Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることは証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとpして、神の義に従わなかったのです。ローマの信徒への手紙 10章1節~3節 メッセージ 私たち一人一人と教会の今後を考え、先程、皆で唱えた使徒信条を今日から学びたいと思います。今朝は、使徒信条を学ぶ根本理由を確認します。どんな理由があるでしょうか。 第一に、これはキリスト教信仰の重要な基本項目を教えているからです。 キリスト教には、世界公同信条と呼ばれるものが四つあります。第一が使徒信条、第二がニカイア信条です。ニカイア信条は、今日のトルコ領内にある町、ニカイアで 325年に開かれた教会会議で作られました。その後、これは381年のコンスタンティノポリスでの会議で更に整えられましたので、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とも呼ばれます。 第三が 451年にカルケドン会議で採択されたカルケドン信条、第四がそれより少し前に作られたアタナシオス信条です。正統的な教会は、これら四つの基本信条を採っています。 以上に加え、世界の改革派・長老派教会は、宗教改革時代に作られた、より包括的で詳細なジュネーヴ教会信仰問答(1545年)やスコットランド信条(1560年)、ハイデルベルク信仰問答(1563年)、ドルト信条(1618年)、ウェストミンスター信条(1647~48年)などを採択し、信仰規準としています。 1933年、ヒトラーがドイツで政権を握り、キリスト教をドイツ民族化して自分の宣伝のために利用しようとしました。そのナチスに傾いたドイツの多くの教会の誤りに対し、聖書の真理と宗教改革の信仰に基づき、ドイツのバルメンで1934年に告白されたバルメン宣言をも信仰規準としている改革派・長老派教会が世界にはあります。 それらと比べますと、使徒信条は簡潔です。「使徒」信条と呼んでいますが、これは使徒たちが作ったのではなく、内容が使徒的ですので、こう呼ばれます。2、3世紀頃、ローマの教会で洗礼志願者教育に使われ、洗礼を受ける時に告白されたローマ信条と呼ばれるものを土台にし、今の形にまとまったのは5、6世紀で、西ヨーロッパの教会全体で使われるようになったのは 8世紀頃だそうです。 使徒信条は、内容は簡潔ですが、キリスト教信仰の基本項目を教え、洗礼を受けてクリスチャンとして生きる上で必要な最小限のものを備えています。主の祈りが「祈りの中の祈り」、十戒が「律法の中の律法」と言われますように、使徒信条は「信条の中の信条」と呼ばれます。 宗教改革者ルターは、使徒信条を「キリスト教の真理をこれ以上短くて明確な声明にすることは不可能だ」と言い、彼が作った信仰問答の中で熱く解説しています。カルヴァンは、有名な『キリスト教綱要』のⅠ・16・18で「我々の信仰の全歴史がこの内に簡潔に、判然とした順序で語られていて、聖書の堅実な証言が証しするもの以外は、一切含んでいない」と言い、ジュネーヴ教会信仰問答の第一部で使徒信条を熱心に説明しています。彼らは、真(まこと)のキリスト教信仰を回復し、教会を真理の柱、真理の土台として建て上げるための信仰教育に、使徒信条を用いました。使徒信条を学ぶ第一の理由は、これがキリスト教信仰の最も重要な基本項目を教えていることです。 しかし、同じように学ぶなら、もう少し詳しいものの方が良いのではないでしょうか。第二にこの点を見てみます。 確かに宗教改革時代に作られた信条は、使徒信条より内容が緻密で包括的です。先程、申しましたように、キリスト教信仰を強化し、教会を真理の柱、真理の土台として堅く建て上げるための信徒教育に、それらは向いています。 しかし、洗礼を受けていない方も含まれる礼拝の説教では、本格的な信条の学びは、内容の複雑さと分量からいっても不向きだと思います。 それに、使徒信条は、簡潔で素朴だからといってレベルが低いわけではありません。信仰は単に知識の多い少ないではなく、神の御言葉に対する私たちの全生活を上げての関り方に大きく依っています。 そもそも聖書の短い一つの御言葉に、どんなに深く豊かで崇高な真理が込められていることでしょうか。例えば、Ⅰヨハネ4:16に「神は愛です」とあります。これは信仰歴の短い者と、色々な事も体験してきた信仰歴の長い者とでは、その理解度もこの御言葉に覚える喜びの大きさや慰めの深さも随分違います。同じことが、内容的には最も簡潔で素朴な使徒信条についても言えます。 第三に、内容が聖書に基づく真理であるなら、如何に単純、素朴であっても、私たちは何度教えられ聞いても良いですし、そうすべきだからです。 