2020年06月14日「迫害される者は幸いです」
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迫害される者は幸いです
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節
聖書の言葉
新改訳聖書 2017年度版
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節
メッセージ
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マタイ5:3~10で、イエスは真(まこと)のクリスチャンの特徴を8つの角度から描かれます。今日は最後の8番目、10節を見ます。
ところで、ここの前後関係から教えられることがいくつかあります。第一に、10節は3節からの一連の教えの最後で、いわば締め括りです。そういう所でイエスは迫害に言及されます。ということは、真のクリスチャンと迫害とはどうしても切り離せないということです。
第二に、これは「平和を造る者」についての教えの後に来ています。つまり、神に従い、クリスチャンが平和のために努力した結果が、しばしば世からの迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
第三に、これまでの七つのものは、真のクリスチャンそれ自体の特徴を示していますが、最後の8つ目は、クリスチャンに外から臨むものを取り上げます。真のクリスチャンの特徴を全体的に描く上で、この点を忘れてはなりません。
第四に、この教えに付いている約束、「天の御国はその人たちのもの」は、3節のそれと同じです。イエスは、最初に私たちの関心を天の御国に向けさせ、最後でもそうされます。「迫害はある。だが忘れるな。あなた方に約束されているものは、世の人が如何にしても手に入れることの出来ない天の御国だ。迫害は辛い。だが決して永遠ではない。あなた方は永遠の御国を受けようとしているのだ」と励まされるのです。
さて、イエスは、天に国籍を持つ幸いなクリスチャンの特徴の一つは、義のために迫害されることだと言われます。主は正直です。「私を信じるなら、悪いことは起らず、全て旨く行く」とは言われません。それは悪魔の言うことです。悪魔はイエスを誘惑してこう言いました。マタイ4:9「もし平伏して私を拝むなら、これを全てあなたに上げよう。」「これ」とは、この世の全ての国と繁栄です。要するに、何もかも思い通りになるということです。しかし、それは嘘です。
イエスは率直に事実を告げられます。「クリスチャンに迫害はある。激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそあなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの証拠だ」と断言されるのです。
ところで、イエスは単に「迫害される」ではなく、「義のために迫害される」と言われます。迫害にも原因や理由は色々あり、「義」のためでなく起る迫害もあります。ここに注意が必要です。例えば、クリスチャンになる前からあった良くない性格のために嫌われる人もいます。短気、わがまま、礼儀知らず、独善的、偏屈、人の心に鈍感、言葉が粗雑、怠け者、ずるい、慎重さに欠けるなどのために起る排斥を、イエスは語ってはおられません。
熱心過ぎるとか狂信的なために迫害されることも、違います。熱心過ぎるとは、聖書の教える正しい意味での熱心を超えた非聖書的熱心のことです。また狂信的とは、多分に自己満足、自己陶酔であり、これも聖書からはみ出ています。絶えず燃えるような祈りをする。それ自体はいいのですが、他の人もそうしないと、「あの人は不熱心だ」と言い、それで悶着を起し、人から嫌われたとしても、それは仕方がありません。
Ⅰペテロ4:15は「あなた方のうち誰も…他人のことに干渉する者として、苦しみに遭うことがないように」と言います。何かと他人に干渉することも、聖書を逸脱しています。
特定の政治思想や活動のために迫害されることも、ここの意味ではありません。信仰に基づく言動でも、周りがそれを政治的、思想的に取って迫害することもありますが、少なくとも私たちのがわでは、義のためにかどうかに注意する必要があります。
では「義」とはどういうことでしょう。要するに、神の御心に適い、それに忠実なことです。一般的な意味で正義感が強く、物事を曖昧に出来ないというのではありません。イエスの十字架により自分が罪赦され、救われ、計り知れない神の愛を知った人が、聖霊によって心を新たにされ、それ故、神に忠実で、いわば生き方そのものがイエス・キリストに似ていることです。
そういうクリスチャンは、確かに世に憎まれ迫害されます。イエスは言われました。ヨハネ15:18~20「世があなた方を憎むなら、あなた方よりも先に私を憎んだことを知っておきなさい。もしあなた方がこの世の者であったら、世は自分の者を愛したでしょう。しかし、あなた方は世のものではありません。私が世からあなた方を選び出したのです。そのため、世はあなた方を憎むのです。…人々が私を迫害したのであれば、あなた方も迫害します。」Ⅱテモテ3:12も言います。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆、迫害を受けます。」
