2020年06月21日「迫害されても喜ぶ」
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迫害されても喜ぶ
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- 田村英典 牧師
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マタイによる福音書 5章10節~12節
聖書の言葉
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
(新改訳聖書 2017年度版)
マタイによる福音書 5章10節~12節
メッセージ
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私たちは、5:3~10のイエスの教えから真(まこと)のクリスチャンの特徴を学び、その最後は10節にありますように、義のために迫害されることでした。今日、私たちが学ぶ11、12節はその補足説明と言えるでしょう。
ただ、少し違う点もあります。イエスは、今までの「~は」幸い、という3人称から、「あなた方は」と2人称に変え、弟子たちや群衆に向って直接語られます。またイエスは、真のクリスチャンをこれまでとは違う形で描かれます。ある人の特徴を描くのに、快活とか暗いとかというのと共に、人生で起る色々なことにその人がどう反応するかというのもあります。イエスは11、12節で、真のクリスチャンが大なり小なり受ける迫害に、どういう反応を示すかを描かれます。これも大切な点だと思います。
そこで、まず11、12節の全体から真のクリスチャンの特質を三つ見てみます。
第一に、真のクリスチャンは、クリスチャンでない人と生き方が根本的に違います。そしてそのために迫害を受けます。人は小さな意見の違い位なら放っておきます。しかし、クリスチャンは生き方が根本的に違うため、人は必ずしもクリスチャンを快く思いません。ですから、迫害が起るのです。
イエスの福音は、確かに別種の人間を生み出し、家の中でも分裂が起り得ます。イエスは、10:34~35で言われます。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。私は、平和ではなく剣をもたらすために来ました。私は、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。」無論、イエスは好んでこうされるのではありません。結果的にこうなるということです。今までは、ただ皆と歩調を合わせ、波風を立てず、自分の生き方に疑問を覚えずに生きてきた人の中で、突然クリスチャンは罪の問題を重要視し、これまでの自分中心の生き方をやめ、神とその御心を中心として歩み出します。すると、回りの人は驚き、敵意すら抱きかねません。ですから、イエスは10:36「そのようにして家の者たちがその人の敵となる」と言われるのです。とにかく、クリスチャンは生き方がこの世の人と根本的に違います。
第二に、真のクリスチャンの生活はイエス・キリストに固く結ばれています。クリスチャンが迫害されるのは、キリストに結ばれ、キリストのために生きるからです。5:11「私のために」人々があなた方を罵り、迫害し、とイエスは言われます。
クリスチャンになる前、人は根本的には自分のために生き、自分が第一です。それが聖書の言う罪です。しかし、こんな私たちのために、イエスは十字架で命を献げ、そのお蔭でクリスチャンは罪と永遠の滅びから救われました。これを真のクリスチャンは決して忘れず、感謝しているため、以前のようにただ自分のために生きることは出来ず、主のために喜んで生き、こう告白して生きます。「自己中心に生きて来た罪人の古い私は、キリストと共に十字架で死に、今生きているのは新しい私だ。私は主に結ばれ、主のために生きるのだ」と。
第三に、真のクリスチャンは天国と来るべき世への思いを常に持っています。
不信者は死と死後の世界を極力考えようとしません。死のことに触れますとイヤな顔をし、怒る人もいます。死が怖いからです。
しかし、クリスチャンは死と永遠という真面目なテーマを考えます。そして、それが今を如何に生きるかを決めます。真の信仰者は、永遠の御国への思いを常に持っています。ヘブル11:13~16は旧約時代の信仰者についてこう述べます。「これらの人たちは皆、信仰の人として死にました。約束の物を手に入れることはありませんでしたが、遙か遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」天の故郷を仰ぎ見て、地上では旅人として神の前に生きる!これがクリスチャンです。
しかし、このために、人々はクリスチャンに好い(いい)顔をしません。かつて人々はイエスを嫌いましたが、今も本質的には同じです。ですから、マタイ5:11でイエスは、人々はあなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる、と言われます。事実、ローマ帝国時代にクリスチャンは無神論者で不道徳だと罵られました。偶像の神々を決して拝まず、また男女が一緒に礼拝したからです。
さて、最も大事なことは、迫害に対するクリスチャンの態度です。
イエスは言われます。12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。」