新約聖書の4つの福音書を見ますと、主イエスが同じような教えを、色々な時と所でしておられることが分ります。主は最も優れた教育方法をご存じです。すなわち、主は繰り返しの大切さをよく知っておられます。ですから、何度も繰り返し教えることを煩わしいとはされませんでした。そしてそれは弟子たちの内にしっかり実を結んでします。パウロは言いました。ピリピ3:1「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことを幾つか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなた方の安全のためにもなります。」私たちが素朴な使徒信条を改めて学ぶ理由の一つもここにあります。これは私たちにとって煩わしいことではなく、安全なことなのです。 第四に、聖書であれ信条であれ、信仰を学ぶこと自体の大切さを確認して終ります。 信仰は、知識ではなく生活であり実践だ、という考え方があります。生活と実践の中で信仰は身に着くといいます。その通りだと思います。ヤコブ1:22が「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」と言う通りです。 けれども同時に聖書によれば、信仰は先程確かめましたように、繰り返し教えられる必要があります。パウロはどう語っているでしょうか。「信仰は聞くことから始ります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。」(ローマ10:17) 信仰は、一度与えられれば、あとは自動的に成長し、深められ、機能する、というものではありません。聖書で信仰に関して明白に否定されていることの一つは、自動的にとか機械的にという点です。信仰は生活において実践すると共に、繰り返し意識的に聞くべきものなのです。聞くとは、教えられ、学ぶことに他なりません。 何故そうすべきなのでしょうか。それは、聖霊が御言葉と共に私たちに働かれ、御言葉によって信仰を成長させ、キリストの贖いの恵みを一つ一つ具体的に私たちに適用し、実を結ばせて下さるからです。 従って、信仰は学ぶ必要があります。これをもう少し確認します。 まず消極面ですが、私たちが聖書の教えを忘れやすいという点もありますが、それ以上に私たちを誤りから守ってくれます。お読みしましたローマ10章の初めの箇所を、パウロは同胞のユダヤ人の大きな過ちに痛みを覚えつつ書いています。彼らはどこに問題があったのでしょうか。2、3節「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」 ユダヤ人が宗教的に熱心なのは万人の認める所です。それなら、どうして神の御子イエスを拒否し、十字架につけたのでしょうか。パウロが言いますように、彼らが正しい知識を持っていなかったからでした。 知識だけの信仰は、無論、良くありません。しかし、知識の欠けた信仰も怖いです。ここに学びの意義があります。ですから、パウロはエペソ4:13でキリストに対する信仰と知識を教えた後、その理由を14節でこう語ります。「こうして、私たちはもはや子供でなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、弄ばれたりすることがなく」と。学びは、私たちを間違った教えや過ちから固く守ります。 積極面も見ます。今申しましたエペソ4:13に「こうして、私たちはもはや子供ではなく」とありますように、学びは私たちをいよいよ主イエス・キリストに似る者へと成長させ、救いの完成へ導きます。 またエペソ4:15は、学びの積極的理由をこう語ります。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、頭であるキリストに向かって成長するのです。」 ここは大切な愛にも触れていますが、実は愛も、知識と識別力があって初めて真に豊かになり、尊い働きができるのです。パウロは言います。ピリピ1:9、10「私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が、大切な事を見分けることができますように。」 信条の学びも同じです。信条は神の言葉そのものではなく、教会がその時代の中で霊的戦いをし、祈りつつ告白したものです。しかし、聖書の教えに基づき、聖書の教えをまとめています。従って、使徒信条を学ぶのは、聖書の教えのいわばエッセンスにより信仰を学ぶのと同じなのですね。 過ちや信仰の挫折から守られ、信仰、希望、愛において成長させられ、神の国に入ることをいよいよ確かにされたいならば、御言葉の知識において成長させられることは不可欠です。ここに、教理や信条を学ぶ大きな意義があり祝福があります。 使徒信条の学びを、神がどうか豊かに祝福して下さいますように!皆で心から祈り、期待したいと思います。 関連する説教を探す 2022年の日曜朝の礼拝 『ローマの信徒への手紙』
