摂理の神を信ず(使徒信条の学び 9)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 使徒言行録 17章22節~28節
17:22 パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなた方は、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。
17:23 道を通りながら、あなた方の拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなた方が知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
11:24 この世界とその中にある全てのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。
11:25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身が全ての人に、命と息と万物を与えておられるのですから。
11:26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住いの境をお定めになりました。
11:27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
11:28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなた方のうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。使徒言行録 17章22節~28節
使徒信条を今朝も学びます。父なる神についての最後の点となります。
使徒信条は、神の天地創造には触れますが、摂理には触れません。天地の創造に続いて摂理があるのは当然ですので、特には触れなかったのでしょう。とはいえ、神の摂理を個別に理解しておくことは大変重要です。カルヴァンは言います。『キリスト教綱要』Ⅰ・16・1「我々は[一切を続けて支え給う]神の摂理にまで行くのでなければ、たとえ精神で理解し、舌で告白しているように見えても、『神が創造主である』ということの意味を決して正しく捉えることはできない。」同Ⅰ・17・11「もし、読者が注意して見られるならば、摂理についての無知が一切の悲惨の内の最も極まったものであることに容易に気付くであろう。また最高の浄福は、これについての認識にあることも分るであろう。」神の摂理についての認識の重要性がよく分ると思います。
摂理とは何でしょうか。ウェストミンスター小教理問答11は、「神の摂理の御業(みわざ)とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、全ての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられること」だと言います。要するに、第一に、神の摂理には、被造物の保持と統治の二つの面があります。天地創造の後、神が被造物を積極的に保ち、支配しておられるということです。第二に、神の摂理は全被造物とその全ての動きに及びます。天体の運行や天候など自然界の動き、複雑に絡み合った政治や経済、そして人間の体や心にも及びます。以上に加えて、もう一つ言いますと、第三に、神の摂理が最終的に向かうところは、神の麗しい永遠のご計画が実現し、神のご栄光が最高に現されることです。神は最もきよく、賢く、力強く、摂理しておられます。
それで、今朝覚えたいことは、摂理信仰の尊さ、大切さです。カルヴァンが言いますように、摂理信仰のあるなしで、私たちに大きな違いを生みます。
では、摂理信仰が私たちに与える恵み、幸せ、益に、どんなものがあるでしょうか。
第一に、私たちは自分の生きていることが如何に尊いことかを知り、驚きと感動を覚えないではおられません。
先程お読みしました使徒の働き17:25で、パウロはアテネのアレオパゴスに集まった人たちに、神御自身が「全ての人に命と息と万物を与えておられる」と教えた後、27節「神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません」と言いました。
私たちはよく「天の神様」と言います。無論、これは正しいのですが、更に言いますと、神は天におられるだけでなく、もっと近く、28節「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のです。このことを、改めてしっかり覚えたいと思います。
私たちには皆、今まで、病気を初め、危険なことがいっぱいありました。それにも関らず、今まで生きて来ることができました。どうしてでしょうか。神が「摂理」により守って下さっていたからに外なりません。
生きていることは、当り前でも偶然でもありません。私たちの罪のために、尊い独り子イエスを十字架につけられた程に、私たちを愛して下さっている神が、片時も休まず、私たちを生かしておられるのです。「神がこの私を生かしておられる!そこまで私に、それこそ、私の頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、関心を持って下さっている!」このことを思いますと、嬉しくて感動を覚えないでしょうか。私たちは、28節「神の中に生き、動き、存在」し、神の摂理により生きている!今この瞬間も、です!
罪深いこともいっぱい考え、口にし、行なってきた私たちですのに、今生きている。それは、ただただ神の愛と憐れみによるのです!それは、私たちがますます神をほめ称え、神を永遠に喜ぶ者とされるためです。何という幸せでしょう!
