2022年08月04日「十戒の学び12 第二戒4」
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十戒の学び12 第二戒4
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
出エジプト記 20章4節~6節
聖書の言葉
20:4 あなたは自分のために偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼすからである。出エジプト記 20章4節~6節
メッセージ
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今日は十戒の学びに戻ります。第二戒の4回目の学びとなります。
何度も言いますが、私たちは十戒を、教会の長い歴史の中で信仰の先輩たちが深く祈り、霊的に戦い、研究し、解説したことを土台にして学んでいます。今日は第二戒の後半部分に注目致します。20:5C~6「あなたの神、主である私は、妬みの神。私を憎む者には父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼすからである。」
ここは戒めそのものではなく、戒めの重要性を強調する理由を語っています。ハイデルベルク信仰問答(1563年)はこの部分に触れていませんが、ジュネーヴ教会信仰問答(1545年)や1647年頃に作られたウェストミンスター大教理問答や同小教理問答は触れています。十戒の中では、安息日に関する第四戒が長いですが、礼拝に関する第二戒も、この部分があるために長くなっています。神がそれだけ力を込めておられるわけです。
では、礼拝について教える第二戒を神が強調されるのは、どういう理由ででしょうか。ウェストミンスター大教理問答はとても長いですので、今日は小教理問答を見ます。問52は言います。「第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられること、神が私たちの所有者であられること、神が御自身への礼拝に熱心をもっておられることです。」
理由を三つ上げます。第一は「神が私たちに君臨する主権者」だからです。
「神が私たちに君臨する主権者」という言い方に、少し違和感を抱く人もいるかも知れません。しかし、何故、人間は神の御心に適わない礼拝を行いやすいのかという根本的な理由を考えますと、小教理問答の言う意味が分ると思います。つまりそれは、人間が本当の意味で神の主権を心に覚えず、むしろ自分の抱く神概念を無意識にも優先して礼拝しようとするからです。そこでは、私たちが持つ神意識、神概念の方が支配的で、神御自身が私たちに求めておられる礼拝のあり方は、事実上、忘れられています。
これは何と不信仰で傲慢なことでしょうか。確かに御子イエスはご自分を低くして私たちの所へ来て下さいました。しかし、だからといって私たちは、神が私たちの主権者であられることを忘れ、礼拝の中で神に対し断じて不遜であったり馴れ馴れしい者であってはなりません。私たちに君臨される主権者として、私たちは礼拝中、神を本当に畏れているかどうか、改めて自分を深く省み、心したいと思うのです。
第二に「神が私たちの所有者であられる」という点も改めて深く覚えたいと思います。
主イエスの十字架の血によって贖われた私たちクリスチャンは、今や罪と死とサタンの支配から神の所有に移されています。今や私たちは、自分自身のものでさえありません。父・子・聖霊なる三位一体の神の所有なのです。
私たちが神の御心に適わない礼拝をする要因を考えますと、神が御子の血潮によって私たちを買い取られ、ご自分の永遠の所有とされた事実を、つい忘れることにもあるのではないでしょうか。そうすると私たちは、古い肉のままの自分が前面に出て、神が良しとされる礼拝の精神やあり方から逸脱しやすくなり、そのことは私たちの日常生活にも必ず影響を与えます。ですから、これはとても怖いことなのです。そういう問題点も知っていたモーセは、そこでイスラエルの民のためにシナイ山で主にこう祈りました。出エジプト記34:9「確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有として下さいますように。」クリスチャンは、自分が今や神の所有とされている事実を、改めて肝に銘じたいと思います。
三つ目は「神が御自身への礼拝に熱心をもっておられる」ことです。第二戒の後半で「あなたの神、主である私は、妬みの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」と言われ、大変厳しく感じますね。しかしすぐ「私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼす」と言われ、恵みの方が遥かに豊かなのです。
また御自分を「妬みの神」とまで言って、神が御自身への礼拝に非常な熱心をもっておられる理由は、結局、私たちを心底愛しておられるからなのです。
そもそも礼拝とは何でしょうか。根本的には、御子を賜った程に私たちを愛して下さっている万物の創り主、無限・永遠・不変の神が、土くれに等しい私たちを何とご自分のパートナーとして親しくお交わり下さることです。神はそれを大いに喜ばれ、楽しみにしておられる!何という神の愛でしょうか!何という私たちの光栄また幸せでしょうか!神が礼拝に熱心であられるとは、こういうことなのです。
私たちは、改めて第二戒に真剣に向き合い、礼拝を初めから終りまで聖別し、神の御声を聞くことにも神賛美にもしっかり与る。そうして、神との交わりを全身全霊をもって喜び、恵みに豊かに与りたいと思います。主が、どうか、私たちを顧みて下さいますように!