2023年03月26日「信仰は必要ですか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が彼のささげ物を良いささげ物だと証しして下さったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです。ヘブライ人への手紙 11章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、求道者の皆様もお越し下さり、心より感謝致します。今日は、信仰の必要性についてお話させて頂きます。

 なお、今ここで言う信仰とは、人間が頭で考え出し、あるいは手で作った、いわゆる偶像への信仰ではありません。天地の創り主であられ、私たちの救い主としてご自分の御子イエス・キリストを世に遣わされた真(まこと)の神への信仰を指します。

 世の中には、神存在を否定する人も多いですが、今は、それには触れません。ご自分が創られたこの被造世界(宇宙や自然界)などを通して、また特に聖書と御子イエス・キリストによりご自分を現しておられる真の神がおられることを前提にして、お話致します。

 さて、信仰は必要でしょうか。答は無論、「はい」です。先程お読みしましたヘブル11:1~6には「信仰によって」という言葉が何度も出て来ます。詳しい説明は省きますが、信仰が非常に大切であることが、繰返し言われています。

 例えば、2節に「昔の人たちは、この信仰によって称賛され」た、とあります。信仰のお蔭で神に喜ばれたということです。3節は、信仰には創り主なる神を認識する能力のあること、4節は、アベルという人が信仰によって神に喜ばれることができたこと、5節は、エノクという人が信仰により素晴らしい体験をしたことを伝えます。そして6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と言う。つまり、私たちは信仰によって、私たちを造られた真(まこと)の神に喜ばれ、真(しん)に幸いな者になれるのであり、信仰は絶対に必要だということです。

 その後も、信仰の大切さと必要性が、11章の終りまで書かれています。

 以上の点だけでも、信仰は必要であることが分かると思います。ただ今朝は、聖書全体から別の四つの点をお話したいと思います。

 第一に、信仰は私たちを、人間として最も大切で幸せなことの一つである「謙遜」な者にします。

 謙遜さ。へりくだり。何と大切でしょう。謙遜でなく高慢な人は、何でもつい強引に人をねじ伏せ、自分の力を人に認めさせ、自分を誇示します。その時は気分が良く、満足感もあるでしょう。しかし、高慢な人は必ず周りの人の心を傷つけ、不快にさせます。ですから、人に嫌われ、慕われることはありません。表面的には、人は付き合い、話を合せ、お愛想も言います。でも、本心は近づきたくない。何と不幸でしょうか。

 それだけではありません。高慢な人は、神に対しても当然不遜です。ですから、Ⅰテモテ3:6が言いますように、やがて「悪魔と同じ裁きを受ける」ことになる。何と不幸でしょう。

 一方、謙遜な人は、態度でも言葉でも謙虚で柔和です。ですから、人に愛され、慕われ、それどころか、尊敬さえされます。何と感謝なことでしょう。

 とは言え、生れながらに罪の性質を持つ私たちが謙遜であることは、簡単ではありません。罪の力は凄まじい(すさまじい)です。高慢になる傾向は、常に、誰にもあります。ですから、神を恐れ、神にひれ伏す信仰のあることが、本当に必要です。そしてこれは幸いでもあります。

 神を恐れ敬うことは、私たちを謙虚にしないではおれません。そして謙虚ですと、私たちは聖書の真理、特にイエス・キリストの十字架の絶大な恵みもよく理解でき、他の色々良いものにも気付き、学んで吸収でき、神と人に自然と感謝できます。幸せですね。そして何よりイエス・キリストが下さる天からの永遠の命をもって、謙遜な人は、今もとこしえまでも生かされます。イザヤ57:15で神は言われます。「私は、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人と共に住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」イエス・キリストは言われます。マタイ5:3「心の貧しい者(=神の前に真に謙遜な者)は幸いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだからです。」

 信仰が必要であることがよく分ると思います。

 第二に、信仰は私たちを同じく人間にとって最も大切で幸せなことの一つである誠実な者にします。

 誠実であることが人間にとって如何に大切で幸せであるかを否定する人は、まずいないでしょう。嘘やごまかしの多い不誠実な人は、人に信頼されません。皆、段々離れ、最後は淋しい孤独の内に最後を迎えることになります。しかも死後、神の裁きを厳しく受け、永遠の滅びに至ります。何と不幸なことでしょう。

