2023年01月29日「イエス・キリストは主(使徒信条の学び14)」

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イエス・キリストは主(使徒信条の学び14)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章1節~1節

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2: 1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら、
2: 2 あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。
2: 3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、謙って、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2: 4 夫々、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。
2: 5 キリスト・イエスの内にあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
2: 6  キリストは神の御姿であられるのに、
    神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2: 7  ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
    人間と同じようになられました。
    人としての姿をもって現れ、
2: 8  自らを低くして、死にまで、
    それも十字架の死にまで従われました。
2: 9  それゆえ神は、この方を高く上げて、
    すべての名にまさる名を与えられました。
2:10  それは、イエスの名によって、
    天にあるもの、地にあるもの、
    地の下のあらゆるものの全てが膝をかがめ、
2:11  全ての舌が、
    「イエス・キリストは主です」と告白して、
    父なる神に栄光を帰するのです。フィリピの信徒への手紙 2章1節~1節

原稿のアイコンメッセージ

 霊的な戦いの中で教会がずっと告白してきました使徒信条により、キリスト教信仰の基本を続けて学んでいます。今朝は、神の独り子イエス・キリストが、私たちの「主」である点を改めて学びたいと思います。

 普段、私たちは、「主イエス」とか「主イエス・キリスト」、また単に「主」と口にしますね。皆、聖書にある表現ですが、「主」とはどういう意味でしょうか。

 先程のピリピ2:11は「全ての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神に栄光を帰する」と言い、初代教会が特別な意味でイエス・キリストを主と呼んだことが分ります。他にも、ローマ10:9「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から甦らせたと信じるなら、あなたは救われる」、Ⅰコリント12:3「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言うことは出来」ない、とあります。すなわち、人が罪を赦され、永遠の救いに与れるために必要な信仰告白の内容が「イエス・キリストは主」ということなのです。ですから、使徒信条もわざわざ「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白します。

 では、「主」とはどういう意味でしょうか。

 旧約聖書で主(ヘブル語「ヤーウェ」)は、天地の造り主なる真(まこと)の神を指します。

 主という名と関連します出エジプト3:14の「私はある」という神の自己紹介から見まして、主とは、神が何にも依存せず、ご自分で満ち足りた独立自存の方であることを示す名称であることが分ります。

 その主は、ただ愛によってイスラエルを選び、彼らの神となる契約を結ばれました。ですから、イスラエルにとって恵み深い契約の神であることを強調する時には、主という名が使われました。

 新約聖書が「イエスは主」と言う時、イエスが世に来られた真(まこと)の神であられ、永遠の救いに私たちを与らせる仲保者また恵みの契約の保証という意味があります。

 しかし、特に大切なことは、今やイエスが天地万物の支配者、主権者だという点です。復活されたイエスは、弟子たちに「私には天においても地においても、全ての権威が与えられています」(マタイ28:18)と言い、父なる神から万物を支配する権威を授けられたことを示されました。ですから、ピリピ2:6~8は、イエス・キリストの謙りと従順に触れた後、9~11節でこう言います。「それゆえ神は、この方を高く上げて、全ての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが膝をかがめ、全ての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」つまり、主とは、天と地の一切のものの主権者を指すのです。

 普段、私たちは何気なく「主イエス・キリスト」と言います。でも、極力、その「主」の意味を覚えて口にしたいと思います。

 では、具体的には、これにどんな意義があるでしょうか。大切な点のみ取り上げたいと思います。

 第一にクリスチャンは、イエス・キリストの故に、最高の希望と慰めを与えられています。これをハイデルベルク信仰問答の問1は見事に語ります。長いですが読んでみます。

 問「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

 答「私が、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることであります。

主は、その貴き御血潮をもって、私の一切の罪のために、完全に支払って下さり、私を悪魔の全ての力から救い出し、また今も守って下さいますので、天にいます私の御父の御心によらないでは、私の頭からは、一本の髪も落ちることは出来ないし、実に全てのことが当然、私の祝福に役立つようになっているのであります。

 従って、主はその聖霊によってもまた私に永遠の生命を保証し、私が心から喜んで、この後は、主のために生きることの出来るように、して下さるのです。」

 人間の最大の問題は罪と死です。あの敬虔なダビデ王が、気の緩みから姦淫を犯し、それを隠蔽するために殺人をもしたことを思いますと、罪の力が如何に恐ろしいかがよく分ります。随分前のことです。つい出来心で会社のお金を横領して懲役となり、真面目に服役しましたので早く出所出来たものの、仕事も家族も友人も全て失った人に会ったことがあります。罪は人を狂わせます。恐ろしい力があります。

