2022年09月01日「十戒の学び16 第三戒4」

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十戒の学び16 第三戒4

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
出エジプト記 20章7節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にするものを罰せずにはおかない。出エジプト記 20章7節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も十戒の第三戒を学びます。第三戒は、直接には神の御名を私たちが口にする時の戒めですが、本当は、神がご自分を現される様々なものへの私たちのあり方に関する戒めです。

 これまで私たちは、神の御名、御言葉、礼拝、教会、自然界、私たちクリスチャン自身に関することを見て来ました。他にはどういうことがあるでしょうか。今日は、ウェストミンスター大教理問答の問112も触れています聖礼典を、まず取り上げます。

 洗礼も聖餐の礼典も、神がご自分を親しく私たちに現し示される非常に大切な恵みの手段です。それだけに、神はきよさと真実をお求めになり、私たちは決してこれらに不敬虔に与ってはなりません。

 まず、洗礼を考えます。自分が分別年齢に達して、洗礼(あるいは信仰告白式)に臨む時、私たちは皆真剣です。不敬虔な心で神と教会の前に誓約や信仰告白をすることは、まずないでしょう。私は20歳で洗礼を受けましたが、「僕は今後、クリスチャンとしてしっかりやって行けるだろうか。僕の罪と不信仰のために、神様の御名を汚したら、どうしよう」と思い、「神様、どうか僕を助けて下さい」と必死に祈り、心から神を畏れ、神と教会の前に信仰を告白し誓約しました。洗礼式(あるいは信仰告白式)の時は、恐らく皆そうだと思います。

 では、聖餐式の時はどうでしょうか。Ⅰコリント11:28の御言葉、「誰でも自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」を心に留め、週報では1週間前からこのことを公告しています。しかし、現実の私たちはどうでしょうか。主が最も親しくご自分を現し、救いの恵みを私たち信仰者の内に、繰り返し確かにしようとして下さっている聖餐式の、例えば前日の土曜日、私たちはどれだけこのことを考えて過ごしているでしょうか。

 先程のⅠコリント11:28の前後にある27節と29節は、こう言います。「もし相応しくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主の体と血に対して罪を犯すことになります。…御体(みからだ)をわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対する裁きを食べ、また飲むことになるのです。」

 ここを読みますと、本当に恐れを覚えないではおられません。ですから、私たちは断じてパンと杯に不敬虔に与ってはならないのです。そうでないと、私たちは自分に裁きを招くことになります。

 しかしこれは、言い換えますと、神は聖餐の礼典により、私たちの実感がどうであれ、ご自身の救いの恵みと祝福に私たちを確かに与らせようとして、驚くほど真剣で熱心であられるということなのです。何という神の恵み、神の愛でしょうか!

 このことを深く心に留め、私たちがいつか御国(みくに)で、愛する主との最高の食卓に与る時まで、ますます熱心に、また感謝と期待と準備をもって、聖餐の礼典に与り続けたいと思います。

 もう一点見ておきます。前回も少し触れましたが、それは私たちクリスチャンの普段のあり方、特に人に接し、また人に対して現す私たちの言葉、態度、振舞、生活内容についてです。神の御名に関して、ウェストミンスター大教理問答の問112(宮崎彌男訳)は、「…語る言葉、書く言葉において、きよい告白とそれに相応しい生活とにより、神の栄光並びに私たち自身や他の人々の益のために、きよく敬虔に用いなければならない」と教えます。

 前回も確認しましたが、クリスチャンは皆自分が意識する、しないに関らず、主の御名を帯び、主の御名を背負っている者です。ですから、神について、自分の口から発する言葉でも何かに書く言葉でも、態度や行動でも、神の栄光並びに私たち自身や他の人々の益のために、いつ、どこであっても、自分がきよく敬虔であることに、是非、自覚的に努めたいと思うのです。

 また問113は、第三戒で禁じられている罪として、「偽善により、あるいは他人に見せびらかすような悪い目的のために信仰を告白すること、信仰と相容れない、愚かで、実りのない、無作法な生き方や信仰からの脱落によって、御名を恥じたり、御名を辱めたりすること」を上げます。

 実際、私たちの愚かで無作法な言葉や態度、行動により、私たちは主の御名を辱め、汚すことになるのです。何と神に申し訳なく、何と罪深いことでしょう。

 このことをよくわきまえ、クリスチャンとは言え、私たちは皆、まだまだ罪の性質を宿す信仰の薄い者なのですから、主の御前に絶えず平伏し、罪の赦しを繰返し心から願う、本当に謙虚な者でありたいと思います。主イエスが山上の説教の冒頭で何よりもまず、マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです」と語られ、主の祈りの中で、マタイ6:12「私たちの負い目(=罪)をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と繰返し祈るように教えられたことは、第三戒に私たちが生きる上で、何と大切かと改めて思わされます。

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