聖書の言葉 20:13 殺してならない。出エジプト記 20章13節 メッセージ 第六戒を学んでいます。前回は人への怒りの問題を取り上げました。義憤と呼ばれる正しい怒りもありますが、特に長く根に持つ怒りの危険性を見ました。 今日は、人を侮辱し、蔑む(さげすむ)罪を見ます。イエスは言われました。マタイ5:21、22「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」 「最高法院」とは、ここでは神の法廷を指します。「ばか者」と訳されているギリシア語は「頭が空っぽ」という意味で、知的な面での侮辱です。「愚か者」と訳されているギリシア語は「価値がない」という意味で、特に道徳的に最低という意味のようです。 人をここまで侮辱する時、私たちは相手の存在価値を認めていません。これは心の中の殺人です。ですから、主イエスは問題視されるのです。怒りと共に、人を蔑むことも、神の形に造られたその人の存在価値を認めない恐ろしい殺人に他なりません。言葉や態度や力による苛めやパワハラは皆、人を見下す心から来ています。これらにより、自殺に追い込まれた人々も多く、何と罪深いことでしょう。 これは家庭内でも起ります。例えば、子供を蔑み、罵倒し、無視する。やられた子供の辛さはどれ程でしょう。自分なんか、いない方が良いのではないか、と考える所まで追いつめられます。正に殺人です。 知的、道徳的、文化的に程度が低いとして他者を蔑む罪は、国や民族にも見られます。この種の罪から免れてきた国も民族も、恐らく存在しないでしょう。日本も例外ではありません。 侮辱と嫌悪感を込めた言葉で、他者をひどい言葉で攻撃するヘイトスピーチもそうです。別の考えを持つ人や他民族へのヘイトスピーチが横行する危険な状況が、今の日本にも見られます。何と罪深く、何と怖い傾向でしょう。 人を正しく見極める識別力は、当然、必要です。しかし、他者を見下し、蔑むなら、それは神がご自分の形に造られた人の魂を踏みにじり、他者の存在を否定することです。神の目には殺人です。 以上、他者への怒りと侮辱の持つ罪深さを見てきました。では、私たちはどうすれば良いでしょうか。 第一は、自分の感情や気持を、冷静に客観的に観察することです。何故か自分は今、苛立ち、怒っていると思う時、私たちは自分を客観的に観察し、原因を考えて見るのです。そうするだけで、私たちは、過剰な怒りや人を蔑む感情からかなり解放されます。詩篇42:5で作者は「わが魂よ。何故お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか」と自分を観察し、うなだれる原因を考え、その上で自分に呼びかけました。私たちも是非、自分を客観的に観察したいと思います。 第二は、怒りが爆発し、侮辱の言葉が口に出そうな時は、深呼吸をすることです。大分昔ですが、柏木哲夫先生が精神科医として書かれた本に、子供を怒鳴って叱りたくなった時、深呼吸すると落ち着くので良い、とありました。実際、深くゆっくり息を吸いますと、タイミングがずれ、気持が微妙に変り、余裕が生れます。いずれにせよ、ヤコブ1:19は「人は誰でも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と教えます。 第三は、人への深く根に持つ怒りや侮辱は、心の中の殺人行為であり、第六戒を犯す恐ろしい罪だと、自分自身によく教育することです。クリスチャンは、御言葉により、自分自身にもっと説教をし、教育すべきです。罪と戦える自分に変えられ、祝福されます。 第四は、人に怒り続け、侮辱することは、主が命をもって贖って下さった私たち自身の人格を低め、卑しめていることを、よく自覚することです。自分の中に罪深いものがうごめくことを許していると、私たちは自分の人格を低めていることを忘れてはなりません。 むしろ、他のもっと大切なことに自分の関心を切り替えるのです。「そうだ。こんなことを私はいつまでも引き摺っていては駄目だ。私は、主が私を愛し、私に期待しておられることにこそ、エネルギーを注ごう。またガラテヤ5:22、23の言う御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をこそ求めよう」と、自分の関心事を切り替えるのです。 第五に、特に復讐したい程の思いの時ですが、私たちが気付かず、知らない気の毒な事情が、相手にはあるかも知れないことを思って、裁きは神に委ねたいと思います。ローマ12:19は言います。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐は私のもの。私が報復する。』」 どうか、主が御霊によって私たちを常に教え、支配し、罪から解放し、むしろ、神の喜んで下さる聖く善なるものにこそ、私たちをしっかり向わせて下さいますように! 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
