Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 13:44 天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。13:46 高価な一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。マタイによる福音書 13章44節~46節 メッセージ 今朝は「クリスチャンの幸せ ⑵」と題してお話致します。⑵としたのは、2021年2月の伝道礼拝で、内容は違いますが、同じ題でお話したからです。 今、マタイ13:44~46を読みました。ここは、私たち罪人の救いのために世に来て下さった神の独り子イエスが語られた御言葉(みことば)です。44節「天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。」 45、46節の良い真珠、高価な真珠の譬でも同じですが、要するに、真(まこと)の神とその救いの御心(みこころ)、つまり福音は、それを知る人には、他のどんなものに換えてでも手に入れたいぐらい素晴らしい価値があるということです。言い換えますと、天地の創り主なる真の神と、神の御子イエス・キリストへのただ信仰による永遠の救いを知ることは、どんなに幸せか、ということです。 では、具体的にはどんな幸せがあるでしょうか。色々ありますが、今朝は三つ程、お話致します。 第一は、ここには人間が真実に生きることへの答がある、という点です。 私自身のことをお話させて頂きます。私は20歳の学生の時に生れて初めて教会へ行き、洗礼を受け、クリスチャンになりました。それまでの私は、人はどうあることが本当に正しくて真実であるかを探し求め、友達とよく議論をし、色々な本を読み、映画をいくつも見、休日には当てどなく歩いたりしました。嘘、偽りのない真実なもの、自分を心底傾けられるものを探していたのだと思います。 やがて、小説や映画の中でしばしば触れられ、また友人の一人がクリスチャンになったことから、神を段々意識するようになりました。しかし、科学的に証明や説明のできないものは信じるに値しないと思っていた、自称、無神論者の私は、神を否定しました。そして神を信じるクリスチャンの友人を小馬鹿にしていました。 けれども一方で、私の心は依然として満たされず、勉強やスポーツはそこそこ頑張りましたが、自分が本当に求めていることの答は見つからず、空しさがありました。そんな折、たまたま母が町で教会案内をもらい、私にくれました。その時、何故かそれが気になり、1度行ってみるかと考え、しかし決して深入りせず、教会の誘いに簡単に乗らないと決めて、教会を訪ねました。旧約聖書の伝道者の書3章の初めの所に「全てのことに時がある」とありますが、その時がそれだったのだと思います。 教会で何を私は知ったでしょうか。伝道者の書7:29に「神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ」とあります。神は人を正しい者に造られたのに、人が神に背いたため、罪が入り込み、人は理屈をこねては罪深いことを行い、その結果、人間とこの世に色々悲惨なことが起ったということです。 私は、世の中や人の中に、いいえ、何より自分の中に罪深いものがあることを知っていたため、神、人間の罪深さ、空しさや悲惨さ、そして死と滅びなどが、全部つながりました。「そうか、そうだったのか」と。 罪とその結果である人間の惨めさ、また全てをご存じの神による裁きを知ることは、気の重いことでしたが、それ以上に、聖書のこの説明が、私のずっと抱えていた心のモヤモヤを晴らしてくれました。しかも神の御子イエス・キリストは、こんな私たちを尚も愛し、父なる神の御心に従って十字架で私たちの罪を全部償って下さった!つまり、イエス・キリストが人間の最大の問題である罪と滅びから私たちを本当に救い、神から離れていた私たちを神に立ち帰らせ、神の子にして下さることも知りました。 全部が一遍に分ったのではありません。しかし、全体の大枠を知り、それに伴い、生と死も含めた自分の生き方も定まった。イエスが言われたマタイ13:44、46の畑に隠された宝や高価な良い真珠を見つけた商人のような嬉しさとスッキリした思いもあり、クリスチャンになりました。多くのクリスチャンが似たような体験をしていると思います。 以上、聖書の福音には、人間が正しく真実に生きるための答があり、これを知って生きることの幸せという点をお話しました。創り主なる真の神を知るだけでも、どんなに幸せでしょうか。 クリスチャンの幸せの二つ目に進みます。それは、生きることは空しくないという点です。 クリスチャンであっても、自分の足りなさやこの世の不条理などのために、空しさを感じることはあります。職場や近所付き合い、それどころか、家庭内や親戚付き合いでも、非常識で自己中心な人がいて、疲れと溜息と後味の悪さだけが残るということもあります。罪の世では、こういうことは稀(まれ)ではありませんね。 しかし、それでも神の御言葉・聖書の福音に誠実に生きようとする人は、最終的には空しくありません。どうしてでしょうか。