 一方、誠実な人は、人に信頼され、慕われ、また良心に平安があります。何と幸せでしょう。

 無論、人間には皆生れながらに罪の性質があり、誠実であることは簡単ではありません。しかし、そこで信仰が尊い働きをします。信仰は私たちに神を恐れさせます。いくら巧くごまかし、罪を隠しおおせたかのように思えても、ヘブル4:13が言う通り、「神の目には全てが裸であり、曝(さら)け出されて」いることを、信仰は私たちに分らせます。またガラテヤ6:7は言います(新共同訳聖書)。「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる…。」

 信仰は、私たちに神を正しく恐れさせ、そしてそのことが、人間にとって最大の幸せの一つである誠実さを、私たちの内に培(つちか)います。繰り返しますが、それは私たちの良心を平安にしますし、人からの信頼も得させ、人は親しい友になってくれます。しかも、死んだ後、不完全ではありますが私たちのこの世での誠実な行いに、神は一つ一つ報いて下さいます。何と幸いなことでしょう。信仰は本当に必要ですね。

 第三に信仰は、私たちを神に最も喜ばれる愛のある者へと育てていきます。何が幸せかと言って、愛するために私たちをお造りになった父なる神と御子イエス・キリストに似て、私たちが愛のある者へと造り変えられる以上の幸せがあるでしょうか。

 愛について有名なⅠコリント13:4以降はこう教えます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。」

 罪人の常として、私たちは自分には甘く、人には厳しい。自己中心で大変身勝手です。このまま身勝手で不信仰を続けるなら、確実に永遠の滅びに至ります。けれども、そうさせず、私たちを天国に入らせるために、神の御子イエスは、どこまで私たちに「寛容」で「親切」であられるでしょうか。また今お読みした最後の所のように、主イエスは地上の生涯で本当に「全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍」ばれました。どうしてでしょうか。只々私たちの救いのためでした。何という主の愛でしょう!父なる神とこのような御子イエスに、私たちが少しでも似て、真に愛のある者へ変えられるなら、何と感謝なことでしょう。

 そのためには、私たちがもっともっと神の素晴らしい愛を知ることが大切です。そして、それを可能にするのが、実は信仰なのです。信仰は本当に必要なのです。

 第四に、信仰は、色々苦しみのあるこの世で生きる上で必要な忍耐力を、私たちの内に培(つちか)います。

 自分勝手なことを平然と主張し、やってのける人たちや国々の多い不条理で理不尽なこの世で生きて行く上で、忍耐は何と大切でしょう。

 私たちの人生を振り返っても、忍耐し我慢したことが、随分多かったと思います。もし、その度に一々私たちが爆発していたならば、今私たちは、恐らくここにいないでしょう。辛くて、悔しくて、腹が立った。でも、忍耐したお蔭で受けることのできた神の恵みは一杯あると思います。正しいことのためには、戦うことも時には当然必要です。しかし、忍耐もどんなに必要でしょうか。

 実は、人間となってこの世に来られた神の御子イエス・キリストのご生涯を見ますと、忍耐ということを、すごく教えられます。ヘブル12:3は言います。「あなた方は、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなた方の心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」

 でも主イエスは、どうしてそれ程、忍耐がおできだったのでしょうか。続いて12:2は言います。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び」と。

 細かい説明は省きます。要するに、イエスには明確な使命感がおありでした。私たち罪人が永遠の死から救われるためには、十字架に至る苦難と辱めをどうしてもご自分が受けなければならない。それが父なる神の御心でした。ですから、父なる神を愛される御子イエスは、使命感に立って、喜んで忍耐されたのでした。

 私たちの忍耐の殆どは、実は自分自身の罪と弱さとの戦いだと思います。しかし、このような弱い私たち罪人のために、主イエスはとことん忍耐された。一体、主は何というお方でしょう!このイエスの忍耐に是非少しでも倣いたい。それなら、信仰がどうしても必要です。

 自分のためにも人のためにも、謙遜、誠実、愛、忍耐は、何と大切でしょう。が、その全てが主イエス・キリストの内にあります。そして、それらに私たちを与(あずか)らせるもの、それが信仰です。信仰はどうしても必要ですね。

 天の父なる神が、この尊い信仰を是非、私たち一同に与え、またその信仰を、どうか、励まし育んで下さいますように!アーメン

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