第六戒を学んでいます。前回は人への怒りの問題を取り上げました。義憤と呼ばれる正しい怒りもありますが、特に長く根に持つ怒りの危険性を見ました。
今日は、人を侮辱し、蔑む(さげすむ)罪を見ます。イエスは言われました。マタイ5:21、22「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
「最高法院」とは、ここでは神の法廷を指します。「ばか者」と訳されているギリシア語は「頭が空っぽ」という意味で、知的な面での侮辱です。「愚か者」と訳されているギリシア語は「価値がない」という意味で、特に道徳的に最低という意味のようです。
人をここまで侮辱する時、私たちは相手の存在価値を認めていません。これは心の中の殺人です。ですから、主イエスは問題視されるのです。怒りと共に、人を蔑むことも、神の形に造られたその人の存在価値を認めない恐ろしい殺人に他なりません。言葉や態度や力による苛めやパワハラは皆、人を見下す心から来ています。これらにより、自殺に追い込まれた人々も多く、何と罪深いことでしょう。
これは家庭内でも起ります。例えば、子供を蔑み、罵倒し、無視する。やられた子供の辛さはどれ程でしょう。自分なんか、いない方が良いのではないか、と考える所まで追いつめられます。正に殺人です。
知的、道徳的、文化的に程度が低いとして他者を蔑む罪は、国や民族にも見られます。この種の罪から免れてきた国も民族も、恐らく存在しないでしょう。日本も例外ではありません。
侮辱と嫌悪感を込めた言葉で、他者をひどい言葉で攻撃するヘイトスピーチもそうです。別の考えを持つ人や他民族へのヘイトスピーチが横行する危険な状況が、今の日本にも見られます。何と罪深く、何と怖い傾向でしょう。
人を正しく見極める識別力は、当然、必要です。しかし、他者を見下し、蔑むなら、それは神がご自分の形に造られた人の魂を踏みにじり、他者の存在を否定することです。神の目には殺人です。
以上、他者への怒りと侮辱の持つ罪深さを見てきました。では、私たちはどうすれば良いでしょうか。
第一は、自分の感情や気持を、冷静に客観的に観察することです。何故か自分は今、苛立ち、怒っていると思う時、私たちは自分を客観的に観察し、原因を考えて見るのです。そうするだけで、私たちは、過剰な怒りや人を蔑む感情からかなり解放されます。詩篇42:5で作者は「わが魂よ。何故お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか」と自分を観察し、うなだれる原因を考え、その上で自分に呼びかけました。私たちも是非、自分を客観的に観察したいと思います。
第二は、怒りが爆発し、侮辱の言葉が口に出そうな時は、深呼吸をすることです。大分昔ですが、柏木哲夫先生が精神科医として書かれた本に、子供を怒鳴って叱りたくなった時、深呼吸すると落ち着くので良い、とありました。実際、深くゆっくり息を吸いますと、タイミングがずれ、気持が微妙に変り、余裕が生れます。いずれにせよ、ヤコブ1:19は「人は誰でも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と教えます。
第三は、人への深く根に持つ怒りや侮辱は、心の中の殺人行為であり、第六戒を犯す恐ろしい罪だと、自分自身によく教育することです。クリスチャンは、御言葉により、自分自身にもっと説教をし、教育すべきです。罪と戦える自分に変えられ、祝福されます。
第四は、人に怒り続け、侮辱することは、主が命をもって贖って下さった私たち自身の人格を低め、卑しめていることを、よく自覚することです。自分の中に罪深いものがうごめくことを許していると、私たちは自分の人格を低めていることを忘れてはなりません。
むしろ、他のもっと大切なことに自分の関心を切り替えるのです。「そうだ。こんなことを私はいつまでも引き摺っていては駄目だ。私は、主が私を愛し、私に期待しておられることにこそ、エネルギーを注ごう。またガラテヤ5:22、23の言う御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をこそ求めよう」と、自分の関心事を切り替えるのです。
第五に、特に復讐したい程の思いの時ですが、私たちが気付かず、知らない気の毒な事情が、相手にはあるかも知れないことを思って、裁きは神に委ねたいと思います。ローマ12:19は言います。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐は私のもの。私が報復する。』」
どうか、主が御霊によって私たちを常に教え、支配し、罪から解放し、むしろ、神の喜んで下さる聖く善なるものにこそ、私たちをしっかり向わせて下さいますように!