ励まします。ヘブル4:14以降は言います。「私たちには、諸々の天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みに遭われたのです。ですから、私たちは、憐れみを受け、また恵みを頂いて、折に適った助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
7:24、25も言います。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。従ってイエスは、いつも生きていて、彼らのために執り成しをしておられるので、御自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」
弱い私たちのために、イエスは、父なる神の右で、昼も夜も執り成し、私たちを完全に救おうとしておられます。このイエスの熱い執り成しを覚えて、私たちも是非、勇気と希望をもって進んで行きたいと思います。
第三に、主イエスは王としての働きをしておられます。
この働きに二つの面があります。一つは、天の御国(みくに)に入るに相応しい者となるために、信者を訓練し、ご自分に従わせることです。特に重要なのは、教会における霊的訓練です。イエスは教会の頭としてクリスチャンを訓練されます。学びと奉仕と交わり、牧師の助言や訓戒を通して、イエスは王として信徒を霊的に訓練し、ご自分に従わせ、罪と不信仰に勝たせようとしておられます。私たちを本当に愛しておられるからです。
牧師は信徒を自分に従わせるのではありません。信徒もまた牧師個人に従うのではありません。大切なことは、王として私たちを支配し、神の国に相応しい者となるように、常に私たちを訓練し、従わせようとしておられる主イエスのご意志です。教会はまさに主の霊的訓練の場なのです。
王にはもう一つ、民を敵から守る働きがあります。イエスも私たちを悪魔・サタンと永遠の滅びから守るために、全ての権威を父なる神から授かっておられます。
悪魔は、四六時中、私たちを狙っています。Ⅰペテロ5:8は言います。「あなた方の敵であるが悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」
けれども、悪魔がどんなに恐ろしくても、主イエスの権威に逆らってまで何かができるのではありません。私たちの髪の毛一本さえ、主の許可がなければ地に落ちませんし、主の御手から私たちを奪い去ることもできません。ヨハネ福音書10:28で、イエスはご自分を信じる者たちについてこう言われました。「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはできません。」
「全能の父なる神の右に…」と使徒信条を唱える時、私たちは、王としてのイエスの絶対的権威と支配を繰返し心に、是非、刻みたいと思います。ローマ帝国による迫害が続き、一方で自分自身の罪と不信仰を嘆き悲しむ中、古代教会が、単に「父なる神」ではなく、「全能の父なる神」と告白した意義は大きいと思います。ステパノが霊の目で見ましたように、古代教会のクリスチャンたちも、全能の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストを、信仰の目でハッキリ仰ぎ、平安と慰め、勇気を与えられたのでした。
同じように私たちも、今、全能の父なる神の右に座し、預言者・祭司・王として日夜、私たちの救いのために働いて下さっている神の御子、主イエス・キリストへのこの信仰に留まり、この信仰にハッキリ生き、そうして、この世が与えることも奪うこともできない主イエスの平安と御力に、是非、皆で与りたいと思います。
不安げな弟子たちに、十字架の前夜、イエスは言われました。ヨハネ福音書16:33「勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました!」