Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 11:25 私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。11:26 また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。ヨハネによる福音書 11章25節~26節 メッセージ 神の御子イエス・キリストが十字架の死から甦られたことを祝うイースター礼拝を、今年も全世界の教会と共に持つことができ、感謝でございます。 イエスの復活は、四つの「福音書」と「使徒の働き」がよく伝えていますが、最初は弟子たちも信じられませんでした。しかし、復活されたイエスが彼らに現れられ、天に戻るまでの40日間、大切なことを話されました。やがて、弟子たちは命をかけてまで救い主イエスを全世界に宣べ伝え、今に至っています。今朝は、このイエスの復活の意義を、三つばかり、改めて確認したいと思います。 では、どんな意義があるでしょうか。一つは、イエスの復活は、天地を創られた真(まこと)の神の存在を証ししていることです。 人間は神の存在を簡単には信じられません。神は、目に見えず、手でさわれず、人間の認識能力を遥かに超えたお方ですし、人間には罪の性質があり、心の目が曇っているからです。しかし、神はこんな私たちにも分るように、自己紹介をされました。それがイエス・キリストです。約2千年前、神はご自分の独り子(ひとりご)を人間イエスとして世に遣わされ、イエスは救い主として、旧約聖書に示されていた父なる神ご自身と人間に対する神の大切な御心を、まずユダヤ人たちに示されました。しかし、不信仰で頑なでした当時のユダヤ人たちはイエスを煩わしく思い、十字架で殺してしまいました。しかし、実はこのことも旧約聖書で預言され、詩篇16などには、救い主が死の世界に捨て置かれず、つまり、甦ることも暗示され、預言されていたのでした。 今朝は、旧約聖書の細かい説明は省きますが、確認したいことは、救い主の誕生や死、特に驚くべき復活が旧約聖書の預言通りに起り、またイエスご自身も復活を約束しておられ、こうして、神がおられることが見事に立証されたということです。 人は色々理屈をつけて神を否定し、クリスチャであってもつい疑問に思うことがあると思います。しかし、そういう時こそ、歴史の直中で起った特にキリストの復活の出来事を思い起し、その背後に神がおられ、聖書の言葉が必ず実現することを確認し、そうして神に喜ばれる道を選び取り、固く踏みしめて行きたいと思います。 二つ目に進みます。それは、神の愛がキリストの復活に見事に証しされていることです。 根本的なことですが、父なる神は何故、ご自分の独り子を人間イエスとして、残酷な戦争や性の乱れ、盗みや搾取、略奪、嘘、偽りに満ちた、この罪の世に遣わされたのでしょうか。それは、数々の醜い恥かしい罪のために、やがては永遠の裁きと永遠の死に至る他ない、私たち罪人への計り知れない愛の故でしかありませんでした。 行いだけでなく、私たちは、ものを見る目、口にする言葉、心で思うことにおいても、どんなに多くの自己中心の罪を犯しているでしょうか。試しに昨日の一日、自分が口にし、心で密かに思い、目で追ったことを全部、皆の前で大きな画面とスピーカーで再現されて、平気な人がいるでしょうか。いるはずがないですよね。 私たちはすぐ忘れますが、神はご自分のビデオに今申し上げたような私たちの一生分のデータを全部保存しておられます。死後、私たちはそれに基づき、神の裁きを受けます。誰が大丈夫でしょうか。誰が耐えられるでしょうか。 こんな罪人の私たちを救う義務は、神には一切ありません。ところが、何と、このどうしようもない私たちを赦し、私たちの罪の記録も全部削除するために、神は御子を世に送られたのです。そして、私たちの罪の身代りとして御子を十字架で罰し、死に至らせ、また御子を復活させることにより、罪の赦しと永遠の命を、ただイエス・キリストへの信仰を通して私たちに下さるのです。何という神の愛でしょう!ですから、Ⅰヨハネ4:9、10は言います。「神は、その独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)の捧げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 繰り返します。イエスは十字架で死なれただけでなく、復活されました。それは、ご自分への信仰を通して、罪の赦しと共に、私たちを神の子供とし、神と共に生きることの出来る永遠の命を与えるためでした。愛は、一緒にいたいですし、一緒に生きたいですね。イエスの復活には、こういう神の勿体ないばかりの愛が現わされているのです。 この世には余りにも悲惨なことが多く、私たちには神の愛が分からなくなることもあると思います。しかし、そういう時こそ、イエスの十字架と、特に復活を思い起し、神から離れるのではなく、むしろますます神の愛の中に留まりたいと思います。 最後、三つ目を見て終ります。実はこれが今日、一番確認したいことです。何でしょうか。イエスが信仰者に下さる永遠の命の素晴らしさです。 先程お読みしましたヨハネ11:25、26でイエスは言われました。「私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」 要するに、御子イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼む者は皆、体は死んでも、魂は永遠に滅びることがなく、永遠に生きることができるということです。復活され、今、天の父なる神と共におられる御子イエス・キリストが、永遠の命を、聖霊を通して信仰者に下さるのです。 