Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。エフェソの信徒への手紙 6章18節 メッセージ 今朝は、当教会の今年の標語に関する説教を致します。 今年の標語は「心を一つにして、ひたすら祈ろう」です。新年礼拝でお話しましたが、「心を一つにして」という点は、マタイ18:19、20の主イエスの教えから来ています。しかし、標語にはもう一つ大事な点があります。「ひたすら」祈るという点です。 先程は読みませんでしたが、コロサイ4:2は「たゆみなく祈りなさい」と教えます。「たゆみなく」と訳されている元のギリシア語は、「根気よく、粘り強く」という意味の言葉であり、新共同訳聖書は「ひたすら」と訳しています。そこで、先程のエペソ6:18をもう一度見たいと思います。「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」 エペソ書とコロサイ書は、どちらも使徒パウロが牢獄の中から書いたものであり、内容が似ています。従って、両方を読みますと、パウロの教えようとしたことが一層よく分ります。 私たちは「ひたすら」神に祈り願いたいと思いますが、「ひたすら」という点を、より全体的、立体的に理解し、自分のものとする上で、パウロが強調している点をエペソ6:18から六つ見ておきたいと思います。 第一は、「あらゆる祈りと願いによって」です。直訳しますと、「全ての祈りと願いを通して」となります。「祈りと願いの言葉を、文字通り総動員して」という位の熱い意識で、ということでしょう。 第二は、「どんな時にも」です。直訳しますと、「全ての時に」であり、いっ時だけとか、ごくたまにではなく、また普通の時は勿論、心配事があったり、辛くて気持が塞ぎ、或いは心が重い時でも、とにかく本当に色々な時に祈るということでしょう。 第三は、「御霊によって」です。すなわち、自分の欲望や願望を第一に掲げ、一方的に神にグイグイ押し付けるのではありません。自我を引込め、あくまでも御霊の導き、すなわち、客観的な神ご自身の導きをこそ求め、謙って、それに従いながら祈るのです。 第四は、「眼を覚まして」です。半分眠ったような、ぼんやりと信仰的意識の低いままではなく、イエス・キリストを目の前にハッキリ仰ぎ、信仰的に完全に覚醒した状態で祈るのです。 第五は、「全ての聖徒のために」です。「聖」の基本概念は、聖書では「分かれる、離れる」です。ですから、「聖徒」とは、世俗的、肉的な考え方や生き方から離れ、神を本当に畏れ、主イエスを心から信じ受け入れ依り頼み、主に倣って聖く生きたいと本気で願う真(まこと)のクリスチャンのことです。 「全ての」とあります。知っているクリスチャンは勿論、祈って上げる必要のある全ての信仰者のことです。無論、文字通り、全ての聖徒たちのために祈ることは不可能です。こういう場合の「全て」は強調語であり、「極力、全ての」ということでしょう。 第六は、「忍耐の限りを尽くして」です。ここは元のギリシア語を直訳しますと、「全ての忍耐において」となります。「忍耐の限りを尽くして」は、ニュアンスをよく把握した優れた翻訳だと思います。 神に喜ばれて聞き入れられる祈りは、実際、忍耐を必要とします。祈りがなかなか聞かれないと感じますと、クリスチャンの中でも気の短い人は、「これ以上祈るのは、もうやめようか」となりかねません。初代教会時代にも、そういう短気なクリスチャンがいたでしょう。しかし、それはまだ本当の信仰と祈りが十分身に着いていない人です。ですから、パウロは「忍耐の限りを尽くして祈りなさい」と教えます。その通りですね。 今年の教会標語の後半の言葉、「ひたすら祈ろう」は、正にこの「忍耐の限りを尽くして祈」ろう、と同じと言えましょう。 この点で、私たちの救い主、主イエスは全く同じように教えておられます。ルカ18:1~8で、イエスは失望せずに忍耐強く祈ることを譬によって教えておられます。そこの最後の8節で、イエスは、「だが、人の子(つまり、イエスご自身)が来る時(すなわち、世の終りにもう一度、イエス・キリストがこの世に来られる、いわゆる再臨の時)、果たして地上に信仰が見られるでしょうか」と警告しておられます。 要するに、祈ることに疲れ、もっと悪い場合には、祈ることに飽きて、祈りなんか意味がないと考え、信仰が殆ど失われている者がどんなに多いだろうか、とイエスは鋭く警告されるのです。 