聖書の言葉 20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にするものを罰せずにはおかない。出エジプト記 20章7節 メッセージ 十戒の第三戒を続けて学びます。 繰り返しますが、第三戒は直接には私たちが「主」(ヘブル語 ヤーウェ)という神の御名を口にする時の注意ですが、本当は更に広く、神がご自分を示し現される様々なものを、私たちが畏れと真実とをもって扱うことを求めています。 今まで2回にわたり、それらの代表である神の御名を私たちが口にする時に、また御言葉、神礼拝、教会に対して、真摯な態度を持つべきことを学びました。 これら以外には何があるでしょうか。今日はまず、神が造られ、摂理の御手をもって保持し統治しておられる自然界について見たいと思います。 前回も引用しましたが、詩篇19:1は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」と言い、ローマ1:20は「神の、目に見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から被造物を通して知られ、はっきりと認められる」と言います。つまり、神の作品である天と地、海などの自然界も、作者であり摂理の主であられる神を示しているのです。 そこには陸上を生き、空を飛び、水中に住む動物、また草花や人間の食物となる植物、大事な酸素を供給する森林など、様々な動植物の営みがあります。それらは皆神の御業であり、神を示しています。ですから、ヨブ記36:24は「神の御業を覚えて賛美せよ」と言います。 そこで大切なことは、神がご自分を示しておられる被造世界を、私たちは、例えば、生態系が崩れるまで好き勝手に破壊したり汚してはならず、よりよく管理すべき、ということです。無論、今の状態まで進んだ科学文明による自然破壊を、個々人の力で食い止め、良い状態に回復させることは、至難の業であり、不可能とさえ思えます。 しかし、本来は神が栄光を現しておられる被造物が、人間の罪のために呻いていることを私たちは忘れてはなりません。ローマ8:19~22は言います。「被造物は切実な思いで、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に与ります。私たちは知っています。被造物の全ては、今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみをしています。」 このことをよく覚え、私たちは、神のご存在や知恵、力、真実、美しさなどを証ししている自然界を破壊したり汚すことを恐れ、身近な小さなことからでも自然界の回復に努めるべきでしょう。神がご自分を現しておられる自然界に大きく目を開き、神への感謝と畏れをもって接し、管理する者でありたいと思います。 もう一点見ます。それは私たち人間自身への態度、姿勢についてです。神は私たち人間を通しても、ご自身を現しておられるからです。 創世記1:26、27が言いますように、人間は「神の形」に従って特別に造られました。ウェストミンスター小教理問答の問10は言います。「神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちに従って創造し、被造物の支配を託されました。」 神が造られた被造物のどれによっても、神はご自分を示しておられますが、そのどれよりも私たち人間を通して、神は見事にご自分を現しておられます。何という光栄でしょうか。 ところが、人類は始祖アダムとエバにより神に背き、堕落したため、神の形は大きく損なわれてしまいました。ここに人間の悲惨の根本原因があります。 とはいえ、神の形が全く失われたのではありません。また特に御子イエスへの信仰を通して、聖霊は私たちの内に神の形を回復なさいます。それにより神は、私たちをご自分の御名のようにお用いになり、ご自分を豊かに現されるのです。実際、黙示録14:1、22:4が言うように、信仰者の額には、神の御名、また子羊の御名が記されているのです!何と畏れ多い、いいえ、何と光栄なことでしょうか!私たちは今やそのような者にされているのです! ですから、私たちは、自分の体と心と魂を決して粗末にせず、汚さず、私たちを通して現される神の栄光を、罪と不信仰により曇らせてはなりません。むしろ、ピリピ2:12が言いますように、私たちは「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努め」、喜んで福音に生き、御霊と御言葉によって清くされ、体も大切にし、清く保ち、私たちの内に神の形がますます回復され、主イエスの御姿が形作られて行きたいと願います。 また当然のことですが、まだ信仰を持っておられない方々を尊び、彼らによく仕えたいと思います。神は彼らを通してもご自分を現されることがよくあるのです。 第三戒が持っているメッセージの豊かさに改めて驚きます。第三戒に生きる信仰と喜びと力とを、是非、神に、主イエスに、祈り求めたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の第三戒を続けて学びます。
