2022年12月11日「星に導かれて」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、その方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送りだした。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ、かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいる所まで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリヤとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。
マタイによる福音書 2章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ2:1以降は、教会学校の子供によるクリスマス降誕劇でもよく演じられる有名な所ですね。今朝は、特に博士たちが星に導かれたという点に注目したいと思います。

 1節「東の方から博士たちがエルサレムにやって来て」とあります。昔ペルシアがあった辺りから来たと思われます。彼らは天体を観察し、気候の変化を予測し、農業や牧畜を守り、薬を研究し、国の安定に寄与した古代社会の科学者だったのでしょう。

 彼らが何人で来たかは分りません。彼らは幼子の主イエスに、11節「黄金、乳香、没薬」の3つを献げましたので、3人だという言い伝えができたのでしょう。しかし、危険な砂漠も横断するのですから、割合多くの従者を連れていたと思います。

 それはともかく、エルサレムに着いた彼らは、2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来たのです」と人々に尋ねました。彼らの国は、約600年前、不信仰なために神に罰せられたユダヤ人たちが大勢、バビロン捕囚で移住させられた所でした。

 しかし、悔い改めたユダヤ人たちは、その土地で安息日毎に律法を朗読し、天地の創り主、主なる神を礼拝する独自の習慣を守りました。偶像を拝まず、十戒を中心とする律法により倫理性も割合高く、周囲の住民に注目されたでしょう。従って、いつか救い主・メシアが偉大な王として世に現れるというユダヤ人たちの信仰も、周囲の住民に知られ、ずっと伝えられて来たと思われます。

 博士たちはそういう場所で育ち、生きてきました。ですから、彼らの心にも、全世界を治め救うユダヤ人の偉大な王がいつか現れるということが、刻まれていたでしょう。

 ところで、彼らが故郷で見、またエルサレムからベツレヘムへ行こうとした時に、9節「彼らの先に立って進」んだという星は、何なのでしょうか。

 昔から色々言われてきました。超自然的に現われた特別な星だとか、紀元前11年頃、強い光を発しながら空を流れたハレー彗星だという研究もあります。有名な天文学者ケプラーによれば、紀元前7年頃、魚座の所で土星と木星が接近し、強烈な光を放ったそうで、それではないかとも言われます。

 これらは、博士たちが東の方で見た星という点では該当しそうですが、夜、彼らがベツレヘムへ向う時に「彼らの先に立って進」んだという点では、どうでしょうか。

 星自体は今となっては分りませんが、何か特別に明るく輝き、滅多に見られない現象があったのでしょう。しかし、もっと大切なのは、博士たち自身の内面です。すなわち、その星を見て、何百年もの間、伝えられてきた救い主、偉大なユダヤ人の王、つまり、全世界の王なるメシア誕生の徴として受け取った彼らの心です。

 彼らには旧約聖書の知識も少なく、エルサレムの人々に尋ねなければならない位、救い主のことはよく分りませんでした。

 それにも関らず、彼らには、世間一般の宗教心ではなく、人間のもっと根源的な魂の飢え渇きと必要に応え、満たし、救いを与える真(まこと)の救い主を求める心があったのだと思います。ですから、特別に明るく光る星を見て、周囲の皆は驚き、天変地異を恐れて怖がったとしても、彼らは違いました。魂に飢え渇きと深い求めがありましたから、その星を導きの星と受け留め、彼らは危険を冒しながらも、遠路はるばるやって来たのです。

 ですから、旧約聖書のミカ5:2に預言されていた救い主誕生の町ベツレヘムへ夜、10kmの道を行く時も、彼らは故郷で見た星を見つけ、星が彼らに先立って進んでいると思えたのでした。夜歩くと分りますが、星を見上げながら私たちが前へ進みますと、星も同じように前へ進み、私たちが止まりますと、星も止まります。

 従って、星そのものよりも、「我々は星に導かれている」と受け止め、そして10節「その星を見て、…この上もなく喜」んだ彼らの心、救いを熱心に求める魂こそが、実は最も大切な点なのです。

 この点は、元々ユダヤ人ではなくエドム人であったヘロデ王は別として、エルサレムの住民や祭司長たち、律法学者たちと比べますと、違いが一層鮮明になります。彼らは大切な全世界の救い主・メシア到来の預言を知っていましたし、旧約聖書の知識は沢山ありました。安息日毎に神殿へ行き、礼拝もしていました。