ところで、永遠の命とはどういうものでしょうか。永遠で死なない命ですが、そういう物理的な長さと共に、更に素晴らしいのは、その質であり働きの内容です。 ヨハネ17:3は言います。「永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ここの「知る」は、知的な知り方以上に、神と交わるというぐらい、親しい知り方であり、特に喜びや感謝や感動が伴う知り方です。 私たちは、体の命だけでは天地の創り主なる真の神を知ることは出来ません。しかし、まだとても未熟で米粒のように小さくても、救い主イエス・キリストを受け入れる素直な信仰があるなら、私たちの内に、イエス・キリストからの永遠の命は始まっているのです。そしてそれは、この世に生きている今も、必ず私たちに神の素晴らしい創造と摂理の業(わざ)についての新しい発見と喜びと感動を与えます。 3月のある月曜日、私は妻と共に久し振りに玉野市の深山(みやま)公園と赤松池へ行きました。白鳥や、数え切れないぐらいの多くの鴨がいました。お昼過ぎで少し温かく、近くに寄っても鴨がじっとしていて、目を瞑り、眠りますので、よ~く観察してみました。すると、その羽の形、色合い、模様、デザインの絶妙とも言える美しさに感動し、「あぁ神様、何と素晴らしいでしょう!」と思わず神を賛美しました。 これは、道端や野原に生えている小さな花でも同じですね。どんなに見事に着飾って生きているでしょうか。本当に感動します。 そう言えば、イエスはマタイ6:25以降で、「空の鳥を見なさい。…野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」とお教えになりました。神の下さる永遠の新しい命には、実際、こういう発見や気付きがあるのですよね。 また、ローマ12:15が言います<喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く>という人間にとって誠に尊い共感!更に、人を愛し、赦し、心から大切にし、人の愛、優しさ、思いやりも分り、心から神に感謝する!こういうことも、永遠の命は私たちに可能とさせます。 何より永遠の命には、神の存在、知恵、力、聖さ(きよさ)、義しさ(ただしさ)、善・愛、真実、美しさを徐々に知ることのできる最高の喜びと感動があります。 しかし、永遠に生きるって、退屈ではないのでしょうか。いいえ、神は余りに素晴らしいお方ですから、その神の素晴らしさを知り尽くすのには、永遠を要するのです。イエスの下さる命は、まさしく、それを信仰者にいよいよ味わわせ、神を永遠に喜ぶことを可能にするのです。何という幸いでしょうか! イエスは言われます。「私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」 復活のイエス・キリストが下さる、この素晴らしい、そして美しい永遠の命の恵みと祝福に、是非、ご一緒に更に与りたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
神の御子イエス・キリストが十字架の死から甦られたことを祝うイースター礼拝を、今年も全世界の教会と共に持つことができ、感謝でございます。
イエスの復活は、四つの「福音書」と「使徒の働き」がよく伝えていますが、最初は弟子たちも信じられませんでした。しかし、復活されたイエスが彼らに現れられ、天に戻るまでの40日間、大切なことを話されました。やがて、弟子たちは命をかけてまで救い主イエスを全世界に宣べ伝え、今に至っています。今朝は、このイエスの復活の意義を、三つばかり、改めて確認したいと思います。
では、どんな意義があるでしょうか。一つは、イエスの復活は、天地を創られた真(まこと)の神の存在を証ししていることです。
人間は神の存在を簡単には信じられません。神は、目に見えず、手でさわれず、人間の認識能力を遥かに超えたお方ですし、人間には罪の性質があり、心の目が曇っているからです。しかし、神はこんな私たちにも分るように、自己紹介をされました。それがイエス・キリストです。約2千年前、神はご自分の独り子(ひとりご)を人間イエスとして世に遣わされ、イエスは救い主として、旧約聖書に示されていた父なる神ご自身と人間に対する神の大切な御心を、まずユダヤ人たちに示されました。しかし、不信仰で頑なでした当時のユダヤ人たちはイエスを煩わしく思い、十字架で殺してしまいました。しかし、実はこのことも旧約聖書で預言され、詩篇16などには、救い主が死の世界に捨て置かれず、つまり、甦ることも暗示され、預言されていたのでした。
今朝は、旧約聖書の細かい説明は省きますが、確認したいことは、救い主の誕生や死、特に驚くべき復活が旧約聖書の預言通りに起り、またイエスご自身も復活を約束しておられ、こうして、神がおられることが見事に立証されたということです。
人は色々理屈をつけて神を否定し、クリスチャであってもつい疑問に思うことがあると思います。しかし、そういう時こそ、歴史の直中で起った特にキリストの復活の出来事を思い起し、その背後に神がおられ、聖書の言葉が必ず実現することを確認し、そうして神に喜ばれる道を選び取り、固く踏みしめて行きたいと思います。
二つ目に進みます。それは、神の愛がキリストの復活に見事に証しされていることです。
根本的なことですが、父なる神は何故、ご自分の独り子を人間イエスとして、残酷な戦争や性の乱れ、盗みや搾取、略奪、嘘、偽りに満ちた、この罪の世に遣わされたのでしょうか。それは、数々の醜い恥かしい罪のために、やがては永遠の裁きと永遠の死に至る他ない、私たち罪人への計り知れない愛の故でしかありませんでした。
