聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 途中で別の話をしたことも多かったですが、昨年の7月から始めました十戒の学びを続けます。39回目の今日は、第七戒「姦淫してはならない」に進みます。 ニュースを見ますと、性的な犯罪や問題の多さに辟易(へきえき)し、人間の罪深さに、ため息が出ます。しかし、今日はそういう点はひとまず側(そば)に置き、第七戒そのものの中心的な意義を学びたいと思います。 何度も確認しますが、第一戒から第四戒は対神的戒めであり、神に対する私たち人間の根本的あり方を教え、第六戒から第十戒は対人的戒めです。第五戒は対人的戒めに属しますが、対神的戒めとも関係する重要な役割を担っています。それを考えますと、第五戒のすぐ後に、大切な命を尊ぶことを命じる第六戒が来ることは、当然と思われます。 では、その次は何でしょうか。神は次に何を私たちに示されるでしょうか。第七戒「姦してはならない」です。 第五戒で、対神関係とも重なる大切な親と子という人間関係の根本を教えられ、第六戒で神の形に造られた人間の人格と尊厳に関る命を尊ぶことを教えられますが、その次に神が示されるのは、人間の結婚と性に関る第七戒なのです。それ位、結婚と性は大切だということです。 では、どういう意味で大切なのでしょうか。 第七戒は「姦淫してはならない」と言います。「姦淫する」と訳されていますヘブル語のナーアフは、基本的には、配偶者以外の異性と性的関係を持つことを意味し、特に男が他人の妻と性的関係を持つことに用いられる場合が多いそうです。とにかく、単に性的な罪や不潔さや不品行という以上に、何より結婚関係を破壊し、配偶者を裏切る罪の行為を意味します。 言い換えますと、第七戒は何よりも結婚関係を重んじ、夫と妻が互いに節操を保ち、そうして神が結婚に与えておられる祝福をますます確かなものにしていくことを私たちに求め、期待しています。それともう一点は、神が人間に与えておられる性は、あくまでも結婚関係においてのみ許され、結婚関係においてのみ神に真に祝福されるということです。 もう少し話を進めます。まず、結婚関係が如何に大切かという点ですが、実際、人と人との関係において、夫婦関係ほど緊密で近しいものはないでしょう。また、これ以上ない誠実さと責任とが夫婦相互に求められ、そうやって両者は生涯訓練されます。そういうことを通して、夫婦が全人格的に成長できるようにという大切な目的と意義が、神が設けられた結婚にはあるのです。 第五戒の扱う親子関係は、子供にとっては自分が生れた時から存在し、自分の意志でどうこうできるものではありません。ただ、それを受け入れ、自分の中で消化し、それを土台にして自分が人間として成長するのです。 しかし結婚関係は、結婚に至るまでの経緯はどうであれ、普通は、最終的にはあくまで自分の意志で選び、自分が決断するところの契約なのです。従って、そこには契約を結んだ配偶者に対し、生涯、重い責任が伴います。 キリスト教結婚式では、新郎新婦は神と列席者を結婚の証人としながら誓約をしますが、その誓約の三つ目の言葉は、今から始まる結婚生活では、生涯を通じて相手を愛し、誠実であることを誓う、非常に責任の重いものです。 司式者である牧師は、次の誓約を夫に求めます。 「あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助け、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。」 次は妻への言葉です。「あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、妻としての分を果たし、常にあなたの夫を愛し、敬い、慰め、助け、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの夫に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。」 要するに、配偶者への愛と誠実さが、夫にも妻にも、生涯にわたり、それもあらゆる時に求められます。 この世には様々な人間関係があります。しかし、お分りのように、結婚ほど、しばしば自分でもあまり気付いていない自分の罪深さや弱点が露(あらわ)になるものはありません。相手は、実は、私たち自身の不信仰や罪を映し出す鏡でもあるのです。しかし、そこが大切なのです。 神は、愛と誠実さという重い責任の伴う結婚生活を通して、私たち罪人を、長い時間をかけ、かつ毎日具体的に打ち砕き、訓練し、また相手を赦し、励まし、支えることを通して、双方に主イエス・キリストの義と愛と赦しを学ばせます。それらを通して、神は夫も妻も、主イエスの御姿(みすがた)に少しでも似る者へと清め、高めようとしておられるのです。 以上が、第七戒の中心的な意義と言えるでしょう。「姦淫してはならない。」 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
