2022年08月07日「父なる神を信ず(使徒信条の学び 3)」

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父なる神を信ず(使徒信条の学び 3)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章12節~17節

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8:12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬことになります。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなた方は生きます。
8:14 神の御霊に導かれる人は皆、神の子供です。
8:15 あなた方は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
8:16 御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子供であることを証しして下さいます。
8:17 子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているのですから、神の相続人であり、キリストと共に共同相続人なのです。ローマの信徒への手紙 8章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教会が歴史を通じて告白してきましたキリスト教信仰のエッセンスとも言える使徒信条の内容の学びに、今日から入ります。

 使徒信条は、元のラテン語では「我は信ず、父なる神を、全能の、…」という順番になっています。この順番にも、聖書に従って信仰を告白した信仰の先輩たちの信仰が伺えるでしょう。とにかく、今朝は「父なる神を信じる」ということについて学びます。

 江戸時代の末期から多くの宣教師が来日し、苦労して日本語を習得し、キリスト教を伝えました。ついに洗礼を受ける人たちが現れ、1872年(明治5年)、日本で最初のプロテスタント教会、横浜公会が誕生しました。実は、最初に洗礼を受けた人たちに大きな影響を与えたことの一つは、「父なる神」という点でした。「万物を造られた真(まこと)の神が私たちの父だ!」と、嬉しそうに祈る宣教師たちの姿に心を打たれたといいます。「神とは畏れ多くて、近づき難きお方」という意識の日本人には、これは衝撃的であり、「父なる神様」と親しく祈る宣教師たちの姿は、それだけで大きな証しでした。

 私も20歳で教会へ行き始めた頃、同世代のクリスチャンが親しそうに「父なる神様」と祈る姿を見て、「そう思えるのかなぁ」とやや距離を感じましたが、少し羨ましくもありました。 

 インドネシアで宣教師をされ、2001年に天に召されました入船尊牧師は、インドネシアでクリスチャンは時々羨ましがられる、とおっしゃっていました。イスラム教徒が大部分のそこでは、アラーは大変恐れ多い神です。ところが、クリスチャンは「天のお父様」と親しく祈るからです。神をそう呼べるとは、何と感謝なことでしょうか。

 事実、第一に、クリスチャンは何ら神を卑屈に恐れる必要がありません。

 先程お読みしましたローマ8:14~16は言います。「神の御霊(みたま)に導かれる人は皆、神の子供です。あなた方は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と呼びます。御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子供であることを証しして下さいます。」この通り、御子イエスを心から信じる者は、今や奴隷のような恐怖心を神に抱く必要はなく、「アバ、父」と親しく神に呼び掛け、大胆に近づけるのです。「アバ」とは、昔のユダヤの日常語・アラム語で、幼子が父親を呼ぶ時の幼児語でした。

 旧約聖書にも神を父と呼ぶ例はあります。例えば、詩篇89:26は「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩」と神に呼びかけています。しかし、神を「お父さん」とまで親しく呼ぶ例はありません。これは神の独り子、イエス・キリストが最初です。十字架の前夜、ゲツセマネの園でイエスは「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります」(マルコ14:36)と祈られました。激しい苦悶の中でもイエスがそう祈られたことは、弟子たちの心に深く刻まれました。やがて初代教会に聖霊が降られ(くだられ)、弟子たちは、御子イエスのお蔭で神を心から「アバ、父」と呼べる身分と特権を確かに自分たちが頂いていることを知り、この呼び方は教会の中で定着して行きました。

 クリスチャンは、誰よりも何よりも、神を恐れます。しかし、それは奴隷のような恐れではありません。神への畏敬の念です。また子供が、叱られても最後には優しく抱きしめてくれる父親に抱きつくように、クリスチャンは、イエスの十字架による罪の赦しと神の愛の故に、どんな時も「天のお父様」と言って大胆に神の懐に飛び込んで行けます!神は、今や御子イエスを心から信じ依り頼む者を、本当にご自分の子供として下さっています!何という幸せでしょうか!