父なる神また御子イエスは、私たちが信仰によって真面目に誠実に考え、語り、行うことを全て見ておられ、やがて天の御国でそれらの全てに必ず報いて下さるからです。 マタイ25章には、イエスが語られた天国についての話がいくつもまとめられています。その中に、21節「よくやった。良い忠実な僕(しもべ)だ。お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」という、主人が忠実な僕に言う言葉があります。 確かにこの世は、不条理で理不尽なことのあまりにも多い罪の世です。でも、神の御心に忠実に従い、神と人に誠実に仕えて生きた信仰者は、天に召された時、「よくやった。良い忠実な僕だ。お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」という神のお誉めの言葉を必ず聞くことを許され、必ず報われるのです! その意味で、神を仰ぎ、誠実に生きる人は、空しく思うことが時々あっても、決して空しく終りません。無駄になりません。Ⅰコリント15:58も言います。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業(わざ)に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」 最終的には決して空しくない!これがクリスチャンの幸せの二つ目です。 三つ目をお話して終ります。それは最も幸せなことと言っても良いですが、神の愛をますます知ることができる、という幸せです。 人間は本来、神の愛に自分も愛をもって応え、人間同士も互いに愛し合い、ますます神の愛の中に生きるように造られました。しかし、人は神に背いたため、全てが狂い、罪が私たちを支配するようになってしまいました。そのため、人間は皆、自己中心になり、人を信用せず、疑いと警戒心から人に対してすぐ攻撃的になったりする者になってしまいました。何と悲しく、不幸なことでしょう。 しかし天の父なる神は、こんな私たちを尚も憐れまれ、そこで、ただ御子イエス・キリストへの信仰により、永遠の死からだけでなく、罪そのものからも私たちを解放しようして下さったのです。 罪そのものからの解放と救いの最大の幸せは、天地の創り主なる真の神の愛がますますよく分るようになること、と言えると思います。 新約聖書の中に、ヨハネの福音書やヨハネの手紙があります。主イエスの弟子、ヨハネが書いたのですが、そこには神の愛と、私たちが互いに愛し合うようにという教えが沢山ありますが、実は若い頃のヨハネは、結構、気性の激しい人でした(ルカ9:54参照)。しかし、晩年のヨハネは、言い伝えによりますと、何を聞かれても「神は愛です」と語ったそうです。神の愛をますます知るようになったからでしょう。 実際、クリスチャンが歳を取ることに伴う一番の幸せは、神の愛をますます知り、味わい、感謝し、神を賛美できる者にされることだと思います。 歳を取ることは、身体面では、無論、厳しいです。坐っていて立ち上る時も、「ヨッコラショ」と弾みをつけないと難しくなります。普通は目も耳も気力も弱ります。しかし、それでも感謝なことが増えます。 例えば、歳を取った分、嬉しい感謝な想い出が増えます。イヤな想い出も増えますが、何を思い出すかをクリスチャンは選ぶことができます。つまり、嬉しい感謝な想い出を、より多く思い出すのです。そして特に信仰に基づいて思い出しますと、それらの想い出の背後に、本当はずっと神の愛があったことに気付かされます。ほろ苦い想い出、イヤな想い出にさえ、私たちに何かを教え、導き、あるいは何かから私たちを守ろうとされた神の愛に気付かされます。 クリスチャンになった当初はまだ自我が強く残り、自分が頑張り、自分が努力し、しかし、巧くいかないとガッカリし、神に文句を言い、人に八つ当りをし、信仰の状態が乱気流のような時もあります。けれども、誠実に礼拝を守り、御言葉を聞き、自分でも聖書を読み続けていますと、冬から春に移り変る草木の様子にも、私たちを信頼し甘えて来るペットの動物にも、幼子たちの愛らしい姿の中にも、ちょっとした食べ物にも、神の愛を覚えないではおられません。単に「あぁ、いいなあ。良かった」ではありません。愛をもって私たちを造られ、今も御子イエスを通して私たちを愛しておられる神の愛に気付かされ、感謝できる幸せ!これ以上のものはありませんね。 そしてやがて天に召された時には、愛に満ちた神の御顔を、愛する兄弟姉妹たちと共に仰ぎ、思いっ切り神を賛美している自分自身を発見しているでしょう! 神が信仰者に下さるこのような幸せを心に留め、皆で一緒に、もっともっと神に近づきたいと思います。ヤコブ3:8は言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます。」 関連する説教を探す 2023年の日曜朝の礼拝 『マタイによる福音書』
今朝は「クリスチャンの幸せ ⑵」と題してお話致します。⑵としたのは、2021年2月の伝道礼拝で、内容は違いますが、同じ題でお話したからです。
今、マタイ13:44~46を読みました。ここは、私たち罪人の救いのために世に来て下さった神の独り子イエスが語られた御言葉(みことば)です。44節「天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。」
