2022年09月11日「全能の神を信ず ⑶(使徒信条の学び 6)」

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全能の神を信ず ⑶(使徒信条の学び 6)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 11章15節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:15 第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天におこって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は限りなく支配される。」
11:16 すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。
11:17 「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。
11:18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者が裁かれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも、報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」ヨハネの黙示録 11章15節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 教会が歴史を通じて告白してきました使徒信条により、大切な点を続けて学んでいます。今朝も、全能の神を信じることの、特に恵みというか、感謝な点について学びます。

 第一の点は、御子イエス・キリストを自分の救い主として心から信じ、依り頼む者は、自分自身の信仰の成長について、希望をもって努力しつつ生きることが出来る、ということです。

 クリスチャンが自分の罪の赦しと永遠の命を確信出来ることについては、前回の説教で確認しました。しかし、今朝確認したいのは、今この世において、私たちが神にもっと喜ばれる者に清められ、少しでも神の栄光を現し、神を喜ぶ者へと成長させられることについての希望です。

 自分の力でではなく、ただ主イエスの十字架と復活のお蔭で、私たちが天の国に入れられることについては、割合信じることが出来るかも知れません。ありがたいことです。

 しかし一方で、神を知れば知る程、自分の信仰が未だ(いまだ)にお粗末で、隣人愛に乏しく、自己中心的な情けない自分を思いますと、自分の霊的成長になかなか希望を持てないということはないでしょうか。

 自分を省みず、自己満足に浸っている人に比べれば、勿論、この方が遥かにましです。けれども、私たちとしては、泣きたいぐらいに悲しいです。こんな私たちに、徐々にでも罪と不信仰に打ち勝ち、神に喜ばれる自分へと清められ高められる希望は、あるのでしょうか。

 あります!何故なら、私たちをご自分の子供にして下さった神は全能者であられ、私たちをも作り変えることの出来るお方だからです。ですから、主イエスは言われました。マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

 自分の罪深さを思って胸を打ち叩いて悲しみ、「主よ、主よ、私を憐れんで下さい。情けない罪から私を解放し、もっと清めて下さい」と、何度も泣いてすがる者を、どうして父なる神が放っておかれるでしょうか。時間をかけても、神は必ず御霊によって私たちを清め、変えることがお出来です。神は全能者だからです。

 なかなか成長しない私たちですが、神はご自分にすがりつく者を必ず受け入れ、喜び、清めて下さる全能の神です。ですから、私たちも希望をもって罪と不信仰の克服に努め、与えられた命と時間、そして人生を一層大切にし、励まし合って行きたいと思うのです。

 第二に心に留めたいのは、他の人についての点です。つまり、誰かの魂の救いやその人の命や癒しを初めとする色々なことのために、私たちは簡単に諦めず、希望をもって、しぶとく神に祈り、期待して願い続けられることです。何故なら、神は全能の神だからです。

 クリスチャンは、いつも誰かの救いを願って神に祈っています。祈らない日はありません。

 しかし、祈りながらも時々私たちは、「あの人は無理ではないだろうか」などとふと考え、諦めに近い気持になることはないでしょうか。

 こういう時、私たちは三つの点を思い起したいと思います。

 一つは、自分のような不信仰で罪深い者でも救われたのですから、「あの人は駄目かも」などと思ってはいけないことです。それは傲慢です。

 二つ目は、主イエスの約束を心から固く信じ、それ故、イエスの名によって祈ることです。イエスは「私の名によって父に求めるものは何でも、父はあなた方に与えて下さいます」(ヨハネ16:23)と言い、「あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをして上げます」(同14:14)と約束されました。この約束を信じ、イエスの名により心底祈るのです。

 三つ目は、実は神が全能だということです。天と地を全くの無から創り、死人をさえ甦らせられる神は、不可能を可能とされる全能の神です。しかも単に全能というだけでなく、愛と憐れみに満ちた方です。ですから、希望を失わず、諦めずに、忍耐強く願うのです。

 長い間、マニ教に染まり、頑なだったアウグスティヌスのことで、母モニカは苦しみ、ミラノ司教アンブロシウスに泣いて相談しました。アンブロシウスは「このような涙の子が滅びるはずはありません」と言ってモニカを励まし、帰しました。そこで彼女は再び神に希望を抱き、祈り続けました。やがてアウグスティヌスは救われ、387年、洗礼を受けました。

