Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 18:18 まことに、あなた方に言います。何でもあなた方が地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなた方が地上で解くことは、天でも解かれます。18:19 まことに、もう一度あなた方に言います。あなた方のうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。18:20 二人か三人が私の名において集っているところには、私もその中にいるのです。マタイによる福音書 18章18節~20節 メッセージ 礼拝をもって2023年を始められる幸いを覚え、神に感謝致します。 今朝の説教題「心を一つにして祈ろう」は、今年の教会標語に基づくものです。伝道所委員会で昨年の暮れにこれを決めました。私たちには、心を一つにした祈りが必要だと思うからです。 日本社会全体の活力とも関係していると思いますが、今、キリスト教会の勢いが落ちています。当教会も例外ではありません。その一つの表れが、クリスチャン数の減少です。これには色々な原因があるでしょうが、とにかく教会の霊的活性化が何としても必要と思われます。しかし、これは人間的なやり方では決して旨く行きません。何より祈りが不可欠です。 祈りは、神の豊かな恵みを頂く上で、神が下さった素晴らしい恵みの手段です。宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』Ⅲ20で、祈りは「信仰の修錬の主要なものであり、我々はこれによって日々に神の恵みを受けるのである」と言います。またウェストミンスター小教理問答の問88は、キリストが贖いの恵みを私たちに伝達される外的な普通の手段は、「キリストの規定、特に御言葉と礼典と祈り」だと教えます。祈りは私たちにとって最も尊い恵みの手段の一つなのです。 そして神の御心に適った祈りは、無から有を生じさせ、闇を光に、死を命に、不可能を可能に変えることのお出来きになる全知全能の神の恵みを、必ず私たちに与えます。感謝なことに、私たちには素晴らしい恵みの手段、祈りがあるのです。ですから、聖書は大いに祈りを励まします。例えば、エペソ6:18は言います。「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」 祈りのあるところ、希望があり未来があります。今年を、今までにも増して祈る1年にしたいと思います。 さて、今年の教会標語の全体は「心を一つにして、ひたすら祈ろう」です。「心を一つにして」と「ひたすら」の二点が強調されています。今朝は「心を一つにして」の方を取り上げます。 心を一つにして祈る!聖書で、これはどんなに強調されていることでしょう。先程お読みしましたマタイ18:19で、主イエスは「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます」と言われます。「二人が…心を一つにして祈るなら…。」イエスの弟子たちはこれを忘れませんでした。 そこで、新約聖書の「使徒の働き」を見たいと思います。「使徒の働き」は、教会が手本とすべき実例の宝庫です。まず1:14を見ます。「彼らは皆、女たちとイエスの母マリア、及びイエスの兄弟たちと共に、いつも心を一つにして祈っていた」と伝えます。弟子たちは、1:5「あなた方は間もなく、聖霊によってバプテスマを授けられる」というイエスの約束を心から信じ、聖霊が働かれる時に自分がそれに相応しい状態であることを願い、祈って自分を整え、それに備えました。 その祈りに主は答えて下さいました。2:1、五旬節(ペンテコステ)の日に「皆が同じ場所に集って」いると、聖霊が弟子たちに下り、素晴らしい御業(みわざ)を行われました。 その出来事の後、2:46は初代教会の信徒たちが「毎日、心を一つにして宮に集り、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し」と、つまり、礼拝と温かい交わりと祈りに熱心であったことを伝えます。その結果、2:47、彼らは皆から好意を持たれ、「主は毎日、救われる人々を加えて」下さったのでした。 4章に進みます。ユダヤ教権威者たちに捕えられていたペテロとヨハネが釈放されますと、人々はやはり4:24「心を一つにして」神に祈りました。4:32は「信じた大勢の人々は心と思いを一つにし」と伝えています。 初代教会最大の危機の一つを12:1~4が伝えています。ヘロデ王が教会のある人々に迫害の手を伸ばし、何とヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、更にペテロをも捕えたのです。このままですと、ペテロも確実に殺されます。ところが、教会には彼を救う何の手立てもありません。全くお手上げです。絶望的でした。彼らに出来ることと言えば、ただ祈りでした。12:5「教会は彼のために、熱心な祈りを神に献げていた。」 すると12:6以降が伝えますように、神は驚くべき方法でペテロを救い出されたのでした。 面白いのは、そうやって心を一つにして熱心に祈りを献げていたにも関らず、いざ救い出されたペテロが、13節以降が伝えますように、皆の所にやって来ますと、戸の外にいるペテロを信じられなかったのです。祈ってはいたが、殆ど諦めていた!これが教会の現実でした。 しかし、忘れてはなりません。こんな不甲斐ない状態であっても、皆が心を一つにして熱心に祈りを献げたことを、恵み深い神は決して小さなこととはされず、彼らが想像もしなかった驚くべき方法で教会の危機を救い、ご自分の栄光を表されたのです。 心が混乱した、まとまらない祈りでも、私たちが心を一つにして捧げた祈りは空しくないのです。先程のマタイ18:19でイエスは言われました。「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます。」 