イエスは十字架につけられ(使徒信条の学び18)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 15章33節~41節
15:33 さて、12時になったとき、闇が全地を覆い、午後3時まで続いた。
15:34 そして3時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
15:36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を上げて、息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
15:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメがいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられた時に、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。マルコによる福音書 15章33節~41節
古代教会が告白し、その後も教会がずっと大切にして来た使徒信条により、キリスト教信仰の中心点を確認しています。今朝は、神の独り子(ひとりご)、主イエス・キリストについての告白の中の「主は…十字架につけられ」という点に進みます。
ここで漸く(ようやく)十字架が出て来ます。改めて言うまでもなく、十字架は福音の心臓とも言える極めて重要な点です。ですから、Ⅰコリント1:18でパウロは、福音を「十字架の言葉」と言い、続く1:23では「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」とまで述べています。キリスト教は十字架の宗教であり、十字架と共にあると言っても、過言ではないでしょう。
では、神の御子イエス・キリストの十字架は、何を意味し、どんなことを私達に教えるのでしょうか。今朝は三つの点を確認します。
第一に、十字架は主イエス・キリストの想像を絶する痛み、苦しみを私たちに覚えさせます。
十字架は、キリスト教の単なるシンボル、デザインなどではありません。十字架は、囚人をとことん苦しめて殺すためのゾッとする残酷な死刑の方法でした。無理やり捩って重ねられた両足の甲と両手首に太い鉄釘を撃ち込まれ、全体重がそこにかかり、囚人は想像を絶する痛み、苦しみの中、絶命するまで野外で放置されました。それを神の御子イエスは、ただただ私たちのために受けられたのです。
1967年に世界で最初の近代ホスピス、セント・クリストファー・ホスピスをロンドンに創設したシシリー・ソンダースは、癌末期患者を最も苦しめ、人格さえ破壊しかねない痛みを取ること、疼痛緩和に何よりまず努めました。それ位、痛みはたまらなく辛いのです。が十字架は、まさにそのような想像を絶する痛み、苦しみを主イエスが味わわれたことを示すのです。
使徒信条の中で、主は「十字架につけられ」と唱える時、私たちは単に口でサーッと唱えるのではなく、想像を絶する主イエス・キリストの苦しみ、痛みをこそ、何より心で深く覚え、想像したいと思います。
第二に、十字架は私たちに自分の罪を深く自覚させます。この点は、どんなに強調しても、し過ぎではありません。このことに信仰と救いはかかっているからです。
「主は…十字架につけられ」と教会は絶えず告白して来ましたが、そもそも人間となられ、一切罪を犯さず、全くきよい主イエスが、何故、十字架にかかられたのでしょうか。ほかでもない私たちの罪のためでした。
私たちは前回、主は「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」を学んだ時、私たち人間の罪深さを詳しく見ましたが、今朝もそのことを覚えさせられます。
イエスを十字架につけた直接の責任は、当時のユダヤ人とその指導者たち、またローマ帝国の役人でシリア地区総督ポンテオ・ピラトにあります。しかし、実はその背後に、神の深いご計画があったのです。
では、御子イエスには、十字架で死ぬというどんな神のご計画、理由があったのでしょうか。
ヘブル9:22は「血を流すことがなければ、罪の赦しは」ないと教えます。すまり、生れながらの私たち罪人が、自己中心の醜い罪を全て神に赦され、救われるためには、全く罪のない誰かが私たちの代りに死ぬほかありません。しかし、罪のない人など一人もいない。
そこで全く罪を犯したことのないきよい神の独り子イエスの死が、どうしても必要だったのです。言い換えますと、私たちの罪が神の御子を十字架につけたのでした。
