聖書の言葉 20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にするものを罰せずにはおかない。出エジプト記 20章7節 メッセージ 十戒の第三戒を続けて学びます。 前回も申しました通り、第三戒は、直接には私たちが神の御名を口にする時の注意ですが、それだけでなく、神がご自分を私たちに現し示される様々なものを、私たちが畏れと真実とをもって扱うことを求めています。前回は、その代表と言える主という神の御名を私たちが口にする時の注意を学びました。 では、神がご自分を現されるものとして、他に何があるでしょうか。ウェストミンスター小教理問答を見てみます。 問54「第三戒では、何が求められていますか。」答「第三戒が求めていることは、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。」 問55「第三戒では、何が禁じられていますか。」答「第三戒が禁じていることは、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用する全てのことです。」 問56「第三戒に加えられている理由は、何ですか。」答「第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。」 ここからも分りますように、神がご自分を現されるものとして、御言葉・聖書があります。Ⅱテモテ3:16が言う通り、「聖書は全て神の霊感によるもの」であり、神とその御心を示しています。 詩篇19:1が「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」と言う通り、神の作品である自然界も、作者である神を示しています。これが自然啓示、一般啓示と言われるものです。しかし罪のため、人間の認識能力は損なわれ、これだけでは不十分となりましたので、神は、御言葉、聖書という特別啓示を下さいました。聖書により、私たちは神について必要なことは十分に知ることができます。 聖書について外にも少し確認しておきます。聖書は、罪の赦しと永遠の命を私たちに与えるとても大切な救いの書です。Ⅱテモテ3:15は言います。「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来ます。」 聖書はまた神の愛を私たちに示す感謝に満ちた手紙でもあります。私たちは生れながらの罪人ですのに、神は御子を救い主としてお与え下さいました。神が私たちを本当に愛しておられるからです。ヨハネ3:16「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」 聖書は私たちに人生の目的も教えます。神と人を愛し、食べるにも飲むにも全て神の栄光を現すこと(Ⅰコリント10:31)にあります。その意味で聖書は、私たちが神の御心に生きるための光です。「あなたの御言葉は、私の足の灯、私の道の光です。」(詩篇119:105) そこで大切なことは、聖書と御言葉への態度です。断じて不遜な態度であってはなりません。また勝手な解釈をせず、正しい理解を常に心がけ、御言葉の全体的理解が重要です。特に御言葉に何かを勝手に加えたり、何かを削ってはなりません。神は言われます。申命記4:2「私があなた方に命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。」 御言葉を、私たちは畏れをもって受け留めるべきことを改めて教えられます。 ウェストミンスター小教理問答は「規定」にも言及しています。これは特に神礼拝と教会に関する規定でしょう。確かに神礼拝と教会によっても、神はご自分を現し示しておられます。ですから、私たちは礼拝と教会を決してないがしろにしてはならず、主への畏れと真実をもって尊びたいと思うのです。 最後に、神がご自分を示し現されるものを、私たちが畏れと真実とをもって尊ぶことの意義を見ておきます。実はそれは、私たち自身の人格を清め、神の子供として私たちを完成に向わせる神の素晴らしい恵みなのです。 世の中には、先程見てきたものに、不敬虔な態度で臨んだり接する人もいます。しかし、それはその人自身を低め、自分を裁きへ追いやることになります。 けれども、私たちが神の御名や聖書、礼拝、教会などを真に尊ぶ時、それは必ず私たち自身を清めます。人間は自分が尊ぶものに、逆に育てられるのです。 私たちは、主イエス・キリストに結びついて生きようとしても、つい離れてしまうこともある誠に弱い者です。しかし、それでも神がご自身を示し現されるものに心から敬虔な思いで臨むことは幸いです。慈しみに満ちた主は、弱い私たちを憐れみ、祝福し、御国に相応しい者へと清めて下さるのです。 今は世俗化の波が何もかもを襲っている時代です。しかし、だからこそ私たちは、第三戒が求める通り、特に神がご自分を示し現されるものを、一層敬虔にまた真実をもって受け留め、十分に用いさせて頂きたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の第三戒を続けて学びます。
