2023年01月22日「神の愛を信じ、委ねる」

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3:16 神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。ヨハネによる福音書 3章16節

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 本日の礼拝は伝道礼拝ですので、聖書から多少とも分りやすくお話させて頂きたいと思います。

 今朝、私が、特にクリスチャンではない皆様にお伝えしたいことは、キリスト教信仰において最も大切なことの一つは、説教題にも掲げましたが、「神の愛を信じること」、また「神に委ねること」です。

 そこで、先程お読みしましたヨハネ3:16をもう一度読みます。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ここは今までも礼拝で何度かお話しましたが、有名な、そしてとても大切な御言葉(みことば)です。今朝も注目したいと思います。

 第一の点を、まずお話致します。キリスト教信仰において最終的に最も大切なことの一つは、「神の愛を信じる」ということです。

 少し私のことをお話させて頂きます。元々、キリスト教ではない家庭で育った私ですが、キリスト教との出会いは、10代の後半でよく読みました西洋の色々な小説や文学書、それと観た映画を通して、そこそこありました。友人の一人がクリスチャンになったことも、反発はしましたが、私を正面からキリスト教に向き合せる機会になったと思います。

 そして実は、今申しました多くの西洋の小説や映画から、私はキリスト教に割合良い印象を抱きました。本当の自分が善人でないことが自分で分っていただけに、神をまっすぐ信じ、仰ぎ、また少しでも愛をもって清く真実に生きようとするクリスチャンというものに、少し憧れさえ抱いたと思います。

 しかし、大きな問題がありました。神は本当におられるのか、という点です。神が存在しないなら、神を信じて生きるのは愚かですし、神存在を確かめもしないで闇雲(やみくも)に信じるなんて、人間として不誠実だとも思いました。

 とはいえ、人間の認識能力を超えた神の存在は、科学的には証明も出来なければ否定も出来ません。これは、17世紀のフランスの有名な数学者、物理学者、哲学者であったパスカルが言いましたように、信じるしかありません。つまり、イエス・キリストのあの出来事、それと聖書全体の証言を冷静に受け留め、神がおられることに、いわば賭けるのです。20歳で洗礼を受けた時の私の信仰は、正直な所、これに近かったと思います。

 しかし、神存在を信じても、キリスト教信仰に進む上で、尚、残る問題があります。自分が真(まこと)の神をもっとよく知り、もっと清くて、善い人間、立派な人間にならなければ、という思いがそうです。これは、自分を殆ど省みず、いい加減なままでクリスチャンになり、いい加減なままのクリスチャンであることと比べれば、遥かに真面目で誠実です。

 しかし、それならば、どこまで聖書を勉強して神をもっと知り、またどこまで心も生活も清くなり、善い人間になれば、キリスト教信仰に進み、生きていく資格があると言えるのでしょうか。むしろ、聖書の教えにより自分を見つめれば見つめる程、使徒パウロのように「私は本当に惨めな人間です。誰が…私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)という呻きというか、絶望的な思いしかないと思います。また自分で「もうこれ位でいいだろう」と思っても、それは自分の主観的な判断に過ぎず、本当に神が「良し」とされるものかどうかは分りません。

 では、私たちはどうあることが良いのでしょうか。

 ここにイエス・キリストの福音、良き知らせがあります!それは、私たちが、自己中心的な自分の不信仰や罪、足りなさを神の前に正直に認め、平伏し、「神様、罪人の私をお赦し下さい。憐れんで下さい」と心から神に告白することです。

 またこんな私たちの罪を全部背負い、十字架で命を献げ、私たちを永遠の滅びから救うことのお出来になる神の独り子イエス・キリストを私たちに与え、プレゼントして下さった父なる神の計り知れない救いの愛をこそ信じ、永遠の救いを頂くこと!これが、天の父なる神の何より喜ばれることなのです。また、神の計り知れない一方的な救いの愛を現しておられる御子イエスを、救い主として信じ、神の愛を幼子のように素直に信じること!

