2023年05月07日「イエスは天に昇り(使徒信条の学び24)」

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イエスは天に昇り(使徒信条の学び24)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
使徒言行録 1章1節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1: 1 テオフィロ様、私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められた全てのことについて書き記しました。
1: 2 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
1: 3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。40日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
1: 4 使徒たちと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。
1: 5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1: 6 そこで使徒たちは、一緒に集まった時、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興して下さるのは、この時なのですか。」
1: 7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方の知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
1: 8 しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」
1: 9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれる時、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなた方が見たのと同じ有様で、またお出でになります。」
使徒言行録 1章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 古代教会が告白し、その後も、教会が絶えず告白して来ました使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を、またその恵みを、今日も確認したいと思います。

 イエス・キリストが「処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」までの所を、教理的に「キリストの低い状態・キリストの謙卑(けんぴ)」と呼ぶことを、前回申し上げました。そして、その後の「三日目に死人の内より甦り」からの部分を、「キリストの高い状態・キリストの高挙(こうきょ)」と呼びます。今朝は、その中の二つ目、主イエスの昇天について学びます。

 使徒1:3が伝えますように、イエスは復活後、40日間、弟子たちに度々現れ、「神の国」、すなわち、ご自分の救いの恵みを中心とする神のご支配について教え、その後、9節が伝えますように、「弟子たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなく」なりました。空間的、物理的な意味での天から、神の領域である霊的次元の天に移られたのでした。

 使徒信条は、この「イエスの昇天」を言葉は短いですが、キチンと告白します。そこで今朝は、これに伴う神の恵みを大きく三つ確認したいと思います。

 第一のことは、イエスは天に昇られることにより、地上におられた時よりも遥かに豊かに救いの御業(みわざ)を展開されるようになられたことです。

 十字架の死により、イエスは、私たちを罪と滅びから救う贖いを完成され、復活後も地上で救いの御業を続けることはできました。しかし、地上での働きには、どうしても制約があります。ユダヤを中心にイエスが活動されても、限られた地域の限られた人々しか、イエスから直接、福音に与ることができません。しかし、天に昇られるなら、イエスは、聖霊を通して空間的、物理的に全く制限されずに、救いの恵みを全世界の色々な地域の色々な人に、絶えずお与えになれます。

 人工衛星は高い空にあるからこそ、大切な情報を、地上の非常に広範囲の地域の人に絶えず送れます。イエスは昇天され、天の父なる神の御許(みもと)から、聖霊と聖書を通して、色々な場所の色々な人に福音を伝え、永遠の救いをお与えになれます。私たちが人知れず苦しみ呻いている時も、イエスは御霊を通して、人知を超えたご自分の平安や救いの力をお与えになるのです。

 ヨハネ16:7で、イエスは弟子たちにこう言われました。「私が去って行くことは、あなた方のためになるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はお出でになりません。でも、行けば、私はあなた方の所に助け主を遣わします。」助け主とは、無論、三位一体の第三人格であられる聖霊なる神、御霊のことです。事実、天にあってイエスは、あらゆる場所の信仰者の内に、聖霊によって住まわれ(内住)、救いを内側からも完成して下さるのです。

 二つ目の点に進みます。イエスの昇天は、この世で戦い続けるクリスチャンが、最終的に必ず勝利させて頂けることを保証します。

 戦いと言いましたが、クリスチャンには第一に、この世との霊的な戦いが常にあります。ローマ帝国から迫害され、多くの信仰者が殉教した古代教会のクリスチャンにとって、イエスが皆に先駆けて栄光の天に昇られた事実は、何と大きな励まし、慰めでしょうか。それは、信仰により主イエスと結ばれている者も、やがて必ず世に勝利し、栄光の天に入れられることを保証しているからです。これは今の私たちにも同じです。

 信仰の戦いは避けられません。この世は、クリスチャンが大人しくて人畜無害に見える限り、クリスチャンに対しても比較的好意的です。しかし聖書の言う通り、この世は根本的には神に敵対している世です。従って、クリスチャンが社会や国の様々な問題を信仰と良心に従って指摘したり、それに従わなかったりしますと、途端に牙を剥きます。Ⅰペテロ4:4は、以前は周りの皆と同じように生きていた人が、主イエスを信じ、主の御心に従って生き始めますと、皆が不審に思い、攻撃したことを伝えています。