ですから、私たちも是非、自分を大切にし、神に喜ばれるように、御言葉に忠実に生きたいと思うのです!「私は生かされている」というこの神の恵みの事実を、摂理の教理は改めて私たちに教えます。
大きな二つ目の点に進みます。更に慰めと励ましに満ちたことですが、摂理信仰は、困難の中でも、私たちに耐えさせる力と希望を与えてくれます。
摂理信仰は、どうやって私たちを試練に耐えさせるのでしょうか。聖書により、試練の意味や性質や目的を理解させ、私たちに神を信頼させることによってです。
念のために、予め、一つの点を確認しておきます。人間には全てが分るわけではないという点です。
詩篇13篇には苦難に遭っていた旧約時代の信仰者の「主よ、いつまでですか」という、その「いつまで」が4回も言われます。詩篇10篇や74篇には「なぜ」という神への問いが繰り返されます。この世には、何故こんなひどいことが起るのか、いつまでこんなことが続くのかと、困惑することも多いですね。全ては神の摂理の中で、と頭では分っていても、心では困惑しています。
そこで、イザヤ書55:8、9の神の言葉を心に留めたいと思います。「私の思いは、あなた方の思いとは異なり、あなた方の道は、私の道と異なるからだ。 -主の言葉- 天が地よりも高いように、私の道は、あなた方の道よりも高く、私の思いは、あなた方の思いよりも高い。」
神の思いは人の思いを超えているのです。有限は無限を把握できません。
しかし、私たちに分らなくても、神には必ず賢いお考えがある。ですから、分らない点は神に委ね、聖書が教えることの中で、私たちに分る点を、よく心に留めて生きることが大切です。
そこで、試練に関するその聖書の教えを、四つばかり見たいと思います。
第一に、意味のない試練は一つもありません。私たちの訓練のために、例えば、怠惰や気の緩みを懲らしめ、また将来のより重要な働きに備えさせ、あるいは将来の更に過酷な試練に備えさせるために、神は試練を送られます。ヘブル12:6は言います。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる。」無意味な試練は一つもありません。
第二に、信仰者は必ず試練に耐えられます。試練は私たちを潰すためにではなく、鍛えるためにあるのですから、神は試練を私ためのためにコントロールしておられます。神は試練を送るべき時と試練の程度をわきまえておられます。ですから、Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」
第三に試練は、私たちの信仰が更に純粋で本物になるために、神の摂理の下で与えられます。Ⅰペテロ1:7は言います。「試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れる時、称賛と栄光と誉れをもたらします。」
つまり、試練はキリスト教信仰が本来持っている素晴らしい要素を、一層純化し強化します。実際、試練を体験すればする程、クリスチャンはいよいよ神にのみ信頼することを学びます。
信仰が持っている素晴らしい要素の一つは忍耐力です。忍耐力とは、聖書によりますと、失望させられるような状況でもなお、私たちが前進し活動できる力です。信仰は試練によって試され、純化され、大切な忍耐力が養われていくのです。
以上のような聖書の教えに基づき、摂理信仰は私たちに神への信頼を促し、忍耐力と希望を与え、試練を乗り越えさせます。何と感謝なことでしょう。
第四に、摂理信仰には、将来に対する過度の不安や心配から私たちを守るという恵みがあります。
私たちには先のことは分りません。半年後に自分がどうなっているのか、誰にも分りません。それを心配し過ぎるなら、誰だって病気になります。
しかし、ここに摂理信仰の祝福があります。神の御心でなければ、何事も私たちに起らないと、聖書が教えているからです。イエスは言われました。マタイ10:29、30「2羽の雀は1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の1羽でさえ、あなた方の父の許しなしに地に落ちることはありません。あなた方の髪の毛さえも、全て数えられています。」ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…。」
ですから、順境の時も逆境の時も、色々なことを漫然とではなく、摂理信仰により、よく考え、神を愛する者には万事が益となることを心から信じ、一切を天地の創り主・全能の父なる神に委ね、今現在を一日一日、神の前に忠実に生きていきたいと思います。
最後に、いつ命を失うか分らない厳しい宗教改革のさ中、1563年にドイツで作られたハイデルベルク信仰問の答27、28を読んで終ります
問27「神の摂理について、あなたは何を理解していますか。」
答「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地と全ての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、全てが偶然によることなく、父親らしい御手によって私たちにもたらされるのです。」
問28「神の創造と摂理を知ることによって、私たちはどのような益を受けますか。」
答「私たちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については私たちの真実な父なる神を固く信じ、どんな被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。何故なら、あらゆる被遣物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動かされることもできないからです。」