2022年09月25日「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」

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わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか

日付
説教
豊田真史 神学生
聖書
マルコによる福音書 15章33節~41節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
16:36 すると一人が駆け寄り、海綿に救いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
16:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
16:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
16:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子だった。」
16:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
16:41 イエスがガリラヤにおられた時に、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。マルコによる福音書 15章33節~41節

原稿のアイコンメッセージ

1.序論:はじめに

 長く信仰生活を送っていますと、聖書の言葉に慣れてしまうそういうことはあると思います。わたしたちは毎日聖書に親しんでいればこそ、その言葉が身近すぎて、驚きを失ってしまうそういうことがあるのではないでしょうか。本日の箇所もそのようなことが起きやすい御言葉かもしれません。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」そうイエスは言われています。神に見捨てられる、神に顧みられない、そう言われているのです。驚くべき言葉です。

 しかし、わたしたちにとっても、この見捨てられるということは大変恐るべきことです。信仰者にとっては、神に見捨てられているのではないかというのは、実際上の信仰生活において持つ感覚かもしれません。自分は本当は顧みられていないのではないか。そう考える時、深い孤独と絶望を覚えます。悲しみを覚えます。どこに思いをぶつけて良いのかと焦燥感に駆られます。

 またキリスト者でなくても“見捨てられている”ということは大変な問題です。自分は何か社会から見捨てられた、自分には居場所がない、誰かに愛されたいと日々の生活の中で思う。なぜ自分はこういう人生になってしまったのかと問う。そういうことというのは、何か特別な方というより社会において実際に起こっていることです。

 しかし本日の箇所でイエスはその叫びをあげられたのです。真(まこと)の人でもあられますが、真の神でもあられるイエスが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

 なぜでしょうか。なぜそこまでの叫びを、苦しみを、負わなければならなかったのでしょうか。なぜそのような悲惨な叫びを私たちの主はなさなければならなかったのでしょうか。

2.本論

 (1)暗闇の中で

 「イエスを十字架につけたのは午前九時であった」と記されています。本日の箇所で「昼の十二時になったとき」とありますので、もう午前九時から昼の十二時まで三時間も経過しています。その三時間経過した時に「闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」と記されています。大変不気味です。暗闇が突然世界を覆ったのです。出エジプト記10章22節には、あのファラオ、エジプトに対して起こった、暗闇の災いというのがありました。「モーセが天に向むけて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった」とありますように神の呪いとして闇が使われています。

 またあるいはアモス書にも暗闇に関する記事があります。「ああ、主の日を切に望む者、主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない」(アモス5章18節)とあり、主の日、つまり神様の裁きが闇として描かれています。

 いずれにしましても、神の怒り、裁きがこの暗闇によって表されているのです。神の怒り、裁きが全地を覆ったのです。ルカ福音書では「太陽は光を失っていた」とあります。神が直接今このイエスの十字架に際して、介入されているのです。この出来事によって神の怒り、人間の罪が表されています。神の怒りが、裁きが、示されています。人間の罪深さのゆえの、神の裁きがここにあらわれています。全地を暗闇が覆い尽くしたのです。

 (2)わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

 そしてイエスが十字架にかけられてから六時間たった時、イエスは突然大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですかという意味である。」突然と言いました。確かにイエスはその間、「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と言われたり、あるいは「他人を救ったが自分は救えない」などと、人々やユダヤ教の指導者から侮辱され、罵られていました。その六時間の間、ただその苦しみを耐え忍ばれただけかというとそうではないと思うのです。ここでイエスはまさにゲッセマネの園で祈られたように、「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」という祈りが、父なる神への祈りが、ずっとあったのではないかと思います。愛する子として、父なる神様に従われようとしたのです。その苦しみの中、この「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」という祈りの言葉が出てきたのでしょう。

 この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、イエスが当時話していたであろう、アラム語で記されている数少ない箇所です。そしてこの「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」とはその訳ですが、詩編の22篇から引用されたものです。詩編から主は言葉を取られたのです。この詩編22篇は、全体的には義人の苦しみが歌われている詩編です。しかしこの歌は、最後のほうに至ると、主を褒め称えていることから、苦しみを歌いつつも、神を賛美しているのだ、と言う人もおります。この場面において、主は絶望の叫びをあげておられるが、実際にはそうではないのだと。しかし、それは読み込みすぎではないかと思います。主は文字通り、神から見放される。それほどまでに、人間の闇を、罪を負われたのです。その十字架の苦しみの中で、神が御顔を向けてくださらず、人間のすべての罪の現実を担われたのです。まさにイエスは「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(新共同訳聖書;多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た)」(マルコ10章45)のであります。