 日本でも昔、厳しいキリシタン迫害があり、またキリスト教は耶蘇教と言われて罵られ、戦時中は治安維持法と宗教団体法で厳しく監視され、ホーリネス教団では牧師たちが逮捕され、獄中死しました。今も特に地方では偶像宗教と一体となった地域行事との関係で戦いがあります。宗教行事への参加を半ば強制する企業もあります。一軒の家の中でも戦いはあります。

 しかし、イエスはこの罪の世に勝利され、栄光の天に昇られました。これは、イエスを心から信じ、イエスに結ばれている者にも、いつか必ず実現します。イエスの昇天は、それを保証しています。

 第二に、この世の悲惨との戦いがあります。罪が入り込んで以来、世には自然災害、病気、戦争、貧困など、様々な悲惨が入り込んで来ました。体が不自由になり、僅か1mすら自分の足で歩けず、ベッド上で体を捻ることもできないことは、どんなに辛いでしょうか。世で生きることには、色々な苦しみ、涙が必ず伴います。

 しかし、使徒信条は告白します。主イエスも、罪を除いては私たちと全く同じ人間として苦しまれました。主も汗をいっぱい流し、喉が渇き、時には凍え、魂と体の医者としてとことん人々に仕え、疲れて舟の上で眠られました。そして最後は鞭打たれ、裸にされて両手両足を釘付けされ、十字架に掛けられ、息絶えるまで放置されました。想像を絶する痛み、苦しみ、渇きを味わわれました。イエスはこれら全てを私たちのために受けて死なれ、けれども復活され、弟子たちの前で栄光の天に昇られました。これは、イエスを信じる者は、世でどんなに辛い試練に遭っても、やがて一切が終り、必ず栄光の天に入れられる勝利の時が来ることを保証しているのです。

 第三に、クリスチャンには自分自身の罪との戦いがあります。

 信仰者の清め、いわゆる聖化は、地上では完成しません。私たちには、この世にいる間、腐敗した罪の性質があるため、自分の犯す醜い罪と何度も向き合い、戦わなければなりません。使徒パウロでさえ、ローマ7:19、24「私は、したいと願う善は行わないで、したくない悪は行っています。…私は本当に惨めな人間です」と告白しました。

 信仰生活を誠実に重ねて行けば、聖霊が私たちの内に聖化の実を結んで下さることは確かです。しかし世にいる間、私たちは生涯、罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない者です。いっぱい失敗もします。かつてイギリスで聖書に次いでよく読まれましたジョン・バニヤンの『天路歴程』には、クリスチャンという名前の主人公が最後まで罪と失敗を繰り返すことが書かれています。私たちの現実をよく映し出していると思います。

 しかし、忘れてはなりません!主は、私たちに先駆けて栄光の天に昇られました。これは、死の間際まで罪深い私たちでも、主を心から信じ、主に繋がっているなら、死の瞬間に聖霊により私たちの魂は全く清められ、言い換えますと、罪に勝利し、主と同じように私たちも栄光の御国へ入れられることを保証します。私たちは、そこで終りの日の復活を、主と共に待つのです。

 イエスは弟子たちに言われました。ヨハネ16:33「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました。」そのイエスの勝利に与る時が、クリスチャンの死であり、栄光の天に召される時なのです。ですから、パウロは言いました。ピリピ1:21「私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは益です。」20世紀最大の説教者の一人、D.マーテイン・ロイドジョンズは、1981年、81歳で天に召される時、親しい者に言いました。「癒しのために祈るな。私が栄光に入るのを止めてはならない。」イエスの昇天は、信仰者をここまで本当に死に勝利させるのです。

 三つ目を極簡単に見て終ります。私たち信仰者のための場所を天に準備するためにも、主イエスは天に昇られたということです。

 イエスは十字架に掛けられる前の夜、弟子たちに言われた。ヨハネ14:1~3「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住む所が沢山あります。そうでなかったら、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょうか。私が行ってあなた方に場所を用意したら、また来て、あなた方を私の許に迎えます。私がいる所に、あなた方もいるようにするためです。」主は、私たちの場所を天に確保するためにも、天に昇られたのでした。何という主の恵みでしょう!何と感謝なことでしょう!

 これらの恵みに、私たちより前に天に召された多くの信仰者が与っています。この世での彼らの戦いは、夫々大変厳しかったでしょう。しかし、決して空しくはありませんでした。

 私たちにも戦いは絶えませんが、主が天に昇られたことを通して示されたお約束の故に、この世での務めや奉仕に、夫々が改めて誠実に励み、共に支え合っていきたいと思います。

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