 次に死があります。死は誰も逃れられません。死は私たちをこの世から引き裂き、自分の犯した罪を、人は本来永遠に償うことになります。何という悲惨でしょうか。

 しかし、ここに主イエスがおられます!主は、ご自分の命により私たちの罪をことごとく十字架で償い、それにより私たちを完全に贖い、永遠にご自分の所有とされました。しかも主は天地万物の支配者です。従って、罪も死も悪魔も、主を心から信じる者を決して滅ぼすことは出来ません。

 信仰があっても、残る罪の性質のために、私たちは世で罪を犯し、死にます。しかし、それは決して真の信仰者を滅ぼすことは出来ません。主イエス以上に強いものはないからです。私たちの髪の毛一本も、主の許しがなければ地に落ちません。しかも、ハイデルベルク信仰問答が言いますように、最後には万事が私たちたちの祝福となるように、主は支配しておられます。イエスが主とは、こういうことなのです。生きている時も死ぬ時も私たちは主のもの!私たちは何ものにも渡されることはない!これ以上の安心、平安、慰めがあるでしょうか。

 第二に、クリスチャンは主イエス以外には従わないことも、心に留めたいと思います。イエスを「私たちの主」と告白することは、私たちの体も魂も主のものであり、イエス・キリスト以外に私たちの主人はいないということです。

 この世には、私たちを支配し、私たちの主になろうとするものが沢山あります。例えば、多くの国が国民の体も心も宗教も支配しようとして来ました。教会はこれに「ノー!」と言い、キリストが主であると告白できるかどうかの戦いの連続でした。1934年、ドイツでは、福音主義に固く立つ教会はバルメン宣言を出し、台頭するヒトラーとナチズムに抵抗しました。日本ではどうだったでしょうか。戦前戦中、少なからぬクリスチャンたちが、「お前は、天皇陛下とキリストと、どちらが偉いと思うのか」と詰問されたそうです。クリスチャンからすれば、これは元々比較など出来ないことなのですが、苦労したと思います。

 仕事や趣味や娯楽も私たちの主となり、私たちの魂をも支配しようとするところがあります。

 しかし、最大の問題は私たちの自我でしょう。人間の最大の不幸の一つは、自分が自分の主であり、誰にも何にも干渉されず、自由に振る舞い、そこに自分らしさがあるかのように思うことです。その結果はどうでしょう。心に本当の満たしはなく、空しい自分の心の空洞を埋めてくれそうに思える何かに夢中になる。これは、人が自分の本当の主を忘れ、自分が自分の主人となった結果です。

 優れたクリスチャンたちが、国も仕事も趣味も自分自身をも大切にし、しかし、それらを主とすることを拒否し、「イエス・キリストこそ私の主」とハッキリ告白し、時間も真の所有者、神に献げ、主にのみ従おうとして来たことが如何に大切かが分ります。それこそ、実は真に私たちを満たし、完成する道なのです。パウロがローマ14:8で「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と言い、私たちにキリスト中心の明確な人生観、死生観、価値観を示したことは、何と感謝なことでしょうか。

 最後、第三に、イエス・キリストが主であるとの告白が、教会の正しいあり方を教え導いてくれる上で、大切な意味を持っていることに触れて終ります。

 使徒信条は、「私の主」イエス・キリストではなく、「我らの主」イエス・キリストと言います。ここが大切です。

 教会を英語でチャーチと言いますね。これは「主のもの」という意味のギリシア語キュリアコスから生れ、「主の家、主に属するもの」、つまり、教会を意味するようになりました。日本語で教会と言いますと、何かを教える集りという感じが強く、本来の意味がぼやけますが、教会とは元々「主の家、主に属するもの、主の家族」という意味なのです。

 私たちはクリスチャンであっても、夫々は多くの点で異なり、普段は別々に生活しています。しかし、十字架で捧げられた主イエス・キリストの同じ命によって贖われ、主のものとされ、主が私たちを神の家族としておられることを、改めてよく覚えたいと思います。

 そしてもう一つ。私たち教会員は主のために生きることにおいて一つであり、主イエスへの真実こそが全てを貫く原理だという点です。教会員の間で意見の相違が起っても、主イエスに対する真実を誰もが失わない限り、教会は立ちます。摩擦が起きても、大丈夫です。しかし、そこが希薄で、自分に対する他人の真実を第一に求める場合もあります。すると、それが疑わしく思える時、教会の交わりは壊れます。

 一番大切なのは、主イエス・キリストに対する真実なのです。これがあれば、色々なことがあっても、なお神に喜ばれ、人間の究極の幸せである魂の救いのために、丁寧に福音に生き、福音を証しする教会として、私たちは存続を許されるでしょう。「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白することの意味は、誠に大きいと言えます。

 「我らの主イエス・キリストを信ず!」

 この信仰告白の持つ意味を改めてよく心に留め、この告白に夫々が真実に、かつ喜んで生き、伝道、また主イエス・キリストの家族である教会の形成に、主を仰ぎ見つつ、ご一緒に励みたいと思います。

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