Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 Ⅰコリント10:31 あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。詩篇73:25 あなたの他に、天では、私に誰がいるでしょう。地では、私は誰をも望みません。コリントの信徒への手紙一 10章31節 メッセージ 振起礼拝と呼ぶものを、多くの教会が昔から持ってきました。夏の暑さで心身の弱っていた私たちが、秋を迎え、信仰的に再出発するためのものです。 今朝は「神の栄光を現し、神を喜ぶ」と題して神の御心を学びます。 お分りのように、これはウェストミンスター小教理問答の有名な問1の答、「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです」と同じです。つまり、私たちクリスチャンの生きる目的という根本的なことを、今朝は再確認したいと思います。聖書で神が教えておられる人間の生きる目的やあり方から逸脱する誘惑や弱さが、夏の暑さのせいだけでなく、私たちには常にあるからです。 まず、私たちの生きる一番の目的は、神の栄光を現すことにあるという点を取り上げます。 少し確認します。これは、人の「主な」目的であり、一番中心的な究極の目的です。 私たちには当然その時々に、例えば、学生には学生の、社会人には社会人の、何かの専門職・プロならプロとしての大切な目的、目標があり、それに一生懸命になって良いですし、なるべきですね。しかし、私たちクリスチャンの最も重要かつ究極の目的はというと、一つは神の栄光を現すことなのです。 では、「神の栄光を現す」とは、どういう意味でしょうか。 第一に、神の栄光を称え(たたえ)、神を賛美するという意味があります。そうです。私たちには、天と地と私たち人間の創り主にして、救い主・御子イエスを賜った程に私たちを愛して下さっている神を賛美し、神を称えるという最も大切な目的のあることを、常にキチンと心に留めていたいと思います。 第二に、神に栄光を帰するという意味があります。これもすごく大切です。 私たち人間には、色々なことですぐ自分を誇り、自慢し、自分に栄光を帰するところがあります。人間の罪深い自己中心性は、そういう所によく現れます。 残念ですが、これはクリスチャンになっても残っています。ですから使徒パウロは、Ⅰコリント4:7で、そういう信者にこう言って、諫めました。「一体誰が、あなたを他の人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、何故、もらっていないかのように誇るのですか。」 ですから、私たちは、自分や自分の家柄、経歴、あるいは自分の民族の優秀さなどを決して誇ることなく、もし私たちに何か良い点や優れた点があるならば、全ての良きものの源なる天の神にこそ栄光を帰したいと思うのです。良いことや嬉しいことがある時も、自分をではなく、神をこそ誇る私たちに是非なりたいと思います。Ⅰコリント1:31は言います。「誇る者は主を誇れ」と。 第三に、聖書の教え全体から言いますと、神の栄光を反射するという点もあります。 確かに私たちは、信仰があっても、この世ではなお腐敗した罪の性質を持つ者です。しかし、どんなに錆つき、汚くなった鍋でも、よ~く磨けば、光を反射出来ます。同じように、私たちが御言葉を一つ一つ心に蓄え、勉強においても仕事においても社会生活においても、御言葉に従って少しでも生きるなら、神は私たちを清め、神の麗しいご栄光を反射することを許されるのです。 第四に、同じく聖書の教え全体から言いますと、人がイエス・キリストを信じて救われ、「神の栄光の輝き」である御子イエス(ヘブル1:3)に似て清くされ、本当の意味で幸せになるなら、実はそこにこそ神の栄光は現され、神は大変お喜びになるのです。その意味で言いますと、私たちの伝道により、誰かがイエス・キリストを信じて不信仰と罪から神に立ち帰り、救われるなら、そのことで神の栄光は素晴らしく現されるのです。 大切なことは、以上のような意味で、「私は神の栄光を現す者でありたい」という目的意識と願いを持って生きることです。