イエス・キリストを信ず⑶(使徒信条の学び12)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節
28:16 さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、全ての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなた方に命じておいた、全てのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終りまで、いつもあなた方と共にいます。」マタイによる福音書 28章16節~20節
今年もクリスマスを待ち望む待降節・アドベントに入っています。従って、今朝はクリスマスに因む説教をすべきだと思いますが、使徒信条により、主イエス・キリストについての学びの途中ですので、もう1回、キリストのご人格について学ぶことにします。
少し振り返ります。使徒信条は短く「イエス・キリストを信ず」と告白します。「イエス」は固有名詞ですが、「キリスト」はヘブル語でメシア、つまり、「油を注がれた者」という意味で、救い主を指します。
その救い主の働きとして、預言者、祭司、王という職務のあることを既にお話しました。これらは教理的に「キリストの三職」と呼び、旧約時代には、これらの職務に就く人たちは、頭に香油を注がれた上で、人々のために重要な働きをしました。今朝は王としてのイエス・キリストの働きを学びます。
ところで、「王」というと、必ずしも良いイメージばかりではないですね。威張りちらし、人民をこき使い、苦しめ、皆から搾取する。自分は安全な所にいて、人々を危険な戦場に駆り出す。権力を笠に着て好き勝手に振る舞い、贅沢三昧に過ごす暴君。こういう悪いイメージはないでしょうか。実際、悪い王は少なくないですね。
しかし、イエス・キリストは全く違います!実は聖書が示す王とは、元々、羊飼いのイメージに沿うものなのです。
良い羊飼いに導かれる羊は、幸せです。それを表わすのが、有名な詩篇23:1~4です。こう歌われています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名の故に、私を義の道に導かれます。たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。あなたの鞭(むち)とあなたの杖(つえ)、それが私の慰めです。」ここはまた後で少し見ます。
イエスが王であられることは、どういうことから分るでしょうか。十字架の死から約束通り三日目に復活されたイエスは、先程お読みしましたマタイ28:18で「私には天においても地においても、全ての権威が」父なる神から授けられた、と宣言されました。ここにイエスが全世界、全宇宙の王であられることが鮮やかに示されています。
またイエスが誕生された時、東の方からエルサレムにやって来た博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2)と人々に尋ねました。「ユダヤ人の王」とは、神の許から来られた全世界の王としての救い主ということに他なりません。その通り、神の御子イエスは全被造世界の真(まこと)の王でもあられるのです。
大切なことは、これが何を意味するか、です。イエスは私たちにとってどんな救い主でしょうか。先程、救い主である王のイメージは羊飼いだと言いました。羊飼いの働きには、羊を野獣や外敵から守る面と、羊自身を養い導く二つの面があります。イエス・キリストも同じです。
第一にイエスは、私たちの魂を永遠に滅ぼそうとする霊的な攻撃から信仰者を守られます。
私たちは普段、どれ位分っているでしょうか。自覚しているでしょうか。実は私たちは常に、創り主なる真の神から私たちを引き裂き、永遠に滅ぼそうとする攻撃や誘惑に晒されているのです。その背後にサタンがいます。
サタンは狡猾です。私たちを神から引き裂き、滅ぼすためには、手段を選びません。恐怖心を煽り、私たちを脅しもすれば、反対に、私たちをおだてて自分を一角の者、成功者だと思わせて自分に酔わせ、神から遠ざける時もあります。或いは、神を疑わせ、愚かなことに夢中にさせて、いつしか私たちの魂を滅ぼすこともあります。怖いのです。
しかし、羊は、羊飼いの後ろについて行きさえすれば、安全です。詩篇16:8に「私はいつも主を前にしています」とあります。ここは「私は常に主を私の前に置く」とも訳せます。そのように、私たちも絶えずイエス・キリストを自分の目の前に置くのです。置かせて頂くのです。またそのために、神が知恵をもって特別に定められた日曜礼拝において主をしっかり仰ぎ、御言葉と御霊により主の御声に最大の注意を払って聞くのです。
すると、十字架の死と復活により悪魔を打ち砕き、天と地の一切の権威を握り、霊の世界でも絶対的王であられる主イエスが、私たちを狙うあらゆる敵から私たちの魂を守り、救いの道を固く歩ませて下さいます!
詩篇23:4に「たとえ死の陰の谷を歩むとしても」とありますが、まさに死の時も、イエスは信仰者と共におられ、信仰者の魂を固く守られます。
第二にイエスは、信仰者自身を内と外から養い、導き、或いは戒めて下さいます。羊飼いは、自分のあとについて来る羊たちを牧草地や水辺に連れて行き、必要な食べ物、飲み物を与えて養い、くつろがせ、休ませてくれます。
緑の牧草地や水辺に着くまでには、急勾配の坂やゴツゴツした道もあり、羊にとっては試練でしょう。足を傷める羊もいるかも知れません。しかし、弱った羊を、良い羊飼いはどこまでも世話します。ルカ15:5でイエスが言われますように、時には肩に担いででも羊を守ります。ここの肩は複数になっていて、両肩を指します。つまり、肩車をして弱った羊を運ぶということです。
しかし一方では、群れから勝手に離れやすい気儘(きまま)な羊には厳しく、鞭や杖でピシッと従わせます。でもそれは羊のためなのです。
私たちの王であられるイエスも同じです。私たちはこの世で絶えず様々な苦しみに遭い、悩み、落胆することがあります。しなくても良いことに手を出して自分で自分を混乱させ、判断を間違えて自分で躓き、信仰が弱る時もあります。誰にもそんな弱さがありますね。
しかしここに、こんな私たちをもご自分の民として愛し、導いて下さる神の国の王イエス・キリストがおられます。イエスは、良い羊飼いのように、御言葉と御霊によって、またそのためにご自分が任職された教会の牧師や長老など魂の指導者により、一人一人の信徒や求道者の魂を養い、慰め、励まし、導き、時には戒め、注意を与え、訓練し、教会に引き戻し、永遠の御国(みくに)への正しい道を歩ませて下さいます。ですから、私たちは、イエス・キリストと教会の前に、常に謙虚で従順でいたいと思います。
復活されたイエスは、天と地の一切の権威を父なる神から授けられました。従って、イエスの許可がなければ、私たちの髪の毛一本、地に落ちることはなく、試練も臨みません。臨んでも、イエスは御自分に従順な者を、断固守られます。復活のイエスは、小アジアにあったフィラデルフィアの教会に言われました。黙示録3:10「あなたは忍耐についての私の言葉を守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、私もあなたを守る。」この町は今、アラシェヒルという名前に変り、クリスチャンが大勢生活しているそうです。
王として、主イエスは今、特に教会生活を通して私たちを養い、訓練し、私たちを一層従順で強い信仰者に育てられます。そうして主は信仰者を守り、強め、神の国に相応しい民へと鍛えていかれます。ですから私たちは、教会を離れず、王なる救い主イエスのご支配と愛に、私たちの生も死も全て委ね、心から信じ、寄り頼み、喜んで従いたいですね。
悩み、苦しみの多いこの世で、使徒信条を告白しつつ、神と人に仕え、天国へ凱旋していった無数の先輩たちに、私たちも是非続きたいものです。ヘブル12:2が言いますように「信仰の創始者であり完成者であるイエス」から目を離さず、ヘブル13:8「昨日も今日も、とこしえに変ることがない」王なるイエス・キリストを、常にハッキリ私たちの目の前に置き、私たちの心と体と生活と人生に改めて深くお迎えする、そのようなクリスマスをご一緒に迎えたいと思います。