2020年01月26日「神はおられるのか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
    (新改訳聖書 2017年度版)
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、万物を創られた真(まこと)の神はおられるのか、という根本的な話を致します。   

 私は20歳でクリスチャンになる前、このことを割合よく考えました。そして、もし神が存在するなら、神を信じて生きるのは当然であり、何ら特別なことではありません。また、これは私たちの生きる目的や意味、私たちの死後の行き先にも、必然的に関ります。

 しかし、神がおられないなら、神を信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。そして、その場合、私たちの生きる目的も意味もないことになるでしょう。何故なら、宇宙も私たちも偶然の産物に過ぎないからです。そのことを旧約聖書の伝道者の書1:2は「空の空、伝道者は言う。空の空。全ては空」と言っています。

 では、神は存在するのかしないのか。どちらでもないということはあり得ません。では、どちらなのか。人は色々言いますが、今朝は聖書がどう教えているかを見たいと思います。

 第一に、世界や自然を良く観察せよと教えます。

 美術館へ行き、人の顔が真中で左右に分れて食い違い、色使いも面白く、体も上下が違っている抽象画があるとします。すると、「これはピカソだ」などと言って、私たちにも分ります。黄色系の絵具が厚く塗られた強いタッチの絵を見ますと、ゴッホだと分ります。音楽でも同じですね。バッハの曲はやはりバッハ、チャイコフスキーはチャイコフスキー、ショパンはショパンです。つまり、作品は作者を表します。同じことが世界と神との関係についても言えます。世界は、作者である神の知恵や力など、神の性質を表さないではおられません。

 今の科学では、宇宙はビッグバンという大爆発で出来たとされます。では、その前はどうだったのでしょう。またビッグバンは、どうして起ったのでしょうか。更に天体や宇宙などマクロの世界から素粒子などミクロの世界までの見事な調和や秩序は、何故なのでしょうか。髪の毛1本でも見事な構造を持っている人体の驚異!ホスピスで有名な柏木哲夫先生(淀川キリスト教病院名誉ホスピス長)が、著書の中で面白いことを書いておられます。かつて阪大医学部の学生で、クリスチャンではなかった頃のことですが、教授に一枚の写真を見せられ、「これは何か」と尋ねられました。玉ねぎの根のようで見事に7層ぐらいで出来ています。「えーっ?こんなもの、人間の体の中にあっただろうか」と思い、「分りません」と答えました。すると教授に「君、これは毛根だよ」と言われ、驚き、その時、人間を造られた神がおられるのかも知れないと漠然と思ったそうです。実際、人体の素晴らしさを知れば知る程、驚嘆せずにはおられません。神が造られたのでなくて、何でしょうか。

 不幸な裁判でしたが、敬虔なクリスチャンであった科学者ガリレオは言いました。「神は二つの書物を書かれた。その一つは聖書である。もう一つは自然そのものである。…自然という書物の中に、神の計画を書き記した言葉が満ち溢れている。それを一語一語読んでいくことこそ、人間に与えられた大切な仕事である。」

 何より聖書は言います。「神の、目に見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から被造物を通して知られ、はっきりと認められる」(ローマ書1:20)。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」(詩篇19:1)。ヨブ記12:7~9は言います。「獣に尋ねてみよ。あなたに教えてくれるだろう。空の鳥にも。あなたに告げてくれるだろう。あるいは地に話かけよ。教えてくれるだろう。海の魚も語るだろう。これら全ての内で、主(しゅ)の御手(みて)がこれをなしたことを、知らない者があるだろうか。」

 聖書はこの世界や自然を良く観察せよ、と教えます。これが第一点です。

 第二は、歴史を見ることです。

 新約聖書の使徒の働き17:25~27は、神のことを「何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身が全ての人に命と息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、夫々に決められた時代と、住いの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見いだすこともあるでしょう」と言います。つまり、世界を保ち、歴史を導かれる神の摂理(せつり)に注目せよ、と教えます。

 神に背く人間の自己中心の罪のため、この世には余りにも悲惨なことが多くあります。戦争、虐殺、差別、暴力など、歴史を振り返りますと、人間は何故こうも罪深いのかと溜息が出ます。

 先日、家内と一緒に、広島県福山市にある「ホロコースト記念館」を見てきました。私は10代の学生の時、『アンネの日記』を読み、映画も見、そして「人間はどうしてこんなにひどいことができるのだろう」と暗澹たる気持ちになったものです。今回、再びそれを思いました。1939年9月1日、ナチス・ドイツは突然、隣国ポーランドに攻め入り、僅か4週間でポーランドを征服しました。首都ワルシャワでは、ゲットーと呼ばれる広さ1km四方、周囲を高さ3.5mの高い壁で囲んだ狭い場所に、何と35万人のユダヤ人を押し込めました。そしてアウシュビッツを初め、絶滅収容所と呼ばれる所などで、600万人、その内150万人は子供でしたが、ユダヤ人が殺されました。そして日本はというと、先の戦争で日本軍が侵攻したアジア全域で約2000万人が犠牲になりました。歴史を振り返りますと、人間は何故こうも愚かで罪深く、遥か昔に滅んでいても変ではないことを思います。ところが、なお私たちは生存している。また、歴史を振り返ると、悪は最後には必ず滅んでいます。確かに、一時は悪人が、それも非常に栄えることがありますが、最後は必ず滅びです。歴史はそれを証言しています。