具体的に言いますと、神の栄光のために私たちは、神のきよい戒め・律法を守り、神と人の前に嘘偽りなく真実に生き、少しでも良い政治家に投票し、あるいはよく勉強し、規則正しい生活や適度な運動によって体を健康に保ち、新しいものにチャレンジもするのです。 私たちはまだまだ罪を宿す弱い小さな者でしかありません。でも、そんな自分が生き存在するその全てを通して、それこそ私たちが呼吸し、考え、悩み、笑い、お喋りし、眠り、食べることを通しても、どうか愛する神の栄光が現されますように!今日からまた再びそういう自分でありたいと願います。Ⅰコリント10:31は言います。「あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。」 次に、「神を喜ぶ」という点に進みます。 「神を喜ぶ」という表現に、私たちは少し戸惑いを覚えるかも知れません。こういう言い方を殆どしないからです。けれども、聖書とキリスト教教理や神学をよく学んでいました17世紀のウェストミンスター神学者会議の出席議員たちは、よ~く祈り、よ~く検討した結果、人間の主な目的の一つとして、この表現に導かれたのでした。 実は「喜ぶ」と訳されている元の英語は enjoy(エンジョイ)、つまり「楽しむ」という意味です。その通り、私たち人間が生きる最も中心的なもう一つの目的は、私たちの創り主にして救い主であられる神を喜び、神を楽しむことにあるのです。 説教前にお読みしました詩篇73:25をご覧下さい。詩篇作者は神に向って「あなたの他に、天では、私に誰がいるでしょう。地では、私は誰をも望みません」と告白します。 真面目だったこの人は、ある時、大変辛い試練に遭い、苦しみました。ところが周りを見ますと、高慢で、神を神とも思わず、悪いことをしている人たちが、元気で順調に生きていました。そこで、この人は神と信仰について疑問を抱くようになったのです。 しかし、彼は辛うじて信仰に留まり、その結果、導かれた結論は、自分の究極の喜びは、天地の創り主、全知全能の真(まこと)の神以外にはないということでした。25節はそれを語っています。その点がハッキリしていなかったために、つまり、何より神を自分の最高の喜びとしていなかったために、今までの自分はちょっとしたことによっても信仰がフラフラしまったのであり、そこに原因があったことに気付いたのです。 この世の多くの人の喜び、楽しみは何でしょうか。飲み食い?遊ぶこと?お金儲け?趣味?地位?名声?しかし、人のために生き、人の笑顔を見ることを一番の喜びとする方々もいます。素晴らしいですね。 しかし、私たちは、ただ御子イエスへの信仰を通して、私たち罪人に永遠の命という最高の喜び、宝を下さり、そこまで私たちを愛して下さっている神をこそ喜ぶのです。 神は私たちに実に様々な喜びや楽しみを下さっています。今から段々秋に入りますが、草木の色の移り変りは、何と美しく、素晴らしいでしょうか!空には何と絶妙な形と色合いの雲が浮かび、私たちの目を楽しませてくれることでしょう!小さな体のコオロギや鈴虫が、どうしてあんなに大きくて見事な、それも夫々特有の音を出せるのでしょう!親に手を繋がれて一生懸命に歩き、でも自分の関心のあるものはちゃんと見ながら歩く幼い子供の姿!人間って、何とすごいでしょう!神は何と美味しい食べ物、飲み物を、また素晴らしい音楽や絵画といった芸術性を人間に与え、それらに更に磨きをかける能力をも下さっていることでしょうか。神はまた、人間に何と楽しいユーモアの心を下さっていることでしょう! しかし、私たちはそこで終るのではなく、そういう色々な喜びを私たちに与え、何よりご自分の最大の喜びであり宝であられる御子イエスを下さっている父なる神を覚え、感謝し、その神を喜び、楽しむのです。 世の中には、色々な喜び、楽しみがあります。中には、不潔なものや人間をますます堕落させる罪深いものもあります。けれども、私たちクリスチャンは、何が神から来た良いものかどうかを判別出来る信仰と理性を賜っているのです。ですから、それを眠らせず、良いものを選び取り、歳を重ねれば重ねるほど、神を喜び楽しむという、永遠に連なるこの最高の特権を活かしたいと思います。 最後に一言。私たちは神を喜ぶ時にこそ、実は神の栄光を現すことが出来るのであり、神の栄光のために生きようとする時にこそ、神を喜び楽しむという最高の幸せに与れるのです。 神の栄光を現し、神を喜ぶ!この最も幸いで根源的なことを覚え、今日からまた改めてご一緒に歩みたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の日曜朝の礼拝 『コリントの信徒への手紙一』