行いだけでなく、私たちは、ものを見る目、口にする言葉、心で思うことにおいても、どんなに多くの自己中心の罪を犯しているでしょうか。試しに昨日の一日、自分が口にし、心で密かに思い、目で追ったことを全部、皆の前で大きな画面とスピーカーで再現されて、平気な人がいるでしょうか。いるはずがないですよね。
私たちはすぐ忘れますが、神はご自分のビデオに今申し上げたような私たちの一生分のデータを全部保存しておられます。死後、私たちはそれに基づき、神の裁きを受けます。誰が大丈夫でしょうか。誰が耐えられるでしょうか。
こんな罪人の私たちを救う義務は、神には一切ありません。ところが、何と、このどうしようもない私たちを赦し、私たちの罪の記録も全部削除するために、神は御子を世に送られたのです。そして、私たちの罪の身代りとして御子を十字架で罰し、死に至らせ、また御子を復活させることにより、罪の赦しと永遠の命を、ただイエス・キリストへの信仰を通して私たちに下さるのです。何という神の愛でしょう!ですから、Ⅰヨハネ4:9、10は言います。「神は、その独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)の捧げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
繰り返します。イエスは十字架で死なれただけでなく、復活されました。それは、ご自分への信仰を通して、罪の赦しと共に、私たちを神の子供とし、神と共に生きることの出来る永遠の命を与えるためでした。愛は、一緒にいたいですし、一緒に生きたいですね。イエスの復活には、こういう神の勿体ないばかりの愛が現わされているのです。
この世には余りにも悲惨なことが多く、私たちには神の愛が分からなくなることもあると思います。しかし、そういう時こそ、イエスの十字架と、特に復活を思い起し、神から離れるのではなく、むしろますます神の愛の中に留まりたいと思います。
最後、三つ目を見て終ります。実はこれが今日、一番確認したいことです。何でしょうか。イエスが信仰者に下さる永遠の命の素晴らしさです。
先程お読みしましたヨハネ11:25、26でイエスは言われました。「私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」
要するに、御子イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼む者は皆、体は死んでも、魂は永遠に滅びることがなく、永遠に生きることができるということです。復活され、今、天の父なる神と共におられる御子イエス・キリストが、永遠の命を、聖霊を通して信仰者に下さるのです。
ところで、永遠の命とはどういうものでしょうか。永遠で死なない命ですが、そういう物理的な長さと共に、更に素晴らしいのは、その質であり働きの内容です。
ヨハネ17:3は言います。「永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ここの「知る」は、知的な知り方以上に、神と交わるというぐらい、親しい知り方であり、特に喜びや感謝や感動が伴う知り方です。
私たちは、体の命だけでは天地の創り主なる真の神を知ることは出来ません。しかし、まだとても未熟で米粒のように小さくても、救い主イエス・キリストを受け入れる素直な信仰があるなら、私たちの内に、イエス・キリストからの永遠の命は始まっているのです。そしてそれは、この世に生きている今も、必ず私たちに神の素晴らしい創造と摂理の業(わざ)についての新しい発見と喜びと感動を与えます。
3月のある月曜日、私は妻と共に久し振りに玉野市の深山(みやま)公園と赤松池へ行きました。白鳥や、数え切れないぐらいの多くの鴨がいました。お昼過ぎで少し温かく、近くに寄っても鴨がじっとしていて、目を瞑り、眠りますので、よ~く観察してみました。すると、その羽の形、色合い、模様、デザインの絶妙とも言える美しさに感動し、「あぁ神様、何と素晴らしいでしょう!」と思わず神を賛美しました。
これは、道端や野原に生えている小さな花でも同じですね。どんなに見事に着飾って生きているでしょうか。本当に感動します。
そう言えば、イエスはマタイ6:25以降で、「空の鳥を見なさい。…野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」とお教えになりました。神の下さる永遠の新しい命には、実際、こういう発見や気付きがあるのですよね。
また、ローマ12:15が言います<喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く>という人間にとって誠に尊い共感!更に、人を愛し、赦し、心から大切にし、人の愛、優しさ、思いやりも分り、心から神に感謝する!こういうことも、永遠の命は私たちに可能とさせます。
何より永遠の命には、神の存在、知恵、力、聖さ(きよさ)、義しさ(ただしさ)、善・愛、真実、美しさを徐々に知ることのできる最高の喜びと感動があります。
しかし、永遠に生きるって、退屈ではないのでしょうか。いいえ、神は余りに素晴らしいお方ですから、その神の素晴らしさを知り尽くすのには、永遠を要するのです。イエスの下さる命は、まさしく、それを信仰者にいよいよ味わわせ、神を永遠に喜ぶことを可能にするのです。何という幸いでしょうか!
イエスは言われます。「私は甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」
復活のイエス・キリストが下さる、この素晴らしい、そして美しい永遠の命の恵みと祝福に、是非、ご一緒に更に与りたいと思います。