聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 第七戒を今日も学びます。前回は、結婚が夫婦双方に愛と誠実を生涯求められる厳粛かつ、この世で最も緊密な契約関係であることを学びました。また、キリスト教結婚式で新郎新婦が神と列席者の前で交す誓約の一つを取り上げました。式の時だけでなく、夫婦はその内容を生涯、繰返し覚え、実践すべきことは、改めて言うまでもありません。 さて、世間では何と多くの人が第七戒を破り、配偶者を裏切っているでしょうか。そのため、裏切られた方は、心にも生活にも深い傷を負い、苦悩の中に何年も過します。姦淫や不倫は誠に残酷です。何より、結婚を人間の幸せとご自分の栄光のために設けられた神の愛と配慮を踏みにじる、何と重い罪でしょうか。 また姦淫は、第八戒を破る盗みの罪、第九戒を破る虚偽の罪、第十戒を破る貪りの罪も重なる非常に重い罪でもあります。決して軽く考えてはなりません。ヘブル13:4は言います。「結婚が全ての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者を裁かれるからです。」主イエスは言われます。マタイ5:27~31「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯したのです。もし右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。もし右の手があなたを躓かせるなら、切って捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに落ちない方が良いのです。」 無論、罪意識に苦しみ、自分に絶望し、心の底から赦しを願うなら、イエスはお赦し下さいます。姦淫の現場で捕らえられ、連れて来られた女に、主イエスが言われたヨハネ8:11「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」という赦しの御声を聞くことを許されるでしょう。けれども、姦淫、不倫は決して軽く考えられてはならないことを、肝に銘じたいと思います。 以上、姦淫の罪深さを見ましたが、結婚関係が、愛と聖さに満ちた神にどれほど期待されているかを見て、今日は終ります。 エペソ5:21~28は言います。「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会の頭であり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻の頭なのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。同様に夫たちも、自分の妻を自分の体のように妻を愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。」 夫婦のあり方が、キリストと教会との関係に喩えられています。何と光栄で、かつ恐れ多いことでしょう。 少し確認します。22節は言います。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」 「従う」とありますが、これは21節で「互いに従い合いなさい」と言われている通り、妻だけに対する教えではありません。大事なことは、「主に従うように」と言われているように、上辺だけでなく、心底、誠実にということです。 そして23、24節は言います。「キリストが教会の頭(かしら)であり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻の頭なのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。」 無論、神の前では、夫婦は全く対等です。ただ、この世での秩序として、妻は夫を夫婦の頭と位置づけ、尊ぶということです。 次に25節は言います。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。」 妻に自分自身を本当に献げる愛を、夫は命じられています。イエス・キリストが教会を愛して、ご自分の命を献げられたように、です。更に28節まで、夫への言葉が続きます。単に生涯を共にするというのではなく、夫婦共々、ますます清められていくという、この結婚の大切な目的を、夫は決して忘れてはならず、その点でのリーダーシップを求められています。 私たちが自分の結婚生活をどう思っていようとも、命を献げるほどに、教会と私たちを愛しておられる主イエスは、夫婦関係を、ご自分と教会との献身的な愛と誠実さという関係で示し、それを強く望んでおられます。これを私たちは繰返し覚え、生涯をかけて、夫婦共々、本当に全人格的に成長させられたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
第七戒を今日も学びます。前回は、結婚が夫婦双方に愛と誠実を生涯求められる厳粛かつ、この世で最も緊密な契約関係であることを学びました。また、キリスト教結婚式で新郎新婦が神と列席者の前で交す誓約の一つを取り上げました。式の時だけでなく、夫婦はその内容を生涯、繰返し覚え、実践すべきことは、改めて言うまでもありません。
さて、世間では何と多くの人が第七戒を破り、配偶者を裏切っているでしょうか。そのため、裏切られた方は、心にも生活にも深い傷を負い、苦悩の中に何年も過します。姦淫や不倫は誠に残酷です。何より、結婚を人間の幸せとご自分の栄光のために設けられた神の愛と配慮を踏みにじる、何と重い罪でしょうか。
また姦淫は、第八戒を破る盗みの罪、第九戒を破る虚偽の罪、第十戒を破る貪りの罪も重なる非常に重い罪でもあります。決して軽く考えてはなりません。ヘブル13:4は言います。「結婚が全ての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者を裁かれるからです。」主イエスは言われます。マタイ5:27~31「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯したのです。もし右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いのです。もし右の手があなたを躓かせるなら、切って捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナに落ちない方が良いのです。」
無論、罪意識に苦しみ、自分に絶望し、心の底から赦しを願うなら、イエスはお赦し下さいます。姦淫の現場で捕らえられ、連れて来られた女に、主イエスが言われたヨハネ8:11「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」という赦しの御声を聞くことを許されるでしょう。けれども、姦淫、不倫は決して軽く考えられてはならないことを、肝に銘じたいと思います。
以上、姦淫の罪深さを見ましたが、結婚関係が、愛と聖さに満ちた神にどれほど期待されているかを見て、今日は終ります。
エペソ5:21~28は言います。「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会の頭であり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻の頭なのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。同様に夫たちも、自分の妻を自分の体のように妻を愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。」
夫婦のあり方が、キリストと教会との関係に喩えられています。何と光栄で、かつ恐れ多いことでしょう。
少し確認します。22節は言います。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」
「従う」とありますが、これは21節で「互いに従い合いなさい」と言われている通り、妻だけに対する教えではありません。大事なことは、「主に従うように」と言われているように、上辺だけでなく、心底、誠実にということです。
そして23、24節は言います。「キリストが教会の頭(かしら)であり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻の頭なのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。」
無論、神の前では、夫婦は全く対等です。ただ、この世での秩序として、妻は夫を夫婦の頭と位置づけ、尊ぶということです。
次に25節は言います。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。」
妻に自分自身を本当に献げる愛を、夫は命じられています。イエス・キリストが教会を愛して、ご自分の命を献げられたように、です。更に28節まで、夫への言葉が続きます。単に生涯を共にするというのではなく、夫婦共々、ますます清められていくという、この結婚の大切な目的を、夫は決して忘れてはならず、その点でのリーダーシップを求められています。
私たちが自分の結婚生活をどう思っていようとも、命を献げるほどに、教会と私たちを愛しておられる主イエスは、夫婦関係を、ご自分と教会との献身的な愛と誠実さという関係で示し、それを強く望んでおられます。これを私たちは繰返し覚え、生涯をかけて、夫婦共々、本当に全人格的に成長させられたいと思います。