2020年06月28日「十字架と神の愛」

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十字架と神の愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 4章7節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネの手紙一 4章7節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 伝道礼拝の今朝は「十字架と神の愛」と題してお話させて頂きます。

 ご承知のように、十字架は大変残酷な死刑方法でした。犯罪人は裸にされ、それだけで死者が出たぐらい鞭(むち)打たれた後、広げた両手は太い鉄釘が撃ち込まれて横木に固定され、重ねた両足の甲も釘で縦木に固定されました。傷口には体重がかかり、恐ろしい痛みでした。犯罪人は晒し者にされ、悪寒と発熱が全身を襲い、発狂する者も出ましたが、死ぬまで放置されました。こういう残酷な十字架で神の御子イエス・キリストは殺されました。けれども、そこに私たちへの神の驚くべき愛があったのでした。

 人間は、物事の善悪を弁(わきま)え、特に造り主なる真(まこと)の神に自発的に喜んで応答する時、最も幸せな者として造られています。ところが、大切な自由意志を乱用して神に背き、人は皆生れながらに罪を持つ惨めな者となりました。聖書は、自分を正直に見つめた信仰者の言葉も沢山伝えています。例えば、ダビデは詩篇51:5で「私は咎(とが)ある者として生れ、罪ある者として、母は私を身ごもりました」と、自分の内にあるどうしようもない醜い罪を告白し、パウロもローマ7:19、24で「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と書いています。

 今まで、一度も嘘をつかず、罪深いことをしたことも考えたことも全くない人がいるでしょうか。過去一か月の心の中が全て皆の前で公にされて平気な人がいるでしょうか。人は騙せても、神は騙せません。ヘブル4:13と9:27 は言います。「神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。…人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」誰が大丈夫でしょうか。

 しかし、ここに福音があります!全く罪のない清い神の御子イエスが、私たちの罪を皆背負い、私たちに代って永遠の裁きを十字架で受けて下さったのです。

 自分の言葉一つ支配出来ない私たちに、自分を救う力など全くありません。しかし、神は御子イエスに私たちの情けない罪を全部償わせ、永遠の救い主として下さったのです。

 この世での生活は、無論、大切です。けれども、それは一時(いっとき)です。死後には永遠が待っています。永遠の命に至らないなら、何にもなりません。

 しかし、それを神は御子イエスにより、私たちに可能として下さいました。十字架は、イエスを救い主として心から信じ、依り頼むだけで、喜んで私たちに永遠の命を下さる神の愛を示しているのです。

 神には、神に背を向ける私たちを救う義務はありません。では、何故神はこうまでされるのでしょうか。先程お読みしましたヨハネの手紙一 4:8~10は言います。「神は愛だからです。神はその独り子を世に遣わし、その方によって私たちに命を得させて下さいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神は愛!ですから、こうまでして下さる!十字架はこのことを私たちに示しているのです。

 しかし、イエスの十字架の意義、恵みは他にもあります。

 第一に、十字架は、私たちが人生で味わう様々な苦難が、必ずしも因果応報の故(ゆえ)ではないことを示し、私たちに慰め、希望、勇気を与える神の愛をも示しています。

 因果応報思想は世界中にあり、日本でも根深いですね。苦難や災いは本人や親や先祖の悪によると言い、不幸に遭った当人もそうではないかと考え、自分を責めたりします。しかし、これ程、人を一層苦しめ、人を追い込む酷(むご)いものはありません。

 確かに、不摂生や悪習慣故の病気や失敗もあります。でも、全てがそうであるのではありません。現に、全く罪のない清い神の御子が十字架で殺されるという最大の苦難に遭われました。

 しかし、そこに私たちに対する神の驚くべき救いの愛のあることを聖書は伝えます。同じように、私たちが人生で味わう苦難を、因果応報的にではなく、将来に対する深い意味や目的を知る重要性を聖書は教えます。

 ある生れつきの盲人のことで、イエスは言われました。ヨハネ9:3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業(わざ)が現れるためです。」この言葉で、三重苦と言われたヘレン・ケラ-など、どれ程多くの人が救われ、希望や力を与えられたことでしょうか。人を苦しめる冷たい因果応報思想の鎖から、イエスの十字架は私たちを解放します!ここに神の愛があります!