実際、紀元1世紀後半から4世紀の初めにかけ、ローマ帝国によるキリスト教迫害はひどいものでした。日本の教会も、戦前・戦中は治安維持法で取り締まられ、迫害されました。今日も一部の国では宗教的理由でクリスチャンが迫害されています。
実は、聖書全体がこのことを伝えています。創世記4章が伝えるように、アベルはカインに殺され、モーセもダビデも迫害され、預言者エリヤやエレミヤは常に命を狙われました。新約時代でも同じです。パウロは何度も迫害されました。彼らは狂信的とか他人に干渉し過ぎたのではありません。ただ、彼らが義人であり、人々に神を示したからでした。
悲しいですが、迫害は教会の外からだけではありません。昔も今も、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者への迫害は、教会の中でも起り得ます。
そして、何といっても、人となられた神の御子イエスがそうでした。主はどんなに清く、柔和で、ご自分を誇らず、偽善がなく、天の父を愛されたことでしょう。しかし、むごい迫害を受けられました。
では、聖書に従って正しく生きようとする真のクリスチャンは、何故こうなのでしょうか。それは普通の人と違う何かがあるからです。
自分の正しさを人に見せつけるとか、人を無闇に批判するからではありません。そもそも真のクリスチャンは、そんなことはしません。ただ神の言葉に従い、正しく生きようとするだけです。ところが、それが世の人には煙たく、自分の罪を指摘されているように思えるのです。人は低俗な生き方をしている人を軽蔑はしても、迫害はしません。迫害するのは、無視できない何かを感じるからです。
創世記19章に、堕落したソドムの町が神に滅ぼされる記事があります。町の人々は信仰者ロトを「こいつはよそ者のくせに、裁きをするのか」(9節)と言いました。どこかで自分たちを非難している、気の置けない人間に思えたのでした。
イエス・キリストの場合もそうでした。初めは快くイエスの教えに耳を傾け、素晴らしい先生だと言って褒め、多くの人が群がりました。しかし、イエスがどういうお方かを知るにつれて皆の心は冷め、ついにイエスに唾を吐き、十字架につけました。
「天の御国はその人たちのもの」とまでイエスが断言され、これ以上なく幸いで、今どんな死に方をしようとも、神が永遠の御国を用意しておられる真のクリスチャンとはどんな人でしょうか。端的に言って、それはイエス・キリストに似ている人です。心が貧しく、罪を悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、憐れみ深く、心が清く、平和を作る人(マタイ5:3~9)です。
それは、皆に人気があり、誰にも誉められる人ではありません。クリスチャンで世の人から誉められる人もいますが、多くの場合、社会や人への貢献度に対する評価であり、イエスに似ているとか義の性質のためにではありません。真のクリスチャンは、誰からも「いい人だ」と言われることは、ありません。誰からも誉められる人は八方美人かも知れません。イエスは言われました。ルカ6:25「人々が皆、あなた方を誉める時、あなた方は哀れです。」
一体、義に生きる人は何故迫害されるのでしょうか。本質的に人間は真の神が嫌いだからです。自分の自己中心の罪を示されるのがイヤだからです。
もしイエスがもう一度世に来られたならば、人は同じようにイエスに手を挙げ、殺すのではないでしょうか。それは、人が自分の罪と不信仰を指摘されているように感じないではおれない程に、イエスが清く義なる方だからです。
問題は、神とイエス・キリストと義人にあるのではありません。光よりも闇を好むこの世にあります。光に曝され、光の中を歩み、義を愛し、義に生きるよりも、神から離れ、闇に隠れて罪を楽しみたい。問題はそこにあります。それは天国と何の関係もありません。人は皆自分の罪のために裁かれなくてはなりません。
が、もし私たちがこの世に従わず、神に従い、義に生き、そのために人々から、時には家族から嫌われ迫害されたとしても、私たちは間違いなく天に国籍を持っています。神は私たちの魂を手放されません。どんな迫害も、それどころか、死さえも、私たちを神の愛から引き離すことは出来ません。パウロは言います。ローマ8:35~39「誰が、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊とみなされています。』しかし、これら全てにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その外のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。」
迫害を考えることは、恐らく私たちの信仰を最も深く探るでしょう。私たちはどちらを選ぶのでしょうか。神か世か、光か闇か、天国か滅びか、永遠か一時か。
イエスは栄光の天に至る足跡を残され、ペテロもパウロもステパノも主に忠実な無数の聖徒たちもそれを選びました。皆弱く、失敗も沢山しました。しかし、主の御手が彼らを支え、また主が祈られたように彼らも迫害する人たちのために祈って歩みました。このような者たちを御霊が支えて下さらないことなど、あるでしょうか!私たちが耐えられるように、神は迫害の長さも強さもコントロールしておられます。どうか、主が、私たちの信仰を強めて下さいますように!