私たち一人一人と教会の今後を考え、先程、皆で唱えた使徒信条を今日から学びたいと思います。今朝は、使徒信条を学ぶ根本理由を確認します。どんな理由があるでしょうか。
第一に、これはキリスト教信仰の重要な基本項目を教えているからです。
キリスト教には、世界公同信条と呼ばれるものが四つあります。第一が使徒信条、第二がニカイア信条です。ニカイア信条は、今日のトルコ領内にある町、ニカイアで 325年に開かれた教会会議で作られました。その後、これは381年のコンスタンティノポリスでの会議で更に整えられましたので、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とも呼ばれます。
第三が 451年にカルケドン会議で採択されたカルケドン信条、第四がそれより少し前に作られたアタナシオス信条です。正統的な教会は、これら四つの基本信条を採っています。
以上に加え、世界の改革派・長老派教会は、宗教改革時代に作られた、より包括的で詳細なジュネーヴ教会信仰問答(1545年)やスコットランド信条(1560年)、ハイデルベルク信仰問答(1563年)、ドルト信条(1618年)、ウェストミンスター信条(1647~48年)などを採択し、信仰規準としています。
1933年、ヒトラーがドイツで政権を握り、キリスト教をドイツ民族化して自分の宣伝のために利用しようとしました。そのナチスに傾いたドイツの多くの教会の誤りに対し、聖書の真理と宗教改革の信仰に基づき、ドイツのバルメンで1934年に告白されたバルメン宣言をも信仰規準としている改革派・長老派教会が世界にはあります。
それらと比べますと、使徒信条は簡潔です。「使徒」信条と呼んでいますが、これは使徒たちが作ったのではなく、内容が使徒的ですので、こう呼ばれます。2、3世紀頃、ローマの教会で洗礼志願者教育に使われ、洗礼を受ける時に告白されたローマ信条と呼ばれるものを土台にし、今の形にまとまったのは5、6世紀で、西ヨーロッパの教会全体で使われるようになったのは 8世紀頃だそうです。
使徒信条は、内容は簡潔ですが、キリスト教信仰の基本項目を教え、洗礼を受けてクリスチャンとして生きる上で必要な最小限のものを備えています。主の祈りが「祈りの中の祈り」、十戒が「律法の中の律法」と言われますように、使徒信条は「信条の中の信条」と呼ばれます。
宗教改革者ルターは、使徒信条を「キリスト教の真理をこれ以上短くて明確な声明にすることは不可能だ」と言い、彼が作った信仰問答の中で熱く解説しています。カルヴァンは、有名な『キリスト教綱要』のⅠ・16・18で「我々の信仰の全歴史がこの内に簡潔に、判然とした順序で語られていて、聖書の堅実な証言が証しするもの以外は、一切含んでいない」と言い、ジュネーヴ教会信仰問答の第一部で使徒信条を熱心に説明しています。彼らは、真(まこと)のキリスト教信仰を回復し、教会を真理の柱、真理の土台として建て上げるための信仰教育に、使徒信条を用いました。使徒信条を学ぶ第一の理由は、これがキリスト教信仰の最も重要な基本項目を教えていることです。
しかし、同じように学ぶなら、もう少し詳しいものの方が良いのではないでしょうか。第二にこの点を見てみます。
確かに宗教改革時代に作られた信条は、使徒信条より内容が緻密で包括的です。先程、申しましたように、キリスト教信仰を強化し、教会を真理の柱、真理の土台として堅く建て上げるための信徒教育に、それらは向いています。
しかし、洗礼を受けていない方も含まれる礼拝の説教では、本格的な信条の学びは、内容の複雑さと分量からいっても不向きだと思います。
それに、使徒信条は、簡潔で素朴だからといってレベルが低いわけではありません。信仰は単に知識の多い少ないではなく、神の御言葉に対する私たちの全生活を上げての関り方に大きく依っています。
そもそも聖書の短い一つの御言葉に、どんなに深く豊かで崇高な真理が込められていることでしょうか。例えば、Ⅰヨハネ4:16に「神は愛です」とあります。これは信仰歴の短い者と、色々な事も体験してきた信仰歴の長い者とでは、その理解度もこの御言葉に覚える喜びの大きさや慰めの深さも随分違います。同じことが、内容的には最も簡潔で素朴な使徒信条についても言えます。
第三に、内容が聖書に基づく真理であるなら、如何に単純、素朴であっても、私たちは何度教えられ聞いても良いですし、そうすべきだからです。
