イエスは三日目に甦り(使徒信条の学び23)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節
28: 1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
28: 2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28: 3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28: 4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
28: 5 御使いは女たちに言った。「あなた方は、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜していることは分かっています。
28: 6 ここにはおられません。前から言っておられた通り、甦られたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28: 7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中から甦られました。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなた方に伝えました。」
28: 8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
28: 9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます。」マタイによる福音書 28章1節~10節
長い歴史を通じてキリスト教会が告白してきました使徒信条により、今朝もキリスト教信仰とそれに伴う神の恵みや祝福を学びたいと思います。
ここ暫く、神の独り子、主イエス・キリストについての部分、特に主が「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」という所を見てきました。これらは教理的に「キリストの低い状態」とか「キリストの謙卑(けんぴ)」と呼ばれる所です。実際、主は神の独り子であるのに人間となられ、徹底してご自分を低くし、終に十字架で死なれました。
しかし、それで終りではありません。もしそれだけなら、キリスト教は生れず、私たちが今礼拝することもありません。十字架で死んだだけならば、イエスは単にその時代の人々に受け入れられなかった不幸な殉教者の一人に過ぎず、イエスを救い主と信じて来た弟子たちは、失意と絶望の内に残る生涯を過ごしただけでしょう。無論、新約聖書も書かれませんでした。
しかし実際は、使徒信条が告白しますように、イエスは三日目に甦られました!マタイ福音書の28章の初めは、イエスが復活された日曜日の明け方の様子を印象的に伝えています。特に主の使い、つまり天使から、イエスの復活を知らされた婦人たちの様子を生き生きと伝えています。8、9節「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると見よ、イエスが『お早う』と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」婦人たちはどんなに驚き、そして嬉しかったでしょう。夢を見ているようだったかも知れませんね。そんな彼女たちにイエスは10節「恐れることはありません。行って、私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます」と言って、優しく励まされました。
ご自分の復活を、イエスは十字架の死の前から何度も弟子たちに約束しておられましたが、とうとう本当に甦られたのです!そのため、イエスが捕えられ十字架につけられた時には、ユダヤ人たちを恐れて逃げ隠れしていた弟子たちは、間もなくイエスを大胆に伝える人たちに変り、人々の救いのために自分を捧げ、教会を作り、イエス・キリストを証しする新約聖書を書いたのでした。
またユダヤでは、礼拝は安息日の土曜日にすると決っていましたが、弟子たちは主が復活された日曜日毎に自然と集り、御言葉と祈りと賛美、また食事を共にし、日曜日を主の日と呼んで、礼拝の日に変えました。
言い換えますと、キリスト教が生れ、新約聖書が書かれ、日曜日が礼拝の日になったこと自体、イエスの復活の証拠と言えます。実際、イエスは金曜日に十字架で死なれ、ユダヤの数え方で三日目の日曜日の朝、約束通り復活されたのでした。
大切なことは、イエスの復活が何を意味するかです。3つほど見ます。
第一に、イエスの復活は、イエスが十字架で獲得された義に、信仰者は必ず与ることができることを示しています。
義とは、絶対的に正しい神の前に私たちが立つことのできる資格を意味します。生れながらの私たち罪人に、本来、その資格はありません。しかし、全く罪のない、きよい御子イエスが私たちの罪を全て背負い、十字架で命を献げることにより、イエスは私たちのために義を獲得して下さったのでした。
但し、イエスが甦られなかったならば、十字架の死が何であったのか分らず、イエスが本当に神の御子であることも分りません。しかしイエスは復活され、間違いなくご自分が神の独り子であり、十字架が、イエスを信じる者を神の前に義とすることのできる贖いの死であったことをハッキリ示されたのです。
死の力に打ち勝って復活されたイエスは、その後、天に昇られ、父なる神の右にあって、ご自分の獲得された義を、聖霊により信仰者一人一人に与えることがおできになります。死んで墓の中で朽ち果てたならば、それはできませんね。しかし主は復活され、救いの恵みを確実に信仰者にお与えになれるのです。ですから、ローマ4:24、25は言います。「私たちの主イエスを死者の中から甦らせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪の故に死に渡され、私たちが義と認められるために、甦られました。」
私たちは皆いつか神の前に立ちます。しかし、私たち罪人は一体、どうして立てるでしょうか。でも、ここに福音があります!私たち自身は罪深い者です。けれども、イエスの復活は、イエスが十字架で獲得された、全世界を贖って尚、余りある絶大な義に、私たち信仰者を与らせることができることを示します。ですから、私たちも未だ信仰は薄い者ですが、自分の全存在を主イエスに委ね、安心して生きていって良いのです。生きていって構いません。
第二にイエスの復活は、イエスを心から信じる者が、今や永遠の命に生きる者にされていることを示しています。
永遠の命には二つの面があります。一つは、当然のことですが、イエスが死の力を打ち破って示された永遠という面です。イエスを信じる者は、御霊によってイエスと結ばれていますので、その永遠の命に与っているのです。
体はいつか必ず死にますが、主イエスを信じる者の魂は、永遠に生かされます。イエスは言われました。ヨハネ11:25、26「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」
人間は、将来に希望があれば、困難の中でも、尚、前進できます。それを考えますと、私たちに永遠の命が与えられていることは、何と感謝なことでしょうか!