事実、それから数十年が経ち、ヘブル書が書かれた頃、迫害や嫌がらせや辛いことが続く中、忍耐心を放棄し、信仰的に危なくなっている人たちも多く出ていました。ですから、ヘブル10:36、37はこう教えました。「あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。『もう暫くすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。』」と。 「ひたすら」また「忍耐の限りを尽くして」天の父なる神に祈り願う点で、しっかり心に留めたいのは、祈りの継続性と持続性です。有名な御言葉ですが、イエスはマタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そうすれば開かれます」とお教えになっています。そこの「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」は、元のギリシア語では全部、継続を表わす動詞が使われ、「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味です。そうすれば、与えられ、見出し、開かれると、神の御子イエスはお約束下さっています。 信仰を与えられても、なお、罪の汚れを宿す私たち罪人の欠点の一つは、祈らなければならない大切なことでもすぐ忘れる、祈りの健忘症であることです。それと怠け癖や気短(きみじか)のために祈りが長続きせず、また諦めの早いことです。たゆまず、ひたすら、そしてエペソ6:18が教えるように「忍耐の限りを尽くして」祈り続けることは、何と大切でしょうか。 そこで最後に、今学んできたことと照らし合せて、三つ程、心に留めておきたいことをお話致します。 第一は、特に家族や親しい方々の救いのためにひたすら祈ることです。クリスチャンにとって、天地の創り主なる真の神とその独り子、すなわち、人類のために十字架で贖いの業(わざ)を全うし、常に愛と忍耐をもって招いておられる主イエスを皆が信じ、救われること程、嬉しいことはありません。 しかし、私たち自身もそうでしたように、人は簡単には神を受け入れません。そして、そのまま私たちの大切な方々が亡くなることもあります。 では、彼らは確実に救われず、滅びなのでしょうか。それは軽々しく言えません。何故なら、彼らがかつて聞いた福音を死の直前に思い出し、神を信じる可能性があるからです。またマルコ9:40でイエスが弟子たちに言われた「私たちに反対しない人は、私たちの味方です」という御言葉、これがどこまでのことを意味するのかは分かりませんが、これを心に留めておきたいと思います。 私たちは決して諦めず、彼らのためにひたすら祈り、言葉と生活で福音を証ししたいと思います。 第二に、これは残念で、大いに心残りなことなのですが、彼らの救いを願い、ひたすら祈る私たちの方が先に世を去ることもあります。しかし、忘れてはなりません。歴史を降り返りますと、例えば、子供が信仰を持たず、神から離れた生活をしている時に、祈って来たクリスチャンである親が先に死に、けれども、その後、かなり時が経ってから子供が信仰を持ったという例もしばしばあるのです。神は、そういう形で祈りを聞かれることもあるのですよね。ですから、やはり私たちは諦めず、神に期待してひたすら祈るのです。 第三に、本当に皆のために、つまり、横の広がりの点でも、ひたすら祈りたいと思います。他の誰かの祈りによる支えを必要としない程、強い人など、一人もいません。誰もが本当は弱いのです。実際、使徒パウロでさえ、先程のエペソ6:18に続く19節でも20節でも、私のために「祈って下さい」と繰り返し頼み、ヘブル書の著者も13:18、19で「私たちのために祈って下さい」と繰り返し頼んでいます。 そうです。私たち岡山西教会は、「本当に皆のために祈るのだ」という神からの大きな、そして本当に尊いチャレンジを今年受けているのです。これは、もっと多くの方が、ただイエス・キリストへの信仰によって救われる、すなわち、愛と赦しに満ちた天の真の父に立ち帰り、最高の幸せに与って下さるための、私たちへの恵みのチャレンジです。 主が、どうか、私たち自身と私たちの祈りを、十分にお用い下さいますように! 関連する説教を探す 2023年の日曜朝の礼拝 『エフェソの信徒への手紙』