神は何故かなえて下さるのでしょうか。20節「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。」要するに、イエス御自身が本当に臨在され、弱い私たちのために、父なる神に執り成して下さるからなのです。何という主の愛でしょう。 「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいる!」主イエスの御霊が、私たちの祈りの根底にある切実な願いをも全て分り、ご自分のことのように執り成して下さるのです。ローマ8:26、27は言います。「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって、執り成して下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒達のために執り成して下さるからです。」 一人で祈ることは、無論、とても大切です。それを忘れてはなりません。しかしまた、二人か三人で心を一つにして祈ることは、更に素晴らしいのです。旧約聖書の「伝道者の書」4:9~12は言います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れる時には、一人がその仲間を起す。倒れても起してくれる者のいない、独りぼっちの人は可哀想だ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向える。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」祈りについても同じですね。 カルヴァンは、『キリスト教綱要』Ⅲ20章で「主の福音が私たちの信仰に示して直視させる諸々の宝を、祈りによって掘り出すということは、まことに真実である」と言います。厳しい宗教改革事業の中で、彼自身、これを体験したでしょう。祈りが地中に埋められている諸々の宝を掘り起す作業のようなものであるなら、一人よりも二人、いいえ、皆で心を合わせて祈る方が断然良いのは、自明のことです。「心を一つにして祈る」恵みは本当に大きいのです。 ですから、今年は、木曜日の朝夕の祈祷会に一度でも二度でも出席するとか、何人かが集った時には、まず祈りたいと思います。 これは私たちが同じ場所にいることだけを意味しません。大切なことは心が一つであること、すなわち、共通の意識、目的のあることです。例えば、ローマ12:15には「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」とあります。他の人の喜び、悲しみに絶えず関心を払い、祈りに覚える愛が何よりも大切です。 また私たちは一つの御霊に結ばれ、主イエスの一つの永遠の命に生かされ、一つの御言葉に育まれ、最終的には私たちが生きるにも死ぬにも、私たちに御子を賜った程に私たちを愛しておられる神の栄光が現されるようにという一つの目的において、心が一つであることです。 同じ場所に私たちが一緒にいてもいなくても、こういう明確な意識と目的において一つであり、互いに執り成しの祈りを献げ、神と人にまず祈りをもって仕えたいと思います。私たちに今年の教会標語を下さった神が、私たち一人一人を大いに励まして下さいますように! 関連する説教を探す 2023年の日曜朝の礼拝 『マタイによる福音書』
礼拝をもって2023年を始められる幸いを覚え、神に感謝致します。
今朝の説教題「心を一つにして祈ろう」は、今年の教会標語に基づくものです。伝道所委員会で昨年の暮れにこれを決めました。私たちには、心を一つにした祈りが必要だと思うからです。
日本社会全体の活力とも関係していると思いますが、今、キリスト教会の勢いが落ちています。当教会も例外ではありません。その一つの表れが、クリスチャン数の減少です。これには色々な原因があるでしょうが、とにかく教会の霊的活性化が何としても必要と思われます。しかし、これは人間的なやり方では決して旨く行きません。何より祈りが不可欠です。
祈りは、神の豊かな恵みを頂く上で、神が下さった素晴らしい恵みの手段です。宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』Ⅲ20で、祈りは「信仰の修錬の主要なものであり、我々はこれによって日々に神の恵みを受けるのである」と言います。またウェストミンスター小教理問答の問88は、キリストが贖いの恵みを私たちに伝達される外的な普通の手段は、「キリストの規定、特に御言葉と礼典と祈り」だと教えます。祈りは私たちにとって最も尊い恵みの手段の一つなのです。
そして神の御心に適った祈りは、無から有を生じさせ、闇を光に、死を命に、不可能を可能に変えることのお出来きになる全知全能の神の恵みを、必ず私たちに与えます。感謝なことに、私たちには素晴らしい恵みの手段、祈りがあるのです。ですから、聖書は大いに祈りを励まします。例えば、エペソ6:18は言います。「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」
祈りのあるところ、希望があり未来があります。今年を、今までにも増して祈る1年にしたいと思います。
さて、今年の教会標語の全体は「心を一つにして、ひたすら祈ろう」です。「心を一つにして」と「ひたすら」の二点が強調されています。今朝は「心を一つにして」の方を取り上げます。
心を一つにして祈る!聖書で、これはどんなに強調されていることでしょう。先程お読みしましたマタイ18:19で、主イエスは「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます」と言われます。「二人が…心を一つにして祈るなら…。」イエスの弟子たちはこれを忘れませんでした。