永遠の命のもう一つの面は、神に喜ばれるように生きることのできる倫理的側面です。これもイエス・キリストと結ばれている者に与えられています。ローマ6:4はこれを特にバプテスマ・洗礼と関係させて、こう述べます。「私たちは、キリストの死に与るバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、丁度キリストが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私たちも新しい命に歩むためなのです。」
私たちが洗礼を受けるとは、キリストと共に古い自分が死に、キリストと共にきよい命に生かされることを意味します。それはローマ6:11が言いますように、「神に対して生きる」命です。
現実の私たちクリスチャンは、洗礼を受けていても、尚、罪を繰り返し犯す情けない者ですね。しかし忘れてはなりません。それでも主から離れず、主に繋がっているなら、私たちの内には神に対して生きる新しい清い命が必ず働いています。主の復活がそれを示しています!ですから、これを覚えて、私たちも日々罪や不信仰と自覚的に戦い、そうしてイエス・キリストのきよい命に生かされている喜びや感謝を、更に味わうことを許されたいと思います。
第三に、主イエスの復活は私たち自身の復活を保証しています。Ⅰコリント15:20は言います。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られました。」初穂が後に続く収穫を保証するように、イエスの復活は、死んだ信仰者が世の終りに新しい永遠の世界に復活させられることの保証なのです。
死後、クリスチャンの魂は直ちに完全に清められ天に移されます。何と幸いでしょう!しかし、ずっとその状態ではありません。体があってこそ、人は人として完全なのです。
神は、今の罪に満ちた世界をやがて終らせ、Ⅱペテロ3:13が言いますように「義の宿る新しい天と新しい地」を創られます。それは罪も死もない全くきよい新しい世界です。そこにクリスチャンは新しい体を頂いて復活させられます。その体は、Ⅰヨハネ3:2が言いますように、きよいキリストに似た栄光の体です。ピリピ3:21も言います。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光に輝く体と同じ姿の変えて下さいます。」
今のこの世で、重い病気や大きなけがや障害などに苦しみ、涙を流しつつも、誠実に神の前に生きようとした人たちは、その時、主イエス・キリストに似た新しい完全な体を与えられ、跳び上がりたくなるほどの喜びで満たされることでしょう。また神にことごとく涙を拭われ(黙示録21:4)、これ以上ないほど慰められ、そして主の一方的な愛と恵みにより救われた無数の信仰者たちと共に、永遠に神を喜び、神を賛美している自分自身を発見することを許されるでしょう。
主は「三日目に甦り」という告白は、他の部分同様、とても簡潔で短いです。しかし、これの持つメッセージは、何と慰めに満ちていることでしょうか。主の復活が指し示す神の愛と恵みの豊かさ、確かさを、私たちも改めて思い巡らし、キリストの体なる教会にますます堅く結びつき、皆で励まし合い、主の御心に一層喜んで生きて行きたいと思います。