振起礼拝と呼ぶものを、多くの教会が昔から持ってきました。夏の暑さで心身の弱っていた私たちが、秋を迎え、信仰的に再出発するためのものです。
今朝は「神の栄光を現し、神を喜ぶ」と題して神の御心を学びます。
お分りのように、これはウェストミンスター小教理問答の有名な問1の答、「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです」と同じです。つまり、私たちクリスチャンの生きる目的という根本的なことを、今朝は再確認したいと思います。聖書で神が教えておられる人間の生きる目的やあり方から逸脱する誘惑や弱さが、夏の暑さのせいだけでなく、私たちには常にあるからです。
まず、私たちの生きる一番の目的は、神の栄光を現すことにあるという点を取り上げます。
少し確認します。これは、人の「主な」目的であり、一番中心的な究極の目的です。
私たちには当然その時々に、例えば、学生には学生の、社会人には社会人の、何かの専門職・プロならプロとしての大切な目的、目標があり、それに一生懸命になって良いですし、なるべきですね。しかし、私たちクリスチャンの最も重要かつ究極の目的はというと、一つは神の栄光を現すことなのです。
では、「神の栄光を現す」とは、どういう意味でしょうか。
第一に、神の栄光を称え(たたえ)、神を賛美するという意味があります。そうです。私たちには、天と地と私たち人間の創り主にして、救い主・御子イエスを賜った程に私たちを愛して下さっている神を賛美し、神を称えるという最も大切な目的のあることを、常にキチンと心に留めていたいと思います。
第二に、神に栄光を帰するという意味があります。これもすごく大切です。
私たち人間には、色々なことですぐ自分を誇り、自慢し、自分に栄光を帰するところがあります。人間の罪深い自己中心性は、そういう所によく現れます。
残念ですが、これはクリスチャンになっても残っています。ですから使徒パウロは、Ⅰコリント4:7で、そういう信者にこう言って、諫めました。「一体誰が、あなたを他の人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、何故、もらっていないかのように誇るのですか。」
ですから、私たちは、自分や自分の家柄、経歴、あるいは自分の民族の優秀さなどを決して誇ることなく、もし私たちに何か良い点や優れた点があるならば、全ての良きものの源なる天の神にこそ栄光を帰したいと思うのです。良いことや嬉しいことがある時も、自分をではなく、神をこそ誇る私たちに是非なりたいと思います。Ⅰコリント1:31は言います。「誇る者は主を誇れ」と。
第三に、聖書の教え全体から言いますと、神の栄光を反射するという点もあります。
確かに私たちは、信仰があっても、この世ではなお腐敗した罪の性質を持つ者です。しかし、どんなに錆つき、汚くなった鍋でも、よ~く磨けば、光を反射出来ます。同じように、私たちが御言葉を一つ一つ心に蓄え、勉強においても仕事においても社会生活においても、御言葉に従って少しでも生きるなら、神は私たちを清め、神の麗しいご栄光を反射することを許されるのです。
第四に、同じく聖書の教え全体から言いますと、人がイエス・キリストを信じて救われ、「神の栄光の輝き」である御子イエス(ヘブル1:3)に似て清くされ、本当の意味で幸せになるなら、実はそこにこそ神の栄光は現され、神は大変お喜びになるのです。その意味で言いますと、私たちの伝道により、誰かがイエス・キリストを信じて不信仰と罪から神に立ち帰り、救われるなら、そのことで神の栄光は素晴らしく現されるのです。
大切なことは、以上のような意味で、「私は神の栄光を現す者でありたい」という目的意識と願いを持って生きることです。具体的に言いますと、神の栄光のために私たちは、神のきよい戒め・律法を守り、神と人の前に嘘偽りなく真実に生き、少しでも良い政治家に投票し、あるいはよく勉強し、規則正しい生活や適度な運動によって体を健康に保ち、新しいものにチャレンジもするのです。