「私は生れてこの方、一切嘘をついたり、ごまかしたり、ずるいことや悪いこと、恥かしいことをしたことがない」と言える人が、一人でもいるでしょうか。ましてやクリスチャンは、外に現れた行いだけでなく、喋った言葉や心の中で密かに考えたことまで、全部ご存じの真(まこと)の神を知っています。ヘブル4:13が言いますように「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開き」をしなければなりません。従って、自分の罪を深く自覚しないクリスチャンなど、いるはずがないですね。
ところが、いくら洗礼を受けたクリスチャンでも、神の恵みに慣れてしまいますと、罪意識が希薄になり、それに伴って傲慢になります。古い自我が頭をもたげ、「自分、自分」、という自意識が心と生活の多くの部分を占めるようになります。そうなると、私たちは、自分では気付かない内に、確実に神から離れ、神から遠ざかっています。
その結果、どうなるでしょう。当然、世の中は私たちの思い通りにばかりは行きません。すると挫折感や苛立ち、あってはならないのですが神への不満さえ抱く。そして実は傲慢で不満で神から離れている人程、サタンの狙いやすい人間はいません。
もういいでしょう。私たちが自分の罪を深く自覚し、そのことで深く悲しみ、砕かれて謙虚であることは、非常に大切で、実は幸いなことなのです。ですから、イエスは言われました。マタイ5:3、4「心の貧しい者は幸いです。…悲しむ者は幸いです。」
「主は…十字架につけられ」と唱える時、私たちは「そうだ。十字架はこの私の罪と不信仰のためだったのだ!あぁ主よ、この愚かで傲慢な罪人の私をお赦し下さい。どうか、憐れんで下さい。清めて下さい」と、心から主に求めたいと思う。無論、慈しみ深い主は、へりくだる者を必ず赦し、喜んで受け入れて下さいます。神は言われます。イザヤ66:2「私が目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、私の言葉におののく者だ。」
第三に、十字架は神を恐れるべきことを私たちに教えます。これも何と大切でしょうか。
十字架は、実は人間の罪に対する神の聖なる怒りを、主イエスが私たちに代って受けて下さったことでもあるのです。マルコ15:34が伝えますが、イエスは十字架上で最も苦しい時、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、つまり、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この悲痛な叫びは、本来は、罪に対する神の聖なる怒りの下に、永遠に滅ぼされて当然の私たち罪人が叫ぶはずのものだったのです。
しばしば忘れられていますが、全く義にして聖なる真(まこと)の神は、罪に対して怒っておられる神です。ローマ1:18は言います。「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」と。
また十字架は、十戒を中心とする神の律法を破り、無視する人間の罪に対する神の呪い、すなわち、刑罰の徴でもあります。ガラテヤ3:13は言います。「キリストは、ご自分が私たちのために呪われた者となることで、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです」と。
神が授けられた十戒に代表される律法は、本来、人間を人格的に訓練し、成長させ、祝福するためのものですが、それを破る者には呪いが伴います。しかし、そういう私たち罪人に代り、イエスはその呪いを全て、私たちのために十字架で引き受けられたのでした。生れながらの罪のために、霊的に無力になり、自己中心になった私たち罪人を、神の怒りと呪いから救うために、主はあの十字架にかかられた!これが十字架です。
ですから、復活して今、天の父なる神の右に座しておられるイエスを「この私の救い主」として心から信じ、受け入れ、依り頼む者に、神の永遠の怒りと呪いは、もう絶対に臨みません!
このイエス・キリストの十字架の意味と福音を、私たちは天に召される時まで一瞬たりとも忘れず、それどころか、互いに繰り返し確認し、信仰を支え合いたいと思うのです。
最初は神を恐れていた者が、恵みに慣れっこになり、神への恐れを忘れ、信仰が失われていたなどということは、絶対にあってはなりません。私たちは礼拝で「主は…十字架につけられ」と唱える時、「そうだ。罪に対する神の怒りと呪いを、私は決して忘れない。いいえ、私だけでなく、皆も忘れてはならない。主よ、私も、愛する兄弟姉妹たちも皆、常にあなたを真に恐れる真実な信仰者でありますように」と心から祈りたいと思います。
すると、詩編85:9は私たちに答えます。「確かに、御救い(みすくい)は主を恐れる者たちに近い」と!