 

 命の泉は主にあり(詩篇36)、善なるものはすべて神から来ます。そうであるのに、「神に見捨てられる。」これより深い嘆きは人間にはないでしょう。神に見捨てられる!この表現はあまりにも厳しい表現であるために、ある有力な写本では、ここを「なぜわたしを咎めるのですか」と言い換えているものさえあります。真の神であるイエスが神から見捨てられるそのようなことがあってはならないと思ったからでしょう。それは、わたしたちの感情でもよく分ることだと思います。「キリストは神であり、人である。」その神様であられるイエス様が「見捨てられる」というのは理解できない、と思ったのです。しかし、「まことに、彼はわたしたちの病を負い、わたしたちの痛みを担った」(イザヤ53章4節)のであって、神は、罪を知らない方をわたしたちのために罪とされたのです。(Ⅱコリント5章21節)。

(3)エリヤの到来の予想とイエスの死、そして垂れ幕が裂ける

 そのようにイエスが苦しみの祈りを献げている傍で、人々が言います。35節「そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。『ほら、エリヤを呼んでいる。』すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、『待て、エリヤが降ろしに来るか見てみよう』と言ってイエスに飲ませようとした。」これは、実はエロイというアラム語がヘブライ語になるとエリとなりますので、ここに居合わせた人々が、聴き間違えた可能性があります。また当時のユダヤ人の間では、“義人が困難な状況の時には、エリヤが助けに来る”というような(聖書にはないのですが)、民間での信仰がありました。そんな背景もあり、エリヤと聴き間違えたのかもしれません。

 そして「海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、『待て、エリヤが降ろしに来るか見てみよう』と言ってイエスに飲ませようとした」とあります。酸いぶどう酒とありますが、これは単純に酢のことです。ぶどう酒からできた酢ということですが、当時は(ローマ・ギリシアにおいて)喉の渇きを満たすためによく飲まれたようです。まあ十字架にかけられている、イエスの意識をできるだけ長く持たせて、自分たちが信じているようにエリヤが来るかどうか見てみようとしたのでしょう。

 

 しかし、彼らの期待とは裏腹に事態は進行していきます。37―38節「しかしイエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とあります。マルコ福音書が描くイエスの死は極めて簡潔です。「大声をあげて、息を引き取られた」とありますが、その中身は必ずしも明らかではありません。しかし、その後には驚くべきことが起こります。「すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神殿には聖所と至聖所の間に幕があったことが出エジプト記26章31−35節、レビ記16章2節などに記されています。至聖所というのは、贖罪日というのがありまして、その日に大祭司が唯一入ることができる大変神性な場所であったわけです。しかしその垂れ幕が裂けた、それも真っ二つに裂けたと記されています。このことの意味は様々に解釈できますが、しかし次の箇所がその内容を明瞭に示しているのではないかと思います。

(4)百人隊長の信仰告白と婦人たち

 39節です。「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのをみて言った。『この方は本当に神の子であった。』」そのように記されています。百人隊長とは、ローマ兵でありますから、もちろんユダヤ人ではなく、異邦人です。その百人隊長が「この方は本当に神の子だった」と告白するに至るのです。それはまさに、神殿の幕が真っ二つに裂けたことにより、異邦人とユダヤ人の隔たりがなくなったのです。至聖所にわたしたちが入って、神を知ることができるそのことが表されています。そして神は人と神との隔てをも。イエス・キリストを通して、なくして下さったのです。「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊」(エペソ2章14節)されたのです。神と罪人という断絶した世界、そこにイエス・キリストは来て、二つのものを一つにし、その垂れ幕を、その隔ての壁を、打ち壊されたのです。

 そして、その様子を見ている人々もおりました。40―41節「女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと小ヤコブとヨセの母マリアとサロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」15章40節、47節、16章1節にそれぞれ彼女たちの名が登場します。ここではおそらく復活の場面の準備がなされています。イエスの死を見た人々が、これから復活をも見ようとしているのです。しかしそれ以上に、彼女たちは「イエスに従って仕えていた人たち」です。この御後に従おうとうする彼女たちに、イエスの姿を見ようとした彼女たちに、新しい命が与えられようとしているのです。