私たちも、自分の家族や誰かの救いのために、改めて全能の神を信じて祈りたいと思います。

 以上は、魂の救いに関することですが、重い病気やケガ、大きな試練や困難の中で苦しむ誰かの癒しや支えのためにも、是非希望を失わず、何日でも何か月でも何年でも、先程の二番目と三番目の点を心に留めつつ、全能の神に祈り続けたいと思います。

 それでも、私たちの祈り続けたその人が、助からなかったとか旨く行かなかったという残念なこともあります。それはとても辛いことです。しかし、だからといって、私たちが祈り続けたことが無駄だったということは、あり得ません。神は私たちの信仰と愛と真剣さをよく見ておられ、よくご存じです。

 確かに、私たちがいい加減な気持で祈り願うことを、神はお嫌いです。しかし、私たちが簡単に諦めず、主イエスの約束と神の全能を固く信じ、他のことをやめてその時間と労力、エネルギーを割いてでも、魂を注いで祈り願ったことを、主イエスの父であり、私たち信仰者の父ともなって下さった神が、全部無駄にされることなど、あり得ません。私たちには分らなくても、神はご自分の知恵と方法で、その人のために必ず何か良くして下さいます。そのことを信じ、誰かの魂の救いやその人の命や癒しを初めとする様々なことのために、私たちは簡単に諦めず、希望を抱き、神の善意を信じ、神に忍耐強く祈り続けたいと思います。

 最後、大きな第三点を学びます。それは、私たち人間が考え、口にし、行うことに対して、神はいつまでも何もされないのではなく、必ず正しく公平に報いられるということです。

 神が全能だということに伴う一つのことは、神は悪には必ずいつか裁きをもって報いられるという点です。人間は悪をわる賢く隠し、あるいは悪を見逃すこともあります。しかし、神は決して悪を見逃されません。

 無論、人が神の前に平伏し、心底悔い改め、救い主イエスを心から信じ、依り頼むなら別だ。でも、頑なに不信仰であり続けるなら、神が罪と悪を罰しないなど、あり得ません。全能の神は恐るべき裁きをもって報いられます。

 詳しい説明は省きますが、先程お読みしました黙示録11:17、18は、世の終りの様子をこう語ります。「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神であられる主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者が裁かれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも、報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」

 要するに、生きている間、万一、人間の裁きから逃れられても、悪に対する神の怒りと裁きから逃れることは、決して出来ません!神は全能者なのです。ここに、涙を流しながらも主の前にあくまで誠実に生きようとする信仰者の慰めと希望があります。ですから、ローマ12:19は言います。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐は私のもの。私が報復する。』」

 むしろ私たちは自分の罪をこそ恐れ、自分をこそ見張り、神の国と神の義を求め、愛をもって神と人に仕える者でありたいと思います。

 そこで、もう一つの点ですが、主は、信仰と愛により善を行なった人には、最高の祝福をもって必ず報いて下さるのです。神は全能です。従って、神と人に、謙虚に誠実に愛をもって仕えた人とその行いを見落とすなど、絶対にありません。どんなに小さな行いであろうと、その一つたりとも神は見落とさず、最後の時に主ご自身、喜びをもって、それも驚くばかり豊かに報いて下さいます!

 それを伝えるのが、マタイ25:31以降の御言葉です。天と地の全ての権能を父なる神から授かった御子イエスは、世の終りに、羊と山羊とを分けるように、全ての人を右と左に分け、右にいる人たちに、34節「さあ、私の父に祝福された人たち。世界の基が据えられた時から、あなた方のために備えられていた御国を受け継ぎなさい」と、36節まで語られます。

 すると正しい人たちは、37~39節で、要するに「主よ、私はあなたから報いを頂けるようなことはしていません」と、驚いて答えます。しかし、主は40節「まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さな者たちの一人にしたことは、私にしたのです」と答え、彼らに永遠の祝福をもって報いられるのです。

 神は全能です。私たちが信仰と愛をもって人に仕え、人に行なった、しかしすっかり忘れているどんな小さなことでも、ことごとくご存じで、洩れなく報いて下さるのです。

 全能の神を信じるとは、こういう神を仰ぎ、こういう神の眼差しの下に、愛する主イエス・キリストと共に歩ませて頂くことです。イエスは約束されます。マタイ28:20「見よ。私は世の終りまで、いつもあなた方と共にいます。」

 「全能の神を信ず」というこの恵み、この幸いの中に、改めて是非、ご一緒に歩みたいと思います。

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