2023年04月23日「天からの命に生きる(召天者記念礼拝・伝道礼拝)」

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天からの命に生きる(召天者記念礼拝・伝道礼拝)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章25節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:25 私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。ヨハネによる福音書 11章25節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、故Wさんのご家族がご出席下さり、また求道者の皆様もお出で下さり、1年ぶりに召天者記念礼拝を捧げられることに心から感謝致します。ひと時、心を静め、聖書の大切な教えの一端を心に留めたいと思います。

 今朝は「天からの命に生きる」と題してお話致します。天からの命とは、要するに、天地の創り主なる真(まこと)の神が、2千年前、この世に救い主として遣わされた御子イエス・キリストにより、それも、ただイエスへの信仰を通して、私たちに与えて下さる神からの命を指します。これは当然、永遠の命です。天とつながっている命です。この世で全てが終り、私たちが永遠に滅んでしまう、そんな命ではありません。私たちを愛して下さっている父なる神また御子イエス・キリストと共に、神の国で永遠に生きる、喜びと安らぎに満ちた命です。

 先程のヨハネ11:25、26をご覧下さい。父なる神の許(もと)から全世界の救い主としてこの世に来られた神の御子イエスは言われました。「私は甦り(よみがえり)です。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」

 「私は甦りです。命です」とイエスは言われます。ご存じのように、2千年前、イエスは当時の罪深い人たちの手で十字架につけられ、殺されました。息を引き取った後も、ローマ兵はイエスの脇腹を槍で刺し、イエスの死を確認しました。イエスを心から信じ、従い、イエスに期待していた弟子たちは、どんなにショックを受け、落胆したことでしょう。

 しかし、何百年も前に書かれた旧約聖書が預言し、イエスご自身も約束しておられた通り、何と三日目の日曜日の朝、イエスは墓から復活されました。その後40日にわたり、イエスは度々弟子たちに現れ、大切なことを教え、確認し、やがて天に戻られました。

 こういうイエスが言われた言葉が、ヨハネ11:25、26です。「私は甦りです。命です。」イエスを、自分の救い主として心から信じる人は、神の恵みにより、罪を全て赦され、神の子供とされます。従って、いつ死んでも直ちに天国に迎えられ、またいつかこの世界が終り、神による新しい世界が出現する時、復活し、永遠に生きる者とされます。その意味で、神の御子イエスを信じる人は、永遠に決して死ぬことがない、ということです。

 神は、人類の歴史のただ中でなさったイエス・キリストの復活の出来事を通して、このことを私たちにハッキリ証言しておられるのです。

 ところで、世界には色々な宗教や哲学があり、霊魂の不滅を教えるものも昔からあります。この教えにも幾つかあり、その一つに輪廻転生(りんねてんしょう)の教えがあります。現生で、例えば、貪欲で汚れた罪深い生き方をした人が死ぬと、次は汚いことも平気な卑しい動物にとか、色々な所に色々な形で生える植物に、あるいは身分の低い人間に生れるとします。

  一方、正しい善い生き方をした人は、より幸福な人とか身分の高い人に生まれ変わるとし、このように永遠に生れ変りを繰り返します。そこで、功徳を積むのが良いとされます。

 霊魂不滅の思想の中でもう一つ有名なものは、自然や宇宙との合一というものです。すなわち、人間は死ぬと、この自然界や宇宙と合一し、一体となるというものであり、そういう形で魂は永遠に存在し続けるというものです。どちらも汎神論的な考えですね。

 他にも、キチンとした思想や哲学などはなく、世界の色々な宗教や哲学の教えを寄せ集めて、ただ何となく、人は死ぬとあの世や天国や極楽へ行くと、漠然と考えるものもあります。

 実は、イエスが2千年前、この世に来られた時のユダヤでも、旧約聖書があったにも関わらず、死後のことについて、割合、漠然としてしか捉えていない人たちもいたようです。イエスは、ユダヤ人の有名な先祖で信仰者であった3人の名前に神が言及された旧約聖書の「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉を引用した後、こう仰いました。マタイ22:32「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と。

 注目したいのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」という点です。言い換えますと、色々失敗もし不信仰な時もあったけれども、謙って心から神を信じ、また人に仕え、天を仰いで生きた信仰者は、今も神と共に本当に生きているということです。