今朝は、当教会の今年の標語に関する説教を致します。
今年の標語は「心を一つにして、ひたすら祈ろう」です。新年礼拝でお話しましたが、「心を一つにして」という点は、マタイ18:19、20の主イエスの教えから来ています。しかし、標語にはもう一つ大事な点があります。「ひたすら」祈るという点です。
先程は読みませんでしたが、コロサイ4:2は「たゆみなく祈りなさい」と教えます。「たゆみなく」と訳されている元のギリシア語は、「根気よく、粘り強く」という意味の言葉であり、新共同訳聖書は「ひたすら」と訳しています。そこで、先程のエペソ6:18をもう一度見たいと思います。「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」
エペソ書とコロサイ書は、どちらも使徒パウロが牢獄の中から書いたものであり、内容が似ています。従って、両方を読みますと、パウロの教えようとしたことが一層よく分ります。
私たちは「ひたすら」神に祈り願いたいと思いますが、「ひたすら」という点を、より全体的、立体的に理解し、自分のものとする上で、パウロが強調している点をエペソ6:18から六つ見ておきたいと思います。
第一は、「あらゆる祈りと願いによって」です。直訳しますと、「全ての祈りと願いを通して」となります。「祈りと願いの言葉を、文字通り総動員して」という位の熱い意識で、ということでしょう。
第二は、「どんな時にも」です。直訳しますと、「全ての時に」であり、いっ時だけとか、ごくたまにではなく、また普通の時は勿論、心配事があったり、辛くて気持が塞ぎ、或いは心が重い時でも、とにかく本当に色々な時に祈るということでしょう。
第三は、「御霊によって」です。すなわち、自分の欲望や願望を第一に掲げ、一方的に神にグイグイ押し付けるのではありません。自我を引込め、あくまでも御霊の導き、すなわち、客観的な神ご自身の導きをこそ求め、謙って、それに従いながら祈るのです。
第四は、「眼を覚まして」です。半分眠ったような、ぼんやりと信仰的意識の低いままではなく、イエス・キリストを目の前にハッキリ仰ぎ、信仰的に完全に覚醒した状態で祈るのです。
第五は、「全ての聖徒のために」です。「聖」の基本概念は、聖書では「分かれる、離れる」です。ですから、「聖徒」とは、世俗的、肉的な考え方や生き方から離れ、神を本当に畏れ、主イエスを心から信じ受け入れ依り頼み、主に倣って聖く生きたいと本気で願う真(まこと)のクリスチャンのことです。
「全ての」とあります。知っているクリスチャンは勿論、祈って上げる必要のある全ての信仰者のことです。無論、文字通り、全ての聖徒たちのために祈ることは不可能です。こういう場合の「全て」は強調語であり、「極力、全ての」ということでしょう。
第六は、「忍耐の限りを尽くして」です。ここは元のギリシア語を直訳しますと、「全ての忍耐において」となります。「忍耐の限りを尽くして」は、ニュアンスをよく把握した優れた翻訳だと思います。
神に喜ばれて聞き入れられる祈りは、実際、忍耐を必要とします。祈りがなかなか聞かれないと感じますと、クリスチャンの中でも気の短い人は、「これ以上祈るのは、もうやめようか」となりかねません。初代教会時代にも、そういう短気なクリスチャンがいたでしょう。しかし、それはまだ本当の信仰と祈りが十分身に着いていない人です。ですから、パウロは「忍耐の限りを尽くして祈りなさい」と教えます。その通りですね。
今年の教会標語の後半の言葉、「ひたすら祈ろう」は、正にこの「忍耐の限りを尽くして祈」ろう、と同じと言えましょう。
この点で、私たちの救い主、主イエスは全く同じように教えておられます。ルカ18:1~8で、イエスは失望せずに忍耐強く祈ることを譬によって教えておられます。そこの最後の8節で、イエスは、「だが、人の子(つまり、イエスご自身)が来る時(すなわち、世の終りにもう一度、イエス・キリストがこの世に来られる、いわゆる再臨の時)、果たして地上に信仰が見られるでしょうか」と警告しておられます。
要するに、祈ることに疲れ、もっと悪い場合には、祈ることに飽きて、祈りなんか意味がないと考え、信仰が殆ど失われている者がどんなに多いだろうか、とイエスは鋭く警告されるのです。