そこで、新約聖書の「使徒の働き」を見たいと思います。「使徒の働き」は、教会が手本とすべき実例の宝庫です。まず1:14を見ます。「彼らは皆、女たちとイエスの母マリア、及びイエスの兄弟たちと共に、いつも心を一つにして祈っていた」と伝えます。弟子たちは、1:5「あなた方は間もなく、聖霊によってバプテスマを授けられる」というイエスの約束を心から信じ、聖霊が働かれる時に自分がそれに相応しい状態であることを願い、祈って自分を整え、それに備えました。
その祈りに主は答えて下さいました。2:1、五旬節(ペンテコステ)の日に「皆が同じ場所に集って」いると、聖霊が弟子たちに下り、素晴らしい御業(みわざ)を行われました。
その出来事の後、2:46は初代教会の信徒たちが「毎日、心を一つにして宮に集り、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し」と、つまり、礼拝と温かい交わりと祈りに熱心であったことを伝えます。その結果、2:47、彼らは皆から好意を持たれ、「主は毎日、救われる人々を加えて」下さったのでした。
4章に進みます。ユダヤ教権威者たちに捕えられていたペテロとヨハネが釈放されますと、人々はやはり4:24「心を一つにして」神に祈りました。4:32は「信じた大勢の人々は心と思いを一つにし」と伝えています。
初代教会最大の危機の一つを12:1~4が伝えています。ヘロデ王が教会のある人々に迫害の手を伸ばし、何とヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、更にペテロをも捕えたのです。このままですと、ペテロも確実に殺されます。ところが、教会には彼を救う何の手立てもありません。全くお手上げです。絶望的でした。彼らに出来ることと言えば、ただ祈りでした。12:5「教会は彼のために、熱心な祈りを神に献げていた。」
すると12:6以降が伝えますように、神は驚くべき方法でペテロを救い出されたのでした。
面白いのは、そうやって心を一つにして熱心に祈りを献げていたにも関らず、いざ救い出されたペテロが、13節以降が伝えますように、皆の所にやって来ますと、戸の外にいるペテロを信じられなかったのです。祈ってはいたが、殆ど諦めていた!これが教会の現実でした。
しかし、忘れてはなりません。こんな不甲斐ない状態であっても、皆が心を一つにして熱心に祈りを献げたことを、恵み深い神は決して小さなこととはされず、彼らが想像もしなかった驚くべき方法で教会の危機を救い、ご自分の栄光を表されたのです。
心が混乱した、まとまらない祈りでも、私たちが心を一つにして捧げた祈りは空しくないのです。先程のマタイ18:19でイエスは言われました。「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます。」
神は何故かなえて下さるのでしょうか。20節「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。」要するに、イエス御自身が本当に臨在され、弱い私たちのために、父なる神に執り成して下さるからなのです。何という主の愛でしょう。
「二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいる!」主イエスの御霊が、私たちの祈りの根底にある切実な願いをも全て分り、ご自分のことのように執り成して下さるのです。ローマ8:26、27は言います。「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって、執り成して下さるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。何故なら、御霊は神の御心に従って、聖徒達のために執り成して下さるからです。」
一人で祈ることは、無論、とても大切です。それを忘れてはなりません。しかしまた、二人か三人で心を一つにして祈ることは、更に素晴らしいのです。旧約聖書の「伝道者の書」4:9~12は言います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れる時には、一人がその仲間を起す。倒れても起してくれる者のいない、独りぼっちの人は可哀想だ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向える。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」祈りについても同じですね。
カルヴァンは、『キリスト教綱要』Ⅲ20章で「主の福音が私たちの信仰に示して直視させる諸々の宝を、祈りによって掘り出すということは、まことに真実である」と言います。厳しい宗教改革事業の中で、彼自身、これを体験したでしょう。祈りが地中に埋められている諸々の宝を掘り起す作業のようなものであるなら、一人よりも二人、いいえ、皆で心を合わせて祈る方が断然良いのは、自明のことです。「心を一つにして祈る」恵みは本当に大きいのです。
ですから、今年は、木曜日の朝夕の祈祷会に一度でも二度でも出席するとか、何人かが集った時には、まず祈りたいと思います。
これは私たちが同じ場所にいることだけを意味しません。大切なことは心が一つであること、すなわち、共通の意識、目的のあることです。例えば、ローマ12:15には「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」とあります。他の人の喜び、悲しみに絶えず関心を払い、祈りに覚える愛が何よりも大切です。
また私たちは一つの御霊に結ばれ、主イエスの一つの永遠の命に生かされ、一つの御言葉に育まれ、最終的には私たちが生きるにも死ぬにも、私たちに御子を賜った程に私たちを愛しておられる神の栄光が現されるようにという一つの目的において、心が一つであることです。
同じ場所に私たちが一緒にいてもいなくても、こういう明確な意識と目的において一つであり、互いに執り成しの祈りを献げ、神と人にまず祈りをもって仕えたいと思います。私たちに今年の教会標語を下さった神が、私たち一人一人を大いに励まして下さいますように!