聖書の言葉 20:13 殺してはならない出エジプト記 20章13節 メッセージ 第六戒を学んでいます。 時々お話しますが、1563年に作られたハイデルベルク信仰問答や1647年に作られたウェストミンスター大教理問答と小教理問答などは、大事な点を実によく教えています。宗教改革時代の信仰の先輩たちの的確な聖書理解と信仰の成熟度を教えられます。 そこで今日は、ハイデルベルク信仰問答を見てみます。 「問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。 答 私が、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、私の隣人を、自分自らまたは他人を通して、誹ったり(そしったり)、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。」 「問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。 答 神が、殺人の禁止を通して、私たちに教えようとしておられるのは、御自身が、妬み、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。また全てそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」 「問107 しかし、私たちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。 答 いいえ。神はそこにおいて、妬み、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方が私たちに求めておられるのは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、私たちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」 ここから分りますように、殺人の禁止は勿論、第一に他人を誹り、侮辱すること、特に神の前で一種の隠れた殺人である妬み、憎しみ、怒り、復讐心など、殺人の根を問題とし、第二に自分を傷つけ危険にさらすことも禁じ、第三に隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、隣人への危害を防ぎ、私たちの敵に対してさえ積極的に善を行うことを、第六戒は求めているということです。 今日は、第一点、すなわち、人を誹り、侮辱すること、特に神の前で一種の隠れた殺人である妬み、憎しみ、怒り、復讐心など、殺人の根と言われるものの罪深さに注目します。 主イエスはマタイ5:21、22で言われます。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」 主は、まず怒りを挙げられます。怒りを表わすギリシア語には二つあります。パッと燃え上ってすぐ収まる怒りと、長く根に持つ怒りです。ここでは、後の方が使われています。 これが長く続きますと、その人の色々なことが一々気に障り、断罪する気持が募り、赦せなくなります。ついには「あんな人、見たくもない。いなくなれ」となり、その人の存在を心で消してしまいます。ですから、イエスは、これは心による殺人だと言われるのです。 怒りが如何に恐ろしいかは、創世記4章の伝えるカインによる弟アベル殺し、創世記27章の伝えるエサウが弟ヤコブを殺そうと計ったことからも、よく分ります。 無論、義憤(ぎふん)という正しい怒りもあり、怒りが全て罪なのではありません。現に人間の罪と悪に対して、神ご自身が聖なる怒りをお持ちです(ローマ1:38、マルコ3:5参照)。 しかし、相手の存在までも消し去りたいと思う所まで行きますと、罪です。サタンは私たちがそうなることを狙い、事あらば焚きつけようとしています。その恐ろしさを決して忘れず、私たちは自分の感情をよく支配できる者に、何としてもなりたいと思います。創世記4:7で神はカインに言われました。「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」 エペソ4:26は言います。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」当時は日没から日没までが一日でした。つまり、その日の内に怒りは終らせよと命じます。怒りに日を越させない!とても大事なことだと思います。 「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」(ルカ23:34)と十字架上で祈られた主イエス・キリストが、御霊によって何としても私たちの心を支配して下さいますように!そして、主の祈りの第5の祈願、「我らに罪を犯す者を、我らが許す如く、我らの罪をも赦し給え」を心の底から唱え、主のご支配を強く求めたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
第六戒を学んでいます。
時々お話しますが、1563年に作られたハイデルベルク信仰問答や1647年に作られたウェストミンスター大教理問答と小教理問答などは、大事な点を実によく教えています。宗教改革時代の信仰の先輩たちの的確な聖書理解と信仰の成熟度を教えられます。
そこで今日は、ハイデルベルク信仰問答を見てみます。
「問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。
答 私が、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、私の隣人を、自分自らまたは他人を通して、誹ったり(そしったり)、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。」
「問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
答 神が、殺人の禁止を通して、私たちに教えようとしておられるのは、御自身が、妬み、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。また全てそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
「問107 しかし、私たちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
答 いいえ。神はそこにおいて、妬み、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方が私たちに求めておられるのは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、私たちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」
ここから分りますように、殺人の禁止は勿論、第一に他人を誹り、侮辱すること、特に神の前で一種の隠れた殺人である妬み、憎しみ、怒り、復讐心など、殺人の根を問題とし、第二に自分を傷つけ危険にさらすことも禁じ、第三に隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、隣人への危害を防ぎ、私たちの敵に対してさえ積極的に善を行うことを、第六戒は求めているということです。
今日は、第一点、すなわち、人を誹り、侮辱すること、特に神の前で一種の隠れた殺人である妬み、憎しみ、怒り、復讐心など、殺人の根と言われるものの罪深さに注目します。
主イエスはマタイ5:21、22で言われます。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
主は、まず怒りを挙げられます。怒りを表わすギリシア語には二つあります。パッと燃え上ってすぐ収まる怒りと、長く根に持つ怒りです。ここでは、後の方が使われています。
これが長く続きますと、その人の色々なことが一々気に障り、断罪する気持が募り、赦せなくなります。ついには「あんな人、見たくもない。いなくなれ」となり、その人の存在を心で消してしまいます。ですから、イエスは、これは心による殺人だと言われるのです。
怒りが如何に恐ろしいかは、創世記4章の伝えるカインによる弟アベル殺し、創世記27章の伝えるエサウが弟ヤコブを殺そうと計ったことからも、よく分ります。
無論、義憤(ぎふん)という正しい怒りもあり、怒りが全て罪なのではありません。現に人間の罪と悪に対して、神ご自身が聖なる怒りをお持ちです(ローマ1:38、マルコ3:5参照)。
しかし、相手の存在までも消し去りたいと思う所まで行きますと、罪です。サタンは私たちがそうなることを狙い、事あらば焚きつけようとしています。その恐ろしさを決して忘れず、私たちは自分の感情をよく支配できる者に、何としてもなりたいと思います。創世記4:7で神はカインに言われました。「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
エペソ4:26は言います。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」当時は日没から日没までが一日でした。つまり、その日の内に怒りは終らせよと命じます。怒りに日を越させない!とても大事なことだと思います。
「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」(ルカ23:34)と十字架上で祈られた主イエス・キリストが、御霊によって何としても私たちの心を支配して下さいますように!そして、主の祈りの第5の祈願、「我らに罪を犯す者を、我らが許す如く、我らの罪をも赦し給え」を心の底から唱え、主のご支配を強く求めたいと思います。