 何故こうなのでしょうか。聖書によると、神がこの世界を統治しておられるからなのです。人間の罪のためにこの世は不条理に満ち、「神がおられるなら、何故こんなことが…」と思うことが確かにあります。神は、人間に自分の罪深さを徹底的に悟らせるため、敢えて放置しておかれることがあるのです。

 しかし、よく考えれば、神は人間を憐れみ、ご自分を示しておられます。聖書(使徒の働き14:16、17は)言います。「神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々が夫々自分の道を歩むままにしておかれました。それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなた方に天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなた方の心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」このように、聖書は私たちに歴史を振り返ることを教えます。

 第三は、人間自身をよく観察することです。

 例えば、宗教心を考えてみましょう。今言う宗教心とは、ご利益宗教に見るような浅ましいものではなく、真に聖なるものを求めずにはおられない心のことです。聖書(伝道者の書3:11)には、神が「人の心に永遠を与えられた」とあります。これは真(まこと)の神を思う宗教心を指します。人の脳細胞数は140億個と言われ、天文学的数字です。でも決して無限ではなく、人の命も永遠ではありません。人は有限な存在でしかない。それなのに、何故人間には無限や永遠という概念があるのでしょうか。聖書によると、それは無限、永遠の神が、人間を特別に造られ、永遠者なるご自分への崇高な求め、すなわち、宗教心を持つ者とされたからなのです。

 人間の良心も興味深いと思います。人は罪を犯すと、良心の呵責を覚え、気が重くなります。聖書のローマ書2:15は、その良心に触れ、真の神とその戒めを知らない人たちであっても、「彼らの良心も証ししていて、彼らの心と思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったり」と言います。良心とは何でしょう。これは、私たちを真に愛し、ご自分に似せて造られた神が私たちの心の中に与えられた警報機なのです。そのままだと私たちを永遠に滅ぼすことになる罪や悪を私たちに知らせ、それをやめさせ、私たちを守ろうとされる神の声であり、とても大切なものです。

 もっとも、人間は自分の良心に猿ぐつわをはめ、無感覚になることも出来ます。けれども、これ程恐ろしいことはありません。それは自らを一層卑しめ、自分を永遠に滅ぼす魂の自殺行為だからです。

 大切なことは、永遠を思う崇高な宗教心や良心が、何故、私たち人間に備わっているか、です。聖書によれば、それは神が私たちを愛し、私たちを特別に造られたからなのです。

 最後、第四はイエス・キリストを見ることです。

 以上の三つの点から、どうやら神はおられそうだとしても、それだけでは十分ではありません。もし十分なら、世の中の宗教は全て一致し、正しく造り主なる真の神を知っているでしょう。しかし、現実には随分違いがあります。何故でしょうか。聖書によりますと、人間が神に背き、罪が入り込んだために、正しい認識能力を損なったからです。ですから、木や石や金銀で作った偶像を拝む人もいれば、太陽を神とする人、古い大木や高い山に神の霊が宿っているとか、死者の霊が神に変るとか、宇宙に宿る何か偉大な存在を仮定して宗教的対象とする人もいます。

 どんな宗教も根本的には同じと言われることもありますね。しかし、それは違います。例えば、ヒンドゥー教の神々は実に多様です。そもそも人格があるのかどうかも、よく分りません。仮に真の神は唯一で、永遠者・絶対者だとしても、なお、抽象的でよく分りません。もっときちんと神を知ることは出来ないのでしょうか。

 実は、こういう私たちのために、神は素晴らしい方法でご自分を表されました!何と神は、ご自分の御子(みこ)を人間として世に遣わされたのです。神は救い主について旧約時代から預言され、やがて御自分の御子を救い主として世に遣わされ、その御子イエスによりご自分を示されたのです。ですから、新約聖書のヨハネの福音書1:18は言います。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられる独り子の神が、神を説き明かされたのである。」イエスご自身も言われました。同12:45「私を見る者は、私を遣わされた方を見るのです。」同14:9「私を見た人は、父を見たのです。」

 人間の親子も顔や背格好や喋り方まで似ていて、つい電話で色々なことを喋り、あとで間違いに気付いて困ったということも、私たちにはありますね。性格や気質まで似ていることもあります。しかし、イエスの場合、父なる神と単に似ておられるどころではありません。ヨハネの福音書10:30で「私と父とは一つです」と言われるように、イエスは父なる神と全く同じ神としての本質を持ち、神とイエス・キリストは一つなのです。ですから、私たちは、聖書の証しするイエス・キリストをよく知ることで、すなわち、イエス・キリストの愛と憐れみに満ち、柔和で、しかし、全く聖(きよ)く、義に満ちた凛とした御人格!また処女マリアからの聖霊による誕生や、ただ私たち人間のために行い、御自分のためには一切なさらなかった様々な驚くべき奇跡、そして約束通り、私たちの罪の身代りとしての十字架の死とそこからの復活など、イエスの御業(みわざ)を通して、神を知ることが出来るのです。

 こういうわけで、今や私たちは、神を求めて、当てどのない探究や難解な勉強、また難行苦行もする必要がありません。神の自己紹介の書である聖書が証しするイエス・キリストというお方をきちんと知れば、それが即、真の神を知ることであり、神はそのようにして下さっているのです。

 以上、聖書に基づき、「神はおられるのか」という根本的なことをお話させて頂きました。

 私の話は一部分でしかありません。更に別の角度から、例えば、進化論についてもいつかお話できればと思います。ただ今朝はこの大切なことについて、多少とも皆様の参考になることを願い、お話させて頂きました。神の導きを心からお祈り致します。

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