前回も申しました通り、第三戒は、直接には私たちが神の御名を口にする時の注意ですが、それだけでなく、神がご自分を私たちに現し示される様々なものを、私たちが畏れと真実とをもって扱うことを求めています。前回は、その代表と言える主という神の御名を私たちが口にする時の注意を学びました。
では、神がご自分を現されるものとして、他に何があるでしょうか。ウェストミンスター小教理問答を見てみます。
問54「第三戒では、何が求められていますか。」答「第三戒が求めていることは、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。」
問55「第三戒では、何が禁じられていますか。」答「第三戒が禁じていることは、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用する全てのことです。」
問56「第三戒に加えられている理由は、何ですか。」答「第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。」
ここからも分りますように、神がご自分を現されるものとして、御言葉・聖書があります。Ⅱテモテ3:16が言う通り、「聖書は全て神の霊感によるもの」であり、神とその御心を示しています。
詩篇19:1が「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」と言う通り、神の作品である自然界も、作者である神を示しています。これが自然啓示、一般啓示と言われるものです。しかし罪のため、人間の認識能力は損なわれ、これだけでは不十分となりましたので、神は、御言葉、聖書という特別啓示を下さいました。聖書により、私たちは神について必要なことは十分に知ることができます。
聖書について外にも少し確認しておきます。聖書は、罪の赦しと永遠の命を私たちに与えるとても大切な救いの書です。Ⅱテモテ3:15は言います。「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来ます。」
聖書はまた神の愛を私たちに示す感謝に満ちた手紙でもあります。私たちは生れながらの罪人ですのに、神は御子を救い主としてお与え下さいました。神が私たちを本当に愛しておられるからです。ヨハネ3:16「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
聖書は私たちに人生の目的も教えます。神と人を愛し、食べるにも飲むにも全て神の栄光を現すこと(Ⅰコリント10:31)にあります。その意味で聖書は、私たちが神の御心に生きるための光です。「あなたの御言葉は、私の足の灯、私の道の光です。」(詩篇119:105)
そこで大切なことは、聖書と御言葉への態度です。断じて不遜な態度であってはなりません。また勝手な解釈をせず、正しい理解を常に心がけ、御言葉の全体的理解が重要です。特に御言葉に何かを勝手に加えたり、何かを削ってはなりません。神は言われます。申命記4:2「私があなた方に命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。」
御言葉を、私たちは畏れをもって受け留めるべきことを改めて教えられます。
ウェストミンスター小教理問答は「規定」にも言及しています。これは特に神礼拝と教会に関する規定でしょう。確かに神礼拝と教会によっても、神はご自分を現し示しておられます。ですから、私たちは礼拝と教会を決してないがしろにしてはならず、主への畏れと真実をもって尊びたいと思うのです。
最後に、神がご自分を示し現されるものを、私たちが畏れと真実とをもって尊ぶことの意義を見ておきます。実はそれは、私たち自身の人格を清め、神の子供として私たちを完成に向わせる神の素晴らしい恵みなのです。
世の中には、先程見てきたものに、不敬虔な態度で臨んだり接する人もいます。しかし、それはその人自身を低め、自分を裁きへ追いやることになります。
けれども、私たちが神の御名や聖書、礼拝、教会などを真に尊ぶ時、それは必ず私たち自身を清めます。人間は自分が尊ぶものに、逆に育てられるのです。
私たちは、主イエス・キリストに結びついて生きようとしても、つい離れてしまうこともある誠に弱い者です。しかし、それでも神がご自身を示し現されるものに心から敬虔な思いで臨むことは幸いです。慈しみに満ちた主は、弱い私たちを憐れみ、祝福し、御国に相応しい者へと清めて下さるのです。
今は世俗化の波が何もかもを襲っている時代です。しかし、だからこそ私たちは、第三戒が求める通り、特に神がご自分を示し現されるものを、一層敬虔にまた真実をもって受け留め、十分に用いさせて頂きたいと思います。