新約聖書の4つの福音書を見ますと、主イエスが同じような教えを、色々な時と所でしておられることが分ります。主は最も優れた教育方法をご存じです。すなわち、主は繰り返しの大切さをよく知っておられます。ですから、何度も繰り返し教えることを煩わしいとはされませんでした。そしてそれは弟子たちの内にしっかり実を結んでします。パウロは言いました。ピリピ3:1「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことを幾つか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなた方の安全のためにもなります。」私たちが素朴な使徒信条を改めて学ぶ理由の一つもここにあります。これは私たちにとって煩わしいことではなく、安全なことなのです。
第四に、聖書であれ信条であれ、信仰を学ぶこと自体の大切さを確認して終ります。
信仰は、知識ではなく生活であり実践だ、という考え方があります。生活と実践の中で信仰は身に着くといいます。その通りだと思います。ヤコブ1:22が「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」と言う通りです。
けれども同時に聖書によれば、信仰は先程確かめましたように、繰り返し教えられる必要があります。パウロはどう語っているでしょうか。「信仰は聞くことから始ります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。」(ローマ10:17)
信仰は、一度与えられれば、あとは自動的に成長し、深められ、機能する、というものではありません。聖書で信仰に関して明白に否定されていることの一つは、自動的にとか機械的にという点です。信仰は生活において実践すると共に、繰り返し意識的に聞くべきものなのです。聞くとは、教えられ、学ぶことに他なりません。
何故そうすべきなのでしょうか。それは、聖霊が御言葉と共に私たちに働かれ、御言葉によって信仰を成長させ、キリストの贖いの恵みを一つ一つ具体的に私たちに適用し、実を結ばせて下さるからです。
従って、信仰は学ぶ必要があります。これをもう少し確認します。
まず消極面ですが、私たちが聖書の教えを忘れやすいという点もありますが、それ以上に私たちを誤りから守ってくれます。お読みしましたローマ10章の初めの箇所を、パウロは同胞のユダヤ人の大きな過ちに痛みを覚えつつ書いています。彼らはどこに問題があったのでしょうか。2、3節「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」
ユダヤ人が宗教的に熱心なのは万人の認める所です。それなら、どうして神の御子イエスを拒否し、十字架につけたのでしょうか。パウロが言いますように、彼らが正しい知識を持っていなかったからでした。
知識だけの信仰は、無論、良くありません。しかし、知識の欠けた信仰も怖いです。ここに学びの意義があります。ですから、パウロはエペソ4:13でキリストに対する信仰と知識を教えた後、その理由を14節でこう語ります。「こうして、私たちはもはや子供でなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、弄ばれたりすることがなく」と。学びは、私たちを間違った教えや過ちから固く守ります。
積極面も見ます。今申しましたエペソ4:13に「こうして、私たちはもはや子供ではなく」とありますように、学びは私たちをいよいよ主イエス・キリストに似る者へと成長させ、救いの完成へ導きます。
またエペソ4:15は、学びの積極的理由をこう語ります。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、頭であるキリストに向かって成長するのです。」
ここは大切な愛にも触れていますが、実は愛も、知識と識別力があって初めて真に豊かになり、尊い働きができるのです。パウロは言います。ピリピ1:9、10「私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が、大切な事を見分けることができますように。」
信条の学びも同じです。信条は神の言葉そのものではなく、教会がその時代の中で霊的戦いをし、祈りつつ告白したものです。しかし、聖書の教えに基づき、聖書の教えをまとめています。従って、使徒信条を学ぶのは、聖書の教えのいわばエッセンスにより信仰を学ぶのと同じなのですね。
過ちや信仰の挫折から守られ、信仰、希望、愛において成長させられ、神の国に入ることをいよいよ確かにされたいならば、御言葉の知識において成長させられることは不可欠です。ここに、教理や信条を学ぶ大きな意義があり祝福があります。
使徒信条の学びを、神がどうか豊かに祝福して下さいますように!皆で心から祈り、期待したいと思います。