途中で別の話をしたことも多かったですが、昨年の7月から始めました十戒の学びを続けます。39回目の今日は、第七戒「姦淫してはならない」に進みます。
ニュースを見ますと、性的な犯罪や問題の多さに辟易(へきえき)し、人間の罪深さに、ため息が出ます。しかし、今日はそういう点はひとまず側(そば)に置き、第七戒そのものの中心的な意義を学びたいと思います。
何度も確認しますが、第一戒から第四戒は対神的戒めであり、神に対する私たち人間の根本的あり方を教え、第六戒から第十戒は対人的戒めです。第五戒は対人的戒めに属しますが、対神的戒めとも関係する重要な役割を担っています。それを考えますと、第五戒のすぐ後に、大切な命を尊ぶことを命じる第六戒が来ることは、当然と思われます。
では、その次は何でしょうか。神は次に何を私たちに示されるでしょうか。第七戒「姦してはならない」です。
第五戒で、対神関係とも重なる大切な親と子という人間関係の根本を教えられ、第六戒で神の形に造られた人間の人格と尊厳に関る命を尊ぶことを教えられますが、その次に神が示されるのは、人間の結婚と性に関る第七戒なのです。それ位、結婚と性は大切だということです。
では、どういう意味で大切なのでしょうか。
第七戒は「姦淫してはならない」と言います。「姦淫する」と訳されていますヘブル語のナーアフは、基本的には、配偶者以外の異性と性的関係を持つことを意味し、特に男が他人の妻と性的関係を持つことに用いられる場合が多いそうです。とにかく、単に性的な罪や不潔さや不品行という以上に、何より結婚関係を破壊し、配偶者を裏切る罪の行為を意味します。
言い換えますと、第七戒は何よりも結婚関係を重んじ、夫と妻が互いに節操を保ち、そうして神が結婚に与えておられる祝福をますます確かなものにしていくことを私たちに求め、期待しています。それともう一点は、神が人間に与えておられる性は、あくまでも結婚関係においてのみ許され、結婚関係においてのみ神に真に祝福されるということです。
もう少し話を進めます。まず、結婚関係が如何に大切かという点ですが、実際、人と人との関係において、夫婦関係ほど緊密で近しいものはないでしょう。また、これ以上ない誠実さと責任とが夫婦相互に求められ、そうやって両者は生涯訓練されます。そういうことを通して、夫婦が全人格的に成長できるようにという大切な目的と意義が、神が設けられた結婚にはあるのです。
第五戒の扱う親子関係は、子供にとっては自分が生れた時から存在し、自分の意志でどうこうできるものではありません。ただ、それを受け入れ、自分の中で消化し、それを土台にして自分が人間として成長するのです。
しかし結婚関係は、結婚に至るまでの経緯はどうであれ、普通は、最終的にはあくまで自分の意志で選び、自分が決断するところの契約なのです。従って、そこには契約を結んだ配偶者に対し、生涯、重い責任が伴います。
キリスト教結婚式では、新郎新婦は神と列席者を結婚の証人としながら誓約をしますが、その誓約の三つ目の言葉は、今から始まる結婚生活では、生涯を通じて相手を愛し、誠実であることを誓う、非常に責任の重いものです。
司式者である牧師は、次の誓約を夫に求めます。
「あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助け、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。」
次は妻への言葉です。「あなたは、神の教えに従い、清い家庭を作り、妻としての分を果たし、常にあなたの夫を愛し、敬い、慰め、助け、死が二人を分かつまで、健やかな時も、病む時も、順境にも、逆境にも、常に真実で愛情に満ち、あなたの夫に対して堅く節操を守ることを誓約しますか。」
要するに、配偶者への愛と誠実さが、夫にも妻にも、生涯にわたり、それもあらゆる時に求められます。
この世には様々な人間関係があります。しかし、お分りのように、結婚ほど、しばしば自分でもあまり気付いていない自分の罪深さや弱点が露(あらわ)になるものはありません。相手は、実は、私たち自身の不信仰や罪を映し出す鏡でもあるのです。しかし、そこが大切なのです。
神は、愛と誠実さという重い責任の伴う結婚生活を通して、私たち罪人を、長い時間をかけ、かつ毎日具体的に打ち砕き、訓練し、また相手を赦し、励まし、支えることを通して、双方に主イエス・キリストの義と愛と赦しを学ばせます。それらを通して、神は夫も妻も、主イエスの御姿(みすがた)に少しでも似る者へと清め、高めようとしておられるのです。
以上が、第七戒の中心的な意義と言えるでしょう。「姦淫してはならない。」