3.結論と祈り

 (1)十字架の愛

 「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか。」そう神に叫ばれるほどに、イエスはわたしたちの罪を担い苦しみぬかれました。最後まで父なる神に従順に従われました。

 冒頭で、見捨てられるということは、人にとって深い孤独と絶望を覚えることと言いました。もう生きる希望が見出せなくなる状況と言っても良いかもしれません。しかし、そのような罪の現実を主はご存じであられます。わたしたちが自分自身が何か世界から取り残されて、一人ぼっちのような思いになる、どこにも居場所がない、そのような現実があることをよくご存じです。どこにわたしたちが希望をおけば良いのか分らず、枯れた谷で鹿が喘ぎ求めるようなわたしたちをご存じです。それゆえに、イエスは十字架にかかってくださいました。その人間の罪の現実の中に来て下さいました。来て下さって、ご自身で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」そう言われるほどに、わたしたちの現実の罪を担い、今日ここにいるわたしたちのために十字架にかかって死んで下さいました。「罪とは何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5章21節)何の関わりもない方です。その方がわたしたちの罪を背負って、「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と言われたのです。しかし、それは私たちが神の義を得るためでした。神の義に決して達し得ないわたしたちが、イエス・キリストの愛のゆえに義を得ることができるのです。神の前に全く暗闇で、その前に立つことができないわたしたちが、イエスのゆえに、十字架の御業のゆえに、義とされ立つことができるのです。わたしたちの罪は全く暗闇です。深い深淵でそれは自分自身のあゆみということを考えて下されば、「私は神の前に何も恥じることなどない」などと言える者は誰もいません。全くわたしたちは。暗い罪の現実があります。しかし、「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか。」そのイエスの十字架によって、わたしたちは義とされました。真実に神様の前に生きる者として下さったのです。

 (2)悔い改めて福音を信じなさい

 そしてそれは本日見ましたように、垂れ幕が真っ二つに裂けたそのことに象徴されるように、神と人との隔たりが打ち壊されました。イエスのゆえに「アッバ、父よ」と親しく呼びかけることのできる世界です。そしてそれは、異邦人である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったその告白に至ります。

 

 この神の子という表現は、マルコ福音書1章の冒頭で掲げられた、「神の子イエス・キリストの福音の初め」ということと重なります。このマルコ福音書の大きな主題は、この神の子イエス・キリストの福音(良きおとずれ)を叙述することでした。それがまさにここにおいて、イエスの十字架の御業を通して、異邦人へもその“神の子だった”との信仰が与えられるに至りました。

 わたしたちも、今の時代、聖書を通して、聖霊が働いて下さり、このイエス・キリストの福音を知ることができます。神の子と告白することができます。イエス・キリストの十字架を知ることができます。ゆえにわたしたちは、このマルコ福音書の主題に戻るべきです。この主の十字架がある今、「神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」という御言葉を今一度思い起こしましょう。イエスは、聖霊を通してわたしちのもとに近づき、ご自身の支配のもとにおいて下さろうとしています。神の国は近づきました。イエスの十字架のゆえに、わたしたちはまさに悔い改める(方向を変える)べきです。主イエスのもとを向きましょう。ここにこそ、わたしたちが信じるべき福音があります。

 わたしたちはこの福音を信じるように今朝招かれています。時は満ちたのです。神の国、イエスがわたしたちのもとに近づいて下さり、その神の国は近づいたのです。

 祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、御名を崇めて賛美致します。御言葉を聴きました。あなたがわたしたちの罪を担って下さり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれるほどに、父なる神様に従われ、十字架の死に至るまで従順であられたことを聴きました。わたしたちはそれゆえに、神との隔たりを打ち壊され、あなたのゆえに神の義を得るものとさせられました。そして全くあなたの恵みにより、今朝、あなたを神の子イエス・キリストと告白できる幸いを感謝致します。どうか、あなたがこのようにわたしたちのもとに来て下さいましたから、悔い改めて、心からあなたを信じるものとさせて下さい。

 感謝して、イエス・キリストの御名によって祈ります アーメン

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