 輪廻転生や宇宙との合一では、死んだ人の個性や特徴のあるその人の人格は、殆どないに等しいですね。漠然と天国や極楽にいるのではというのも、曖昧過ぎます。しかし、神の御子イエスによれば、ハッキリしています。辛くて涙を流すこともあり、また誉められる点だけでなく、首を傾げたくなるような欠点のあった人でも、心から神を仰ぎ、自分の不信仰と罪を悲しみ、しかし、少しでも人に寄り添い、人に仕えて誠実に生きた人は、天からの命に、今も本当に生きておられるのです。父なる神に感謝し、幼子のように最高の笑顔で喜び、安らぎ、神を賛美し、その人らしい良い個性も持ったまま、神に愛され、神との最高の交わりの中に生きておられる!そのことを思いますと、私たちも嬉しくなり、神を称えないではおられませんね。

 先程、司式者の祈りの言葉にありましが、元教会員のKさんは、5年前の2月10日、94歳で天国に旅立たれました。私はお会いしたことがありませんが、認知症になられても常に讃美歌を口ずさんでおられたとのことで、幼子のような信仰者であられました。今や信仰によって与えられた天からの命、イエス・キリストの温かい清い命に生き、笑顔で、今も同じように神の前で賛美しておられることを思いますと、私たちの心も温かくなり、嬉しくてワクワクしますね。

 また、Wさんは7年前の4月28日、68歳で天に召されました。彼女はキリスト教をしっかり知りたいと思って熱心に教会に通われ、洗礼を受けられました。病状は良くありませんでしたが、病院から教会の礼拝に通われ、聖書の神の御言葉(みことば)に耳を傾けておられたと聞きます。神への何と真摯(しんし)な姿勢でしょうか。

 Wさんは若い頃、ミャンマーで日本の医療ボランティア・ティームの栄養士として働かれました。それぐらい熱い志を持ったしっかりした方でしたが、晩年は、彼女も幼子のように素直で感謝を忘れない温かい方だったと聞きます。

 彼女は讃美歌85番、従って讃美歌21の227番がお好きでした。その歌詞を、ご自分の死を意識しながら68歳で天に召された彼女の胸の内を思いながら、ご一緒に見たいと思います。

 1節「主の真理(まこと)は 岩のごとし。逆巻く波にも 揺るぎもなし。」この後の「とうときかな 天の神は、力にあふるる とこしえの主」は、全節で繰り返されます。

 2節に進みます。「主の恵みは 浜の真砂(まさご)、その数いかでか 数え得べき。」

 3節「弱きわれも 心つくし、わが主にすがらば 力をぞ得ん。」

 4節「主の真理(まこと)と その恵みを、望みてわれらは 安らぎを得ん。」

 如何でしょうか。Wさんの真摯な信仰に、今、私たちはどんなに教えられるでしょうか。

 しかし今朝、特に心に留めたいことは、彼女たちがかつて生きておられたというだけでなく、今この時も、天の父なる神の前で、御子イエスの下さる天からの清い命に満たされ、生き生きと輝くお顔で生きておられるということです。私たちと同じように、いいえ、遥かに喜びと感謝に満ち、神の子供とされた無数の人々と共に神を賛美し、また今、地上にいる私たち、特に愛するご家族のことも覚えながら、彼女たちは生きておられるのです。

 イエスが与えて下さる天からの命、永遠の命は、私たちがイエス・キリストに心を開き、受け入れ、依り頼む時から、実は始まっています。ですから、お二人の晩年には、きっとそれまでにはなかった、あるいは、それまでにもありましたけれども、良い面がもっとはっきりと現れておられたと思います。例えば、神を真に畏れる所から来る謙虚さ、正直さ、また穏やかさ、希望、そして体の辛さにも関らず、家族や人への気遣い、「ごめんね」と謝る言葉や感謝の言葉も、たくさんあったのではないかと思います。

 いずれにせよ、御子イエスへの幼子のような素直な信仰を通して与えられる天からの命、力ある命、麗しい命は、何物をもってしても決して滅ぼすことはできません。天地を創られた全能の神の愛による永遠の命だからです。

 「私は甦りです。命です」と言われた、赦しと憐れみ、愛と清さに満ちたイエス・キリストの下さる天からの命に、たとえ私たち、欠けた信仰者であっても、是非、ご一緒に生きることを許されたいと思います。

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