45、46節の良い真珠、高価な真珠の譬でも同じですが、要するに、真(まこと)の神とその救いの御心(みこころ)、つまり福音は、それを知る人には、他のどんなものに換えてでも手に入れたいぐらい素晴らしい価値があるということです。言い換えますと、天地の創り主なる真の神と、神の御子イエス・キリストへのただ信仰による永遠の救いを知ることは、どんなに幸せか、ということです。
では、具体的にはどんな幸せがあるでしょうか。色々ありますが、今朝は三つ程、お話致します。
第一は、ここには人間が真実に生きることへの答がある、という点です。
私自身のことをお話させて頂きます。私は20歳の学生の時に生れて初めて教会へ行き、洗礼を受け、クリスチャンになりました。それまでの私は、人はどうあることが本当に正しくて真実であるかを探し求め、友達とよく議論をし、色々な本を読み、映画をいくつも見、休日には当てどなく歩いたりしました。嘘、偽りのない真実なもの、自分を心底傾けられるものを探していたのだと思います。
やがて、小説や映画の中でしばしば触れられ、また友人の一人がクリスチャンになったことから、神を段々意識するようになりました。しかし、科学的に証明や説明のできないものは信じるに値しないと思っていた、自称、無神論者の私は、神を否定しました。そして神を信じるクリスチャンの友人を小馬鹿にしていました。
けれども一方で、私の心は依然として満たされず、勉強やスポーツはそこそこ頑張りましたが、自分が本当に求めていることの答は見つからず、空しさがありました。そんな折、たまたま母が町で教会案内をもらい、私にくれました。その時、何故かそれが気になり、1度行ってみるかと考え、しかし決して深入りせず、教会の誘いに簡単に乗らないと決めて、教会を訪ねました。旧約聖書の伝道者の書3章の初めの所に「全てのことに時がある」とありますが、その時がそれだったのだと思います。
教会で何を私は知ったでしょうか。伝道者の書7:29に「神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ」とあります。神は人を正しい者に造られたのに、人が神に背いたため、罪が入り込み、人は理屈をこねては罪深いことを行い、その結果、人間とこの世に色々悲惨なことが起ったということです。
私は、世の中や人の中に、いいえ、何より自分の中に罪深いものがあることを知っていたため、神、人間の罪深さ、空しさや悲惨さ、そして死と滅びなどが、全部つながりました。「そうか、そうだったのか」と。
罪とその結果である人間の惨めさ、また全てをご存じの神による裁きを知ることは、気の重いことでしたが、それ以上に、聖書のこの説明が、私のずっと抱えていた心のモヤモヤを晴らしてくれました。しかも神の御子イエス・キリストは、こんな私たちを尚も愛し、父なる神の御心に従って十字架で私たちの罪を全部償って下さった!つまり、イエス・キリストが人間の最大の問題である罪と滅びから私たちを本当に救い、神から離れていた私たちを神に立ち帰らせ、神の子にして下さることも知りました。
全部が一遍に分ったのではありません。しかし、全体の大枠を知り、それに伴い、生と死も含めた自分の生き方も定まった。イエスが言われたマタイ13:44、46の畑に隠された宝や高価な良い真珠を見つけた商人のような嬉しさとスッキリした思いもあり、クリスチャンになりました。多くのクリスチャンが似たような体験をしていると思います。
以上、聖書の福音には、人間が正しく真実に生きるための答があり、これを知って生きることの幸せという点をお話しました。創り主なる真の神を知るだけでも、どんなに幸せでしょうか。
クリスチャンの幸せの二つ目に進みます。それは、生きることは空しくないという点です。
クリスチャンであっても、自分の足りなさやこの世の不条理などのために、空しさを感じることはあります。職場や近所付き合い、それどころか、家庭内や親戚付き合いでも、非常識で自己中心な人がいて、疲れと溜息と後味の悪さだけが残るということもあります。罪の世では、こういうことは稀(まれ)ではありませんね。
しかし、それでも神の御言葉・聖書の福音に誠実に生きようとする人は、最終的には空しくありません。どうしてでしょうか。父なる神また御子イエスは、私たちが信仰によって真面目に誠実に考え、語り、行うことを全て見ておられ、やがて天の御国でそれらの全てに必ず報いて下さるからです。
マタイ25章には、イエスが語られた天国についての話がいくつもまとめられています。その中に、21節「よくやった。良い忠実な僕(しもべ)だ。お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」という、主人が忠実な僕に言う言葉があります。
確かにこの世は、不条理で理不尽なことのあまりにも多い罪の世です。でも、神の御心に忠実に従い、神と人に誠実に仕えて生きた信仰者は、天に召された時、「よくやった。良い忠実な僕だ。お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」という神のお誉めの言葉を必ず聞くことを許され、必ず報われるのです!