 第二に、十字架は人間の様々な苦悩に対する神の愛をも示します。

私たちにとって最も耐え難い苦悩の一つは孤独でしょう。病気などで自分が皆より先に死ぬことが分った時などに、それを強く感じると思います。

 ホスピス医の山形謙二氏は言います。「癌の宣告と共に、殆どの者はどうしようもない孤独感に襲われる。皆が元気に生きて行くのに自分だけが取り残され、やがて自分だけが無理矢理死の世界に呑み込まれて行ってしまう。癌患者のケアは、その孤独感を和らげるものでなければならない。」この通りです。何故「自分」が死ななければならないのか!この堪らない孤独感は、本人にしか分らないと思います。

 けれども、ここでも十字架は神の愛を私たちに示します!実は、御子イエスもそれを体験され、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれました。イエスは、私たち罪人に代って神に捨てられるという最悪の孤独を体験されれたのでした。ですから、死という最大の孤独の時でさえ、私たちは誰にも分って貰えない絶望の中にあるのではありません。イエスは、絶望的な孤独さえ全て分り、御自分を頼る者と必ず共にいて支えて下さることを、十字架は私たちに語っています。旧約聖書の詩篇23の作者も神に歌いました。「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。」十字架の神の愛は、私たちの死の時の孤独にも及んでいるのです。

 またイエスは、十字架で猛烈な痛みや喉の渇き、体を動かせない苦痛も体験されました。これらも病気の末期によく表れる症状です。口が渇き、筋肉が衰えて体を動かせず、布団一枚、毛布一枚でも重く感じ、全身がだるい。猛烈な倦怠感が全身にある。けれども、イエスも正(まさ)にこれらを十字架で体験され耐えられました。それも私たちのためでした。

 それだけではありません。人間の最後で最大の苦痛と恐怖である死そのものをも体験し、死に勝ち、三日目に復活されました。ですから、今、天におられるイエスに分って頂けない苦痛など一つもなく、イエスを信じ寄り頼む者をイエスが絶対に耐えさせて下さることを、十字架は約束しています。ここにも神の愛は及んでいるのです。

 第三に、イエスの十字架は、私たちをも愛のある真に幸いな者へと創り変える神の愛を示しています。

 私たちは、第二次世界大戦中に、ドイツがアウシュビッツ強制収容所などでしたひどい犯罪を知っています。しかし、日本軍も随分ひどいことをしました。その一つは、クワイ河収容所でのことです。極度に貧しい食事による飢餓、強制労働、日本兵による暴行や虐殺、コレラやジフテリアなどの伝染病が重なり、そこでの生活は正に生き地獄でした。

 『死の谷を過ぎて』という体験記を書いたイギリス人将校アーネスト・ゴードンも、初めは皆と同じように、ただ日本兵を憎み、捕虜となった皆も互いに呪い合い、神を呪い、収容所中が呪いの言葉で満ちていたといいます。

ところが、我身を顧みず人のために尽くす小数のクリスチャンが現れ、収容所が段々変ります。何と収容所内に、自己犠牲、信仰、愛といった言葉が交され出します。ゴードンはなおも神を否定しましたが、ついに変えられます。何と収容所内に聖書研究会が生れ、竹薮集会と呼ぶ教会も生れました。

 やがて戦局が変り、バンコックへ移された時、見るも悲惨な日本人傷病兵たちに会います。ところが、ゴードンたちは誰かれとなく日本兵の所へ行き、水と食物を与え、膿を拭い、傷口に布を巻いてやるのでした。それを見た別の収容所からきた捕虜の連合軍将校たちがゴードンらに向って叫びました。「何ていう大馬鹿野郎なんだ。そこにいる奴らは俺たちの敵だ。」しかし、ゴードンは答えました。「私の敵はどこですか。彼らは敵ではなく、私たちの隣人ではありませんか。神は隣人を創られたのに、私たちが敵を造るのです。私たちの敵とは私たちの隣人なのです。」

 彼が振り返ると、1年前なら確実に日本兵に仕返ししていたはずの仲間の将校たちは、黙々と日本兵の傷口に布を巻いていました。十字架に表された神の愛は、戦争という人間の罪が最も露(あらわ)になる最悪の状況でも、人を本当にここまで変えたのでした。

 この世には余りにも不条理なことが多く、神はどうなっているのかと思うこともあるでしょう。しかし、どんなに厚い雲が空を覆っていても、その上には必ず太陽が輝いているように、イエスの十字架を仰ぐ時、神の愛は常にそこにあり、輝いています。

 十字架に表された神の愛を改めて信じ、私たちの罪の赦しと永遠の救いをしっかり確認すると共に、苦しみや悲しみ、不条理なことや矛盾も多い人生ですが、神の愛に支えられ、今度は私たちが少しでも多くの人の本当の意味での隣人とならせて頂き、神の愛を分かち合えるならば、と思います。

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