事実、それから数十年が経ち、ヘブル書が書かれた頃、迫害や嫌がらせや辛いことが続く中、忍耐心を放棄し、信仰的に危なくなっている人たちも多く出ていました。ですから、ヘブル10:36、37はこう教えました。「あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。『もう暫くすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。』」と。
「ひたすら」また「忍耐の限りを尽くして」天の父なる神に祈り願う点で、しっかり心に留めたいのは、祈りの継続性と持続性です。有名な御言葉ですが、イエスはマタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そうすれば開かれます」とお教えになっています。そこの「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」は、元のギリシア語では全部、継続を表わす動詞が使われ、「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味です。そうすれば、与えられ、見出し、開かれると、神の御子イエスはお約束下さっています。
信仰を与えられても、なお、罪の汚れを宿す私たち罪人の欠点の一つは、祈らなければならない大切なことでもすぐ忘れる、祈りの健忘症であることです。それと怠け癖や気短(きみじか)のために祈りが長続きせず、また諦めの早いことです。たゆまず、ひたすら、そしてエペソ6:18が教えるように「忍耐の限りを尽くして」祈り続けることは、何と大切でしょうか。
そこで最後に、今学んできたことと照らし合せて、三つ程、心に留めておきたいことをお話致します。
第一は、特に家族や親しい方々の救いのためにひたすら祈ることです。クリスチャンにとって、天地の創り主なる真の神とその独り子、すなわち、人類のために十字架で贖いの業(わざ)を全うし、常に愛と忍耐をもって招いておられる主イエスを皆が信じ、救われること程、嬉しいことはありません。
しかし、私たち自身もそうでしたように、人は簡単には神を受け入れません。そして、そのまま私たちの大切な方々が亡くなることもあります。
では、彼らは確実に救われず、滅びなのでしょうか。それは軽々しく言えません。何故なら、彼らがかつて聞いた福音を死の直前に思い出し、神を信じる可能性があるからです。またマルコ9:40でイエスが弟子たちに言われた「私たちに反対しない人は、私たちの味方です」という御言葉、これがどこまでのことを意味するのかは分かりませんが、これを心に留めておきたいと思います。
私たちは決して諦めず、彼らのためにひたすら祈り、言葉と生活で福音を証ししたいと思います。
第二に、これは残念で、大いに心残りなことなのですが、彼らの救いを願い、ひたすら祈る私たちの方が先に世を去ることもあります。しかし、忘れてはなりません。歴史を降り返りますと、例えば、子供が信仰を持たず、神から離れた生活をしている時に、祈って来たクリスチャンである親が先に死に、けれども、その後、かなり時が経ってから子供が信仰を持ったという例もしばしばあるのです。神は、そういう形で祈りを聞かれることもあるのですよね。ですから、やはり私たちは諦めず、神に期待してひたすら祈るのです。
第三に、本当に皆のために、つまり、横の広がりの点でも、ひたすら祈りたいと思います。他の誰かの祈りによる支えを必要としない程、強い人など、一人もいません。誰もが本当は弱いのです。実際、使徒パウロでさえ、先程のエペソ6:18に続く19節でも20節でも、私のために「祈って下さい」と繰り返し頼み、ヘブル書の著者も13:18、19で「私たちのために祈って下さい」と繰り返し頼んでいます。
そうです。私たち岡山西教会は、「本当に皆のために祈るのだ」という神からの大きな、そして本当に尊いチャレンジを今年受けているのです。これは、もっと多くの方が、ただイエス・キリストへの信仰によって救われる、すなわち、愛と赦しに満ちた天の真の父に立ち帰り、最高の幸せに与って下さるための、私たちへの恵みのチャレンジです。
主が、どうか、私たち自身と私たちの祈りを、十分にお用い下さいますように!