2019年08月28日「主の祈りの学び 2 呼びかけ「私たちの父よ」」
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主の祈りの学び 2 呼びかけ「私たちの父よ」
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節
聖書の言葉
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
(新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節
メッセージ
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前回から、私たちは祈りについて学んでいます。祈りは、神の形に造られた人間の、創り主なる真(まこと)の神に対する自然な応答であり、必然とも言える魂の行為です。しかし、特にウェストミンスター小教理問答の88が言いますように、私たち罪人がイエス・キリストによる救いの全体に与(あずか)る上で、大変重要な恵みの手段の一つです。
そこで、主イエスが弟子たちに教えられた祈りの模範である「主の祈り」によって、私たちは大切な祈りの基本を学ぼうとしています。
前回は、最初の「天にいます私たちの父よ」(9節)から、特に誰に祈るかを確認しました。世間では、人は色々なものに祈ります。しかし、主イエスと聖書全体は、祈りの対象が天地の創り主なる真(まこと)の神であることを明確に教えます。この点を、イエスは「天にいます私たちの父よ」という呼びかけの言葉で示されます。そして前回は、特に神を「父」と呼んで祈ることの意義、すなわち、天地の創り主にして世界と歴史の摂理の主なる神に、親しく「お父様」と呼びかけることのできる幸いを学びました。
今日は、イエスが、「私たちの父よ」と呼びかけるように教えられた点を学びます。単に「父」ではなく、「私たちの」父、です。これも何と大切でしょう。つまり、常に他者への愛や配慮を伴った祈りであるということです。
私たちは、祈りの中で神によく願い事をします。しかし、しばしば自分を中心とした狭いものに終始することがないでしょうか。無論、私たちは自分のことを祈らずにはおれず、また祈ってかまいません。けれども、自分のことだけとか、せいぜい自分の家族のことぐらいしか祈らないのであるなら、私たちは祈りにおいてもまだまだ自己中心的と言わざるを得ません。罪は恐るべき力をもって働きます。実際、私たち人間の生の全領域に及びます。従って、自分が真の神を信じてさえいるなら、どんな祈りでも良い、という訳にはいきません。
繰り返します。イエスは、「私たちの」父よ、と祈るように弟子たちに教えられます。神は、御子イエスを通して、個々のクリスチャンに対して親しい真の父であられるだけでなく、全てのクリスチャンにとって親しい父です。従って、自分や自分の家族、自分にとって親しい人たちを覚えて祈るのは、無論、かまいませんが、いつもそれだけというのではなく、もっと広く色々な人たちを覚えて、「私たちの父よ」と神に呼びかけるのです。
ですから、自分の教会の兄弟姉妹たちのことは勿論、更に言いますと、隣り近所や日本や世界の多くの人のことも意識し、彼らのためにも祈るのです。確かに、今、彼らの多くはクリスチャンではなく、まだ神との正しい関係にありません。しかし、Ⅰテモテ2:4が言いますように、「神は全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んで」おられるのですから、彼らへの神の救いの愛と憐れみを覚えて、私たちは祈るのです。ウェストミンスター大教理問答の問183を読んでおきます。「問=誰のために、私たちは祈らなければならないか。答=地上にあるキリストの全教会のために、為政者と教役者(牧師)とのために、自分自身、兄弟、それだけでなく敵のためにも、また今生きている、または今後生れて来る全ての種類の人々のためにも、私たちは祈らなければならない。」こういう広がりを持つ祈りを、主イエスは期待しておられるのです。
けれども、何より、やはり同じ信仰に生き、戦っている自分の教会の信徒たちをよく覚えて「私たちの父よ」と祈ることが大切でしょう。主の祈りは常に公同礼拝で祈られてきました。従って、「私たち」という言葉で、何より教会の兄弟姉妹たちのことが意識されてきたはずです。「それでは狭すぎる。我々はもっと教会外の多くの人を意識すべきだ」という考えもあります。ただ、注意しませんと、「もっと広く」と言うだけでは、却って抽象的で中身が薄くなるきらいがあります。自分の教会と兄弟姉妹たちをまず具体的にしっかり覚えないでいて、どうして真実な祈りができるでしょうか。マザー・テレサはかつて「あなたはカルカッタ(現在はコルカタ)の貧民のことだけでなく、もっと世界中にある色々な問題に取り組むべきではないか」と批判されました。しかし、彼女は「目の前の人に関わらないで、どうして様々な問題に本当の意味で取り組めるでしょうか」という主旨の反論をし、黙々とカルカッタで働きました。そして、そこから真実で大きなうねりが世界に広がりました。
「天にいます私たちの父よ。」主イエスは、私たちの祈りが、まずご自身が贖われた教会の民を中心になされ、がそれに加え、様々な、それこそ私たちを迫害し、敵対する人たちをも覚えて祈ることをお教えになります。主のご期待に応えたいと思います。