私たちはまだまだ罪を宿す弱い小さな者でしかありません。でも、そんな自分が生き存在するその全てを通して、それこそ私たちが呼吸し、考え、悩み、笑い、お喋りし、眠り、食べることを通しても、どうか愛する神の栄光が現されますように!今日からまた再びそういう自分でありたいと願います。Ⅰコリント10:31は言います。「あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。」
次に、「神を喜ぶ」という点に進みます。
「神を喜ぶ」という表現に、私たちは少し戸惑いを覚えるかも知れません。こういう言い方を殆どしないからです。けれども、聖書とキリスト教教理や神学をよく学んでいました17世紀のウェストミンスター神学者会議の出席議員たちは、よ~く祈り、よ~く検討した結果、人間の主な目的の一つとして、この表現に導かれたのでした。
実は「喜ぶ」と訳されている元の英語は enjoy(エンジョイ)、つまり「楽しむ」という意味です。その通り、私たち人間が生きる最も中心的なもう一つの目的は、私たちの創り主にして救い主であられる神を喜び、神を楽しむことにあるのです。
説教前にお読みしました詩篇73:25をご覧下さい。詩篇作者は神に向って「あなたの他に、天では、私に誰がいるでしょう。地では、私は誰をも望みません」と告白します。
真面目だったこの人は、ある時、大変辛い試練に遭い、苦しみました。ところが周りを見ますと、高慢で、神を神とも思わず、悪いことをしている人たちが、元気で順調に生きていました。そこで、この人は神と信仰について疑問を抱くようになったのです。
しかし、彼は辛うじて信仰に留まり、その結果、導かれた結論は、自分の究極の喜びは、天地の創り主、全知全能の真(まこと)の神以外にはないということでした。25節はそれを語っています。その点がハッキリしていなかったために、つまり、何より神を自分の最高の喜びとしていなかったために、今までの自分はちょっとしたことによっても信仰がフラフラしまったのであり、そこに原因があったことに気付いたのです。
この世の多くの人の喜び、楽しみは何でしょうか。飲み食い?遊ぶこと?お金儲け?趣味?地位?名声?しかし、人のために生き、人の笑顔を見ることを一番の喜びとする方々もいます。素晴らしいですね。
しかし、私たちは、ただ御子イエスへの信仰を通して、私たち罪人に永遠の命という最高の喜び、宝を下さり、そこまで私たちを愛して下さっている神をこそ喜ぶのです。
神は私たちに実に様々な喜びや楽しみを下さっています。今から段々秋に入りますが、草木の色の移り変りは、何と美しく、素晴らしいでしょうか!空には何と絶妙な形と色合いの雲が浮かび、私たちの目を楽しませてくれることでしょう!小さな体のコオロギや鈴虫が、どうしてあんなに大きくて見事な、それも夫々特有の音を出せるのでしょう!親に手を繋がれて一生懸命に歩き、でも自分の関心のあるものはちゃんと見ながら歩く幼い子供の姿!人間って、何とすごいでしょう!神は何と美味しい食べ物、飲み物を、また素晴らしい音楽や絵画といった芸術性を人間に与え、それらに更に磨きをかける能力をも下さっていることでしょうか。神はまた、人間に何と楽しいユーモアの心を下さっていることでしょう!
しかし、私たちはそこで終るのではなく、そういう色々な喜びを私たちに与え、何よりご自分の最大の喜びであり宝であられる御子イエスを下さっている父なる神を覚え、感謝し、その神を喜び、楽しむのです。
世の中には、色々な喜び、楽しみがあります。中には、不潔なものや人間をますます堕落させる罪深いものもあります。けれども、私たちクリスチャンは、何が神から来た良いものかどうかを判別出来る信仰と理性を賜っているのです。ですから、それを眠らせず、良いものを選び取り、歳を重ねれば重ねるほど、神を喜び楽しむという、永遠に連なるこの最高の特権を活かしたいと思います。
最後に一言。私たちは神を喜ぶ時にこそ、実は神の栄光を現すことが出来るのであり、神の栄光のために生きようとする時にこそ、神を喜び楽しむという最高の幸せに与れるのです。
神の栄光を現し、神を喜ぶ!この最も幸いで根源的なことを覚え、今日からまた改めてご一緒に歩みたいと思います。