繰り返しますが、第三戒は直接には私たちが「主」(ヘブル語 ヤーウェ)という神の御名を口にする時の注意ですが、本当は更に広く、神がご自分を示し現される様々なものを、私たちが畏れと真実とをもって扱うことを求めています。
今まで2回にわたり、それらの代表である神の御名を私たちが口にする時に、また御言葉、神礼拝、教会に対して、真摯な態度を持つべきことを学びました。
これら以外には何があるでしょうか。今日はまず、神が造られ、摂理の御手をもって保持し統治しておられる自然界について見たいと思います。
前回も引用しましたが、詩篇19:1は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」と言い、ローマ1:20は「神の、目に見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から被造物を通して知られ、はっきりと認められる」と言います。つまり、神の作品である天と地、海などの自然界も、作者であり摂理の主であられる神を示しているのです。
そこには陸上を生き、空を飛び、水中に住む動物、また草花や人間の食物となる植物、大事な酸素を供給する森林など、様々な動植物の営みがあります。それらは皆神の御業であり、神を示しています。ですから、ヨブ記36:24は「神の御業を覚えて賛美せよ」と言います。
そこで大切なことは、神がご自分を示しておられる被造世界を、私たちは、例えば、生態系が崩れるまで好き勝手に破壊したり汚してはならず、よりよく管理すべき、ということです。無論、今の状態まで進んだ科学文明による自然破壊を、個々人の力で食い止め、良い状態に回復させることは、至難の業であり、不可能とさえ思えます。
しかし、本来は神が栄光を現しておられる被造物が、人間の罪のために呻いていることを私たちは忘れてはなりません。ローマ8:19~22は言います。「被造物は切実な思いで、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に与ります。私たちは知っています。被造物の全ては、今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみをしています。」
このことをよく覚え、私たちは、神のご存在や知恵、力、真実、美しさなどを証ししている自然界を破壊したり汚すことを恐れ、身近な小さなことからでも自然界の回復に努めるべきでしょう。神がご自分を現しておられる自然界に大きく目を開き、神への感謝と畏れをもって接し、管理する者でありたいと思います。
もう一点見ます。それは私たち人間自身への態度、姿勢についてです。神は私たち人間を通しても、ご自身を現しておられるからです。
創世記1:26、27が言いますように、人間は「神の形」に従って特別に造られました。ウェストミンスター小教理問答の問10は言います。「神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちに従って創造し、被造物の支配を託されました。」
神が造られた被造物のどれによっても、神はご自分を示しておられますが、そのどれよりも私たち人間を通して、神は見事にご自分を現しておられます。何という光栄でしょうか。
ところが、人類は始祖アダムとエバにより神に背き、堕落したため、神の形は大きく損なわれてしまいました。ここに人間の悲惨の根本原因があります。
とはいえ、神の形が全く失われたのではありません。また特に御子イエスへの信仰を通して、聖霊は私たちの内に神の形を回復なさいます。それにより神は、私たちをご自分の御名のようにお用いになり、ご自分を豊かに現されるのです。実際、黙示録14:1、22:4が言うように、信仰者の額には、神の御名、また子羊の御名が記されているのです!何と畏れ多い、いいえ、何と光栄なことでしょうか!私たちは今やそのような者にされているのです!
ですから、私たちは、自分の体と心と魂を決して粗末にせず、汚さず、私たちを通して現される神の栄光を、罪と不信仰により曇らせてはなりません。むしろ、ピリピ2:12が言いますように、私たちは「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努め」、喜んで福音に生き、御霊と御言葉によって清くされ、体も大切にし、清く保ち、私たちの内に神の形がますます回復され、主イエスの御姿が形作られて行きたいと願います。
また当然のことですが、まだ信仰を持っておられない方々を尊び、彼らによく仕えたいと思います。神は彼らを通してもご自分を現されることがよくあるのです。
第三戒が持っているメッセージの豊かさに改めて驚きます。第三戒に生きる信仰と喜びと力とを、是非、神に、主イエスに、祈り求めたいと思います。