 この大切さを私たちに伝えるために、ヨハネ3:16は語ります。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 力や聖さ、正しさ、真実などにおいて、無限・永遠・不変の神を私たちがよ~く知り、私たちも清くて善い人間になることは、誠に尊いことです。しかし、その前にもっと尊いことは、私たちに向けられている神の確かで豊かで熱い救いの愛を信じることなのです。

 「駄目だよ」と言われていた高い木に勝手に登り、案の定、すごく危険で降りられなくなった子供がいたとします。その子を助けるために、その子を愛している、体がうんと大きくて力の強いお父さんは、木の上で泣いている子供に、「大丈夫だよ。お父さんの腕の中に飛び降りなさい」と言います。その子に大切なことは、今にもボキッと折れようとしている木の上で、「自分で降りる!」と言い張って我を通すことではありません。お父さんを信じ、お父さんの腕の中に飛び降りることですよね。飛び降りて、お父さんにしっかり受け留められた子供は、どんなに嬉しくて幸せでしょうか。お父さんもまた、どんなに嬉しくて幸せでしょうか。神の愛を信じるとは、こういうことなのです。

 さて、今朝お話したいことがもう一つあります。神に、また神の愛に、自分と自分の今後を委ねることです。

 人類全体の罪のために歪んでしまっているこの世ですから、生きて行く上で、私たちは悲しいことや苦しいこと、恐ろしいことにも出会います。それがトラウマになり、何かの折りにフラッシュバック、つまり、心の中に蘇ることもあります。また、自分や家族の病気とか、その他、色々なことが起り、先のことが心配で、それを考えると胸がキュッと締め付けられ、痛くなるぐらい、不安に駆られることもあります。これは神を信じ、救い主イエス・キリストを信じていても起ります。

 それだったら、神を信じていても意味がないのではないでしょうか。いいえ、違います!本当に私たちが切羽詰まった時、神のおられることだけでなく、神の愛を信じている人は、今は分らないことが沢山ありましても、最終的には神に全てを委ねることができるからです。

 と言うのは、創世記からヨハネの黙示録まで、全66巻を挙げて聖書がハッキリ証言しますように、神は愛、すなわち、赦しや慈しみ、憐れみに富んだ方であると共に、知恵と力においても、無限・永遠・不変のお方だからです。ですから、イエス・キリストがこの世に来られるもっと前の旧約時代の信仰者に向っても、聖書はこのように教えるのでした。詩篇37:5「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」

 この温かくて力強い約束がありますので、その少し前の1、2節は「悪を行う者に腹を立てるな。…彼らは…青草のように枯れるのだから」と言い、3、4節ではこう教えます。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いを叶えて下さる。」更に37:5の少し後の7節ではこう教えます。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 先程、神の愛を信じることの大切さや素晴らしさ、幸せをお話した時、幼い子供とお父さんの譬を用いました。それは、私たちが神に自分を委ねる場合にも当てはまると思います。

 私たちの人生には、これからどうなって行くのか分らない先のことを思いますと、怖いし、心細くて、「ワアーン」と泣き出したくなる時もあると思います。

 しかし、怖くて泣いている子供に、手を大きく広げて下から見上げ、「頑張らなくていいんだよ。飛び降りて大丈夫!大丈夫!お父さんに任せて!」と笑顔で言う力強いお父さんのように、私たちも今後のこととその後の永遠の世界のことも全て引き受けて下さる、全知全能の父なる神に委ねて良いのです。神は、最終的には一番良いようにして下さいます。

 実は、十字架上で最後に「父よ、私の霊をあなたに委ねます」(ルカ23:45)と言って、父なる神にそっくりご自分を委ね、その結果、三日後に復活され、私たちに永遠の命を示された主イエス・キリストも、ご自分の経験にも基づいて、「私のように、あなたも天の父に委ねれば良いのですよ」とおっしゃっているのです。

「神の愛を信じ、委ねる。」聖書のこの教えを固く心に留め、皆で本当に神の子供、神の家族とされ、是非、祈り、励まし合って、この新しい年も進んで行きたいと思います。

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