2019年09月25日「主の祈りの学び 3 呼びかけ「天の父なる神に祈る」」
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主の祈りの学び 3 呼びかけ「天の父なる神に祈る」
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節
聖書の言葉
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
(新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節
メッセージ
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天地の造り主なる神が、罪の赦しと永遠の命を中心とする様々な恵みを私たちに下さる大切な手段の一つは祈りです。そこで主イエスがお教え下さった祈りの模範である「主の祈り」を見ることで、私たちは祈りの基本を学んでいます。
前々回は、何に向って祈るか、すなわち、祈りの対象は、天地の造り主なる真の神以外にないことを確認し、次いで、イエスが冒頭でお教えになる呼びかけの言葉、「天にいます私たちの父よ」から、特に神を「父」と呼べることの意義を学びました。天地の創り主にして世界と歴史を摂理をもって統治される神に、親しく「父」「お父様」と呼びかけることのできる幸いを教えられました。
また前回は、「私たちの」父よ、と呼びかける点を学びました。教会の兄弟姉妹たちのことは勿論、とにかく、他の人たちと共に、また他の人たちへの関心や配慮を伴った愛の祈りであることを教えられました。
今日は三つ目の点として、「天にいます」という点に注目したいと思います。「天にいます!」これにどんな意味があるでしょうか。
教会の歴史の中で、信仰の先輩たちは、この点について、祈りと御言葉の学びと実践を通して御霊に示され、気づいていました。例えば、1563年に作られたハイデルベルク信仰問答は、問121で「なぜ『天にまします』と付け加えられているのですか」と尋ね、答「何か地上のことを思うことなく、その全能のご性質に対しては、体と魂に必要なこと全てを期待するためです」と答え、1647年に作られたウェストミンスター小教理問答は問100で、「主の祈りの序言が私たちに教えていることは、私たちを助ける力と志を持っておられる神に、全くきよい崇敬と確信とをもって、父に対する子のように近付くこと、また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです」と答えています。
サーッと読んだだけでは分りにくいですが、要するに一つの点は、神へのきよい崇敬の思いをもって神を仰ぎ、祈ることです。
ご承知のように、聖書では「天」は、物理的な天を指すだけでなく、被造世界と区別され、それを超えた神の聖なる霊的領域をも指します。ここではその意味です。
神を「父」とお呼びして良いことを話した時に触れましたが、子供が「お父さん」と全幅の信頼をもって父親に呼びかけるように、私たちも救い主イエス・キリストを通して、本当に親しく「お父様」と神に呼びかけることを許されています。しかし、それは神の聖さを全くわきまえないような俗っぽい親しさではなく、神へのハッキリとした節度とわきまえをもった親しさです。「天にいます」と唱える時、是非、こういう神への崇敬や尊崇の思いをしっかり自覚して唱えたいと思います。
もう一点あります。それは神への絶対的信頼という点です。繰り返します。ここの「天」は物理的、空間的天ではありません。被造世界を超えた全知全能の、しかも御子を十字架につけられた程に私たちを愛しておられるその神の麗しい偉大な霊的領域を指します。
地上の肉の父親には必ず欠点があります。優しいけれども、意志が弱く洞察力にも欠けるとか、逆に強い意志も実行力もあるけれども、強引で人の弱さや悲しみに気付かず、思いやりに欠けるとか、またすぐ感情的になる父親もいます。乱暴で身勝手な父親像しか持てない人もありますし、何か事が起ると、いつもすぐ逃げるという信頼できない無責任な父親像しか抱けない人もあるかも知れません。宗教改革者ルターの場合は、厳格な怖い父親像しか持てなかったそうです。
とにかく、どんな家庭に育った人にも、大なり小なりそういうことがあります。地上の父親に私たちは大いに感謝すべきですが、彼らに完全を期待することは、罪の故に元より無理です。
となると、「父なる神」といっても、良いイメージを抱いて神に祈るのは難しくなりますね。しかし、だからこそ、イエスは単に「父よ」ではなく、「『天にいます』私たちの父よ」と祈るように教え、励まされるのです。「天におられる」私たちの父は、知恵、力、聖、義、愛、真実において完全なお方です。このような完全な神を「父」として、私たちはイエス・キリストの執り成しを通して、全く信頼し切って祈って良いのです。ハイデルベルク信仰問答の言うように「その全能のご性質」を覚えて「体と魂に必要なこと全てを期待」し、ウェストミンスター小教理問答の言うように「私たちを助ける力と志を持っておられる神に、全く清い崇敬と確信とをもって」祈るのです。祈ってかまいません。
「天にまします我らの父よ」と唱える時、神への崇敬の思いと共に、是非、大いなる期待と確信、また信頼をもって、心の底から天の父なる神に呼びかけたいと思います。