 第二に、クリスチャンはどんなに不安な時も、一切を神に委ね、信頼して乗り越えさせて頂けます。これも何と感謝なことでしょう。

 

 子供には大抵何か怖いものがありますね。よく吠える犬は、子供には怖いです。しかし、そばでお父さんが手をギュッと握って一緒にいてくれるなら、安心です。

 もう70年も前のことで、私が4、5歳の時、近所に広い応接間のある立派なお屋敷があり、そこに友だちがいて、時々遊びに行きました。ところが、その家の屋根には怖い顔で下を睨んでいる大きな鬼瓦があり、その下を独りで通るのが、私には怖いのでした。しかし、兄が一緒の時は怖くありませんでした。神の子とされたクリスチャンにも、こういうことがあると思います。

 この世で、私たちはしばしば大きな恐れを覚えることに遭遇します。その最たるものは死でしょう。私たちはいつか死ぬことは分っています。しかし、実際に死に直面しますと、どんなに不安や恐怖を抱くことでしょうか。私は、かつて務めた淀川キリスト教病院でも、そういう患者さんたちを見、お世話をさせて頂いたものです。

 十字架の前夜、ゲツセマネの園で、イエスは汗が血の滴りのように落ちる位、悲しみ、もだえて、祈られました。しかし、やがてイエスは「アバ、父よ」と祈り(マルコ14:36)、天の父に一切を委ね、敢然と十字架に向かわれました。ヘブル5:7は言います。「キリストは、肉体をもって生きていた間、自分を死から救い出すことができる方に向って、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを献げ、その敬虔の故に聞き入れられました。」こうして主イエスは、天の父がご自分と共におられることを覚え、私たち罪人のために十字架で命を献げて下さったのでした。

 そのイエス・キリストへの信仰により私たちが神の子とされているということは、どんな時にも、神は私たちをご自分の子として愛し、決して独りぼっちにはされないということです。パウロはこのことを知り、経験もしていましたので、ローマ8:38、39でこう語ります。「私はこう確信しています。死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」旧約聖書の詩篇23:4も言います。「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから。」

 神が私たちの父であられるとは、こういうことなのです。何と感謝なことでしょう。

第三に、これは神が最後には必ず全てのことを信仰者の益となるようにして下さることも意味します。

 私たちは、この世でとても辛く悲しいことに遭遇することがあります。「一体、どうしてなのだ!」と私たちは戸惑い、落胆します。そして神を疑うこともあるかも知れません。しかし、ここでこそ、神が御子イエスの故に私たちの父でいて下さることを思い起したいと思うのです。

 人間の親も子供に厳しく臨み、子供の思い通りにさせない時があります。でも、それは、意地悪からではなく、子供を思ってのことです。親は子供より人生をよく知り、何が善いかも知っています。何より子供を愛しています。ですから、そうします。子供を鍛えます。

 もっとも、人間の親には限界があり、間違いもあります。けれども、天の父は完全です。人間の親はその時の気分ですることもあります。しかし、神にはそういうことはあり得ません。神は全く聖い(きよい)善なるお方だからです。何より真(まこと)の父として、私たちをとことん愛し、何が私たちにとって最終的に一番良いかをご存じです。ヘブル12:10、11は言います。「肉の父は僅かの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さ(きよさ)に与らせようとして訓練されるのです。全ての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、却って苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 パウロはローマ8:18で「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」と言います。彼も迫害と苦難の中にいました。しかし、神が父であられるが故に、決して希望を失わず、忍耐し、彼自身何度も味っていた神の恵みをこう述べました。ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています。」

 神は、御子イエスを通して、本当に信仰者の父となられました。ですから、苦しくて呻きや溜息しか出ない状況でも、信仰者のために神は最後には必ず万事を益として下さいます。ここに忍耐する意味があります。

 以上の三点だけでも、使徒信条が、まず神が私たちの父であられることを告白し、世々のクリスチャンが「天のお父様」と親しく呼び掛け、困難の中でも希望を失わず、周りの人にも驚かれ、時には羨ましがられて来た理由が分ると思います。ですから、私たちも一日を始める度に、「今日何があっても、神は私の父であられる。私はこのことを決して忘れてはならない」と自分に命じ、事実、天の父を仰ぎつつ主の道を踏みしめ、前に向って歩ませて頂きたいと思います。

 最後に、Ⅰヨハネ3:1をお読みして終ります。「私たちが神の子供と呼ばれるために、御父がどんなに素晴らしい愛を与えて下さったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子供です。」

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