その意味で、神を仰ぎ、誠実に生きる人は、空しく思うことが時々あっても、決して空しく終りません。無駄になりません。Ⅰコリント15:58も言います。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業(わざ)に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
最終的には決して空しくない!これがクリスチャンの幸せの二つ目です。
三つ目をお話して終ります。それは最も幸せなことと言っても良いですが、神の愛をますます知ることができる、という幸せです。
人間は本来、神の愛に自分も愛をもって応え、人間同士も互いに愛し合い、ますます神の愛の中に生きるように造られました。しかし、人は神に背いたため、全てが狂い、罪が私たちを支配するようになってしまいました。そのため、人間は皆、自己中心になり、人を信用せず、疑いと警戒心から人に対してすぐ攻撃的になったりする者になってしまいました。何と悲しく、不幸なことでしょう。
しかし天の父なる神は、こんな私たちを尚も憐れまれ、そこで、ただ御子イエス・キリストへの信仰により、永遠の死からだけでなく、罪そのものからも私たちを解放しようして下さったのです。
罪そのものからの解放と救いの最大の幸せは、天地の創り主なる真の神の愛がますますよく分るようになること、と言えると思います。
新約聖書の中に、ヨハネの福音書やヨハネの手紙があります。主イエスの弟子、ヨハネが書いたのですが、そこには神の愛と、私たちが互いに愛し合うようにという教えが沢山ありますが、実は若い頃のヨハネは、結構、気性の激しい人でした(ルカ9:54参照)。しかし、晩年のヨハネは、言い伝えによりますと、何を聞かれても「神は愛です」と語ったそうです。神の愛をますます知るようになったからでしょう。
実際、クリスチャンが歳を取ることに伴う一番の幸せは、神の愛をますます知り、味わい、感謝し、神を賛美できる者にされることだと思います。
歳を取ることは、身体面では、無論、厳しいです。坐っていて立ち上る時も、「ヨッコラショ」と弾みをつけないと難しくなります。普通は目も耳も気力も弱ります。しかし、それでも感謝なことが増えます。
例えば、歳を取った分、嬉しい感謝な想い出が増えます。イヤな想い出も増えますが、何を思い出すかをクリスチャンは選ぶことができます。つまり、嬉しい感謝な想い出を、より多く思い出すのです。そして特に信仰に基づいて思い出しますと、それらの想い出の背後に、本当はずっと神の愛があったことに気付かされます。ほろ苦い想い出、イヤな想い出にさえ、私たちに何かを教え、導き、あるいは何かから私たちを守ろうとされた神の愛に気付かされます。
クリスチャンになった当初はまだ自我が強く残り、自分が頑張り、自分が努力し、しかし、巧くいかないとガッカリし、神に文句を言い、人に八つ当りをし、信仰の状態が乱気流のような時もあります。けれども、誠実に礼拝を守り、御言葉を聞き、自分でも聖書を読み続けていますと、冬から春に移り変る草木の様子にも、私たちを信頼し甘えて来るペットの動物にも、幼子たちの愛らしい姿の中にも、ちょっとした食べ物にも、神の愛を覚えないではおられません。単に「あぁ、いいなあ。良かった」ではありません。愛をもって私たちを造られ、今も御子イエスを通して私たちを愛しておられる神の愛に気付かされ、感謝できる幸せ!これ以上のものはありませんね。
そしてやがて天に召された時には、愛に満ちた神の御顔を、愛する兄弟姉妹たちと共に仰ぎ、思いっ切り神を賛美している自分自身を発見しているでしょう!
神が信仰者に下さるこのような幸せを心に留め、皆で一緒に、もっともっと神に近づきたいと思います。ヤコブ3:8は言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます。」