 しかし、エルサレムでも同じように観測できたと思われる星については、特に何か気づいた様子もありません。単に明るい星だと思う位で終り、「もしや、これは神による何かの徴、導きではないか」と深く受け留めることもありませんでした。神による導きと受け止める点では、東の国の博士たちとエルサレムの祭司長や律法学者たちとでは随分差があり、博士たちの方が断然不利でした。ところが、博士たちは幼子のイエス・キリストにお会いでき、エルサレムのユダヤ教指導者たちや住民は会えませんでした。同じ星を見ていても、神の導きを何も感じなかったのです。

 大切なことは、様々なことの中に、星の導きならぬ、神の導きを少しでも感じ取る信仰による感性や気付きのあるかないかなのです。

 このことを今の私たちに当てはめると、どうでしょうか。それは、私たちが自分自身とこの人間世界の罪深さや愚かさ、不信仰をどれだけ悲しみ、痛みに思い、マタイ6:33でイエスが言われますように、「神の国と神の義」を、つまり、救いとその完成をどれだけ切実に求めているかにかかっている、と言えるでしょう。

 その魂の飢え渇きと求めがある時、私たちもまた様々なことの中に「星に導かれて」というのと同じような体験を、御霊(みたま)によってさせて頂けるのだと思います。

 淀川キリスト教病院に勤めていた時のことを思い起します。ホスピスにおられた奈良県出身のある男性患者さんは、小学生の時、近所にあった教会の日曜学校に通い、讃美歌に触れましたが、その後、教会から何十年も離れていました。しかし、重い病を得て、淀川キリスト教病院のホスピスへ来られました。体はかなり辛い状態でした。しかしそこで、幼い頃、自分でも声を出して歌った讃美歌を再び耳にして自分を取り戻され、ついにイエス・キリストを自分の救い主と信じ、受け入れ、洗礼を受け、平安な心で天に召されました。彼にとっては、讃美歌が導きの星でした。

 また割合多くの患者さんが、クリスチャンの医者や看護師、職員、クリスチャンのボランティア、また伝道部の牧師やスタッフとの出会いが、いわば星に導かれてという恵みの体験になっていたと思います。

 私自身のことを言いますと、正直な所、余り仲の良い間柄でもなかった友人の一人がクリスチャンになったことが、ある意味、星の導きの一つになったと思います。また沢山読みました西洋の小説や観た映画、そして母が町でもらった教会案内を私にくれたことも、イエス・キリストへの導きの星だったと思います。多くのクリスチャンに、こういう意味での「星に導かれて」という神の導き、摂理的配剤の体験があるのではないでしょうか。

 そこで、最後に二つのことを心に留めて終ります。

 一つは、救いとその確信、また救いの完成を熱心に求める心の大切さです。求める心がなければ、エルサレムの人たちのように、星に導かれるような体験をすることは難しいでしょう。しかし、「今のこんな自分の信仰では満足できない」という熱く求める心があれば、私たちを導き、救い主イエス・キリストともっと鮮やかに出合わせ、交わらせ、喜びで満たし、私たちの信仰を更に成長させる何らかの星との出会いを許されるでしょう。

 マタイ7:7でイエスは言われます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そうすれば開かれます。」

 もう一つは、私たち自身が誰かの導きの星にならせて頂くことです。私たちもかつて、誰かが星となって導かれたと思います。それなら、今度は私たちが誰かの星となることを、神はどんなに喜ばれるでしょうか。

 神は、思いがけない所に、救いを、イエス・キリストを求める者を置いておられます。そして私たちは欠けだらけで、余り好かれていなくても、救い主イエスへ導く星として、彼らは私たちを必要としています。その尊い奉仕を覚えて、かつて預言者イザヤが神に答えましたように、イザヤ書6:8「ここに私がおります。私を遣わして下さい」と申し上げ、主に清めて頂きながら、用いられたいと思います。

 イエス・キリストの御言葉の光の中に喜んで生きるなら、私たちもイエス・キリストの光を反射し、マタイ5:14でイエスが言われますように、「世の光」とされ、きっと思いがけない所で、誰かにとっての導きの星にならせて頂けるでしょう。

 主よ、どうか、私たち一人一人を恵みによって清く輝かせ、誰かの導きの星としてお用い下さい。

関連する説教を探す関連する説教を探す