2023年04月06日「ナルドの香油 イエスを愛する 1(受難週祈祷会メッセージ)」
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ナルドの香油 イエスを愛する 1(受難週祈祷会メッセージ)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 12章1節~8節
聖書の言葉
12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスと共に食卓に着いていた人たちの中にいた。
12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
12:5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、私の葬りの日のために、それを取っておいたのです。
12:8 貧しい人々は、いつもあなた方と一緒にいますが、私はいつも一緒にいるわけではありません。」ヨハネによる福音書 12章1節~8節
メッセージ
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過越祭の6日前、すなわち、十字架にかかられる6日前、イエスはベタニアへ来られ、その時、マルタ、マリア、ラザロの3兄弟の中のマリアから、ナルドの香油を注がれました。これは、マタイ26:6以降もマルコ14:3以降も伝えている有名な出来事の一つです。受難週祈祷会の今日は、ここから少し学びたいと思います。
この時、イエスがベタニアへ来られることは、実は大変危険なことでした。11:53が伝えますように、ユダヤ教当局がイエスを殺そうとしていたからです。しかし、全世界の救いのためにご自分が十字架につく時が近づいていることを自覚しておられた主は、天の父なる神の御心ならば、どんな状況であろうとも従われます。ここに、主の御足(みあし)の跡に従うべく召されている私たちクリスチャンの基本姿勢を、改めて教えられます。
さて、福音書記者ヨハネが一番伝えたいのは、イスカリオテのユダのこともありますが、何より、主イエスへのマリアの愛と、それを喜ばれるイエスのことでしょう。3節「マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで一杯になった。」この時の光景が目に浮かぶようですね。素敵な香りまで匂ってきそうです。
しかし何故、マリアはこんなことをしたのでしょうか。3節は、ギリシア語原文では「だから」という言葉で始まります。つまり、2節が伝えますように、イエスに甦らせられたラザロが元気に食卓に着いているのを見て、マリアはただただイエスへの感謝と愛とから、このようにしたのでした。ユダはマリアを非難しましたが、イエスは彼女を弁護されます。ヨハネは、このマリアの姿を通して、主イエスを愛するとはどういうものなのかを、伝えたいのだと思います。
では、どういうものなのでしょうか。ニ、三ありますが、今日は一つだけ見ます。それは、深い謙り(へりくだり)と一体となった愛だということです。
マタイとマルコの記述によりますと、マリアはイエスの「頭」に香油を注ぎましたが、ヨハネは彼女がイエスの「足」に塗ったことを伝えます。これは矛盾ではありません。当時のユダヤの正式な食事の場では、低い食卓を前にして、客は長椅子のようなものに体を少し横たえ、左手で上体を支えて持ち上げ、右手を伸ばして食事を取りました。従って、香油は足にも割合簡単に塗れたのです。
そうなのですが、ヨハネは、マリアがイエスの「足」に香油を塗ったことに注目しているようです。ギリシア語原文でも「足」という言葉が、3節に2回出て来ます。ヨハネは何を伝えたいのでしょうか。マリアがどんなに自分を低くしたかということです。
あとの13:4以降には、イエスが弟子たちの足を洗われたことが伝えられています。当時、人の足を洗うことは、召使いや奴隷のする仕事でした(Ⅰサムエル25:41参照)。つまり、自分を低くして互いに仕え合うことを、イエスは弟子たちに教えられるのですが、マリアは主イエスのその足に香油を注いだのでした。
それだけではありません。彼女は、女性がいつも手入れをして綺麗に整え、女性の命と言われることも多い自分の大切な髪の毛で、主イエスの足を拭ったのでした。ここに彼女が、自分を主の御前でどんなに低くして主を愛していたかが、よく表れていると思います。
そして実は、私たちクリスチャンが主イエス・キリストを愛しているとは、このようにイエスの御前(みまえ)に自分自身を徹底して低くし、献身的に主にお仕えすることを抜きにしては、あり得ないことを教えられているのだと思います。主を信じ、主を愛していると言いながら、主に対して召使のように自分を心から低くしてお仕えするという気持がないなら、その愛は偽物ではないかと思わされます。
マリアは、大切な髪の毛を用いました。いいえ、髪の毛だけではありません。彼女は3節「純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ」を注ぎました。マタイとマルコの記述によりますと、それの入った小さな壺を壊してイエスの足に注ぎ、大切な自分の髪の毛で拭ったのです。
私たちが、常日頃からとても大切だと思っているものを惜しげもなく、しかも心から謙って献げるということがないなら、主イエスへの私たちの愛とは果たして何なのかと、聖書のこの箇所から改めて考えさせられます。
クリスチャンは当然、主イエスを自分の救い主と信じています。しかし、本当の信仰者はそこで留まるのではなく、主を愛さずにはおられません。ですから、パウロは、Ⅰコリント16:22で、「主を愛さない者は皆、呪われよ」とまで思い切って述べるのです。しかしその愛は、マリアのように、本当に自分を低くし、主の足を是非洗ってさし上げたいという思いで、主に仕えることを抜きにしては、ないことを教えられます。
受難週のこの時、私たちのために極みまで苦しまれ、命を献げてまで私たちを愛し、今も愛し続けて下さっているその主イエスへの愛を、改めて深く静かに自分に問い、主の愛に皆でお応えしたいと思います。