ここから何を教えられるでしょうか。第一に、仕返しや復讐はクリスチャンの態度ではないということです。これは簡単なことではありませんね。生来、私たちは自己保全に一生懸命で、仕返しをしないではおられないからです。
しかし、主は違いました。Ⅰペテロ2:21は言います。「キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。罵られても、罵り返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。」主の霊を頂いている私たちも是非こうでありたいと思います。
第二は、迫害されても憤慨しない魂の状態にまでなるべきだということです。これは更に難しいです。しかし、主は言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい!」これは表面上、仕返しはしないものの、腹の中は煮えくり返っているという状態では、ありません。単なる怒りの抑圧では、こうは出来ないでしょう。
イエス御自身は大変感情豊かな方ですのに、どんな中傷や迫害にも傷つけられない魂の状態にあられました。そのイエスの霊を頂いていたパウロも、ピリピ1章などから分りますように、露骨な悪意にも影響されませんでした。自分の名誉ではなく、イエス・キリストが伝えられることが、彼の最大の関心事だったからです。「喜びなさい。大いに喜びなさい」とは、そういうことです。
第三は、自分を憐れまないことです。「どうして私がこんな扱いを」という被害者意識や自己憐憫に私たちは陥りやすいですが、これもイエスの御心ではありません。イエスは「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われます。
第四は、迫害する者のために祈る者であることです。イエスは言われます。マタイ5:44「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」事実、イエスはご自分を十字架につけた人たちのために十字架上で、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
では、どうしてクリスチャンは喜べるのでしょうか。最後にそれを見て終ります。
無論、迫害自体は喜びではありません。辛い迫害という状況でも、何故真のクリスチャンは喜べるのかということです。
第一に、キリストの故に迫害に遭う時こそ、クリスチャンは、自分が何者であり、どんな恵みの内にあるかを、確認出来るからです。イエスは言われます。12節「あなた方より前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害した…。」旧約時代の主の預言者たちは、神に選ばれ、超自然的方法で神の言葉を聞き、それを人々に語りました。実際に生ける神を体験し、神に仕えたために、迫害される者もいました。しかし、確実に言えることは、彼らが地上の生涯を終えた後、今、天にあって神と共にあり、最高の祝福を味わっていることです。主に結ばれているクリスチャンも、昔の偉大な預言者たち同様、確かに罪を赦され、永遠の救いに与っています。迫害は、私たちが、偽物ではなく本物のクリスチャンであり、偉大な預言者たち同様、天における栄光を必ず受ける者とされていることの証拠なのです。
第二に、迫害はクリスチャンを、神の僕(しもべ)である昔の預言者たちのような清い人格と品性に練り清め、人格的完成に至らせるからです。辛い迫害を通して、クリスチャンは信仰を試され、不要で不純なものを取り除かれ、清められ、生も死も支配される神にますます全てを委ねる者とされ、一切の希望と喜びを神に置く堅固な者にされます。ローマ5:2~5は言います。「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光に与る望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ヤコブ1:2、3も言います。「私の兄弟たち。様々な試練に会う時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなた方が知っている通り、信仰が試されると忍耐が生れます。」
第三に、地上の生涯の終った後、天国での報いがハッキリ約束されているからです。天国に入れるだけでも素晴らしい上に、迫害で払った犠牲に比例して更に偉大な祝福、喜び、栄光を神が用意しておられるからです。それは純粋に天の父なる神からの褒美です。ですから、イエスは言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい!」
迫害は当然避けたいですが、罪の世でこれを完全に避けることは出来ません。けれども、これは一時的なものであり、イエスによる永遠の栄光と祝福に指一本触れることが出来ません。
また、主にあっては無意味なものは一つもなく、迫害さえも、私たちが本当は何者で、何に誰に属し、どこに向って歩んでいるかを保証するものに他なりません。ですから、イエスは言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい!」
今やご自分の御心でなければ、私たちの頭から髪の毛一本地に落ちない程に全てを支配しておられる御子イエス・キリストに、一切の信頼を献げ、ご一緒に歩んで行きたいと思います。