聖書の言葉 20:1 それから神は次の全ての言葉を告げられた。20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記 20章1節~3節 メッセージ 十戒の第一戒を学んでいます。前回は、宗教改革時代の1563年にドイツのハイデルベルクで作られたハイデルベルク信仰問答を見ました。今日はその約80年後、1643~47年に英国で開かれたウェストミンスター神学者会議で作られたウェストミンスター小教理問答を見ます。 会議では、教職者用の大教理問答が作られた後、一般信徒用の小教理が作られました。大教理には大切なことが具体的に網羅的に見事に書かれています。当時のプロテスタントの教職者たちがどんなに熱い思いで主を告白し、神の御心に沿った教会形成をし、信徒を育てようとしたかが伺われて、興味深いです。 しかし、今回は小教理を見ます。日本キリスト改革派教会・大会出版委員会編のものです。 問46 第一戒では、何が求められていますか。 答 第一戒が私たちに求めていることは、神を唯一のまことの神また私たちの神として 知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光を表すことです。 問47 第一戒では何が禁じられていますか。 答 第一戒が禁じていることは、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼 拝せず栄光を表さないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもさ さげることです。 問48 第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉で、私たちは特に何を教えられていま すか。 答 第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉が私たちに教えることは、万事を見て おられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いに嫌われる、という ことです。」 ハイデルベルク信仰問答の問94も「第一戒で、主は何を求めておられますか」と尋ね、それに答えています。しかし、ウェストミンスター小教理問答では、問46「第一戒では、何が求められていますか」と積極面と共に、問47「第一戒では何が禁じられていますか」と消極面からも論じます。積極面と消極面の二面から分析し論じるというのが、ウェストミンスター大・小教理問答の特徴であり、十戒を全部この方法で論じています。物事を見る時の大切な視点を教えられます。 もっとも、ハイデルベルク信仰問答では、前回見た通り、問94の答の中で、私たちが避け、放棄すべき消極面もキチンと論じていました。その辺は見事ですね。 さて、ウェストミンスター小教理問答を少しだけ見ます。 第一に、問46の答に「神を唯一のまことの神また私たちの神として」とあり、問47にも「神また私たちの神として」とあります。特別啓示の書・聖書においても、自然や歴史や宇宙という自然啓示においても、ご自分を証ししておられる神は、人間が認めようが認めまいが、客観的に唯一まことの神です。しかし、それを認めると共に、私たち自身の神として、主観的というか主体的にも認め、仕えることを忘れてはならないことを教えられます。 割合多くの人が真(まこと)の神の存在を否定はしませんが、自分の神とまではしません。逆に主観的に自分が信じていれば十分という人もいます。しかし、第一戒は、客観的にも主観的にも、真の神を明確に認め、仕えるべきことを求めます。特に私たちが、唯一・真の神を「私の神」と信じ、告白し、仕えることが、とても大切です。 第二に、問46でも問47の答でも、真の神を「ふさわしく礼拝し、神の栄光を表す」という、重要な二つの具体的なものに言及します。例えば、私たちが日曜礼拝を軽んじ怠り、礼拝中にふさわしくない他のことに意識が飛び、他のことをし、また「食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を」(Ⅰコリント10:31)表すのではなく、自分の栄光を求めるような生き方をしているなら、それは第一戒を破っています。第一戒を覚える時、神を「ふさわしく礼拝し、神の栄光を表す」という重要なこれら二点を決して外さないようにしたいと思います。逆に言うなら、この二点をしっかり自覚する時、感謝なことに、私たちは、大切な第一戒にかなりキチンと生きることができるということです。 第三に、問48の答も重要です。第一戒は出エジプト20:3「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」ですが、「私以外に」は、元のヘブル語では「私の顔の上に、私の顔に対して」であり、「面前に」という意味です。こういう言葉が入っているのは第一戒だけです。それ程、第一戒が重要だということを改めて教えられます。問48の答をもう一度読みます。「第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉が私たちに教えることは、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つことにも注目し、これを大いに嫌われる、ということです。」 真の神を私たちが真(しん)に神として生きる上で決して忘れてはならない大事なことの一つは、神の眼差しです。神は万事を見ておられます。ヘブル4:13「神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。」私たちの心と姿勢を鋭く問われます。でも逆に言うなら、これを自覚することで、第一戒の求めるものを私たちはかなり満たすことができるのです。感謝なことですね。改めて神の眼差しを繰り返し覚えたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の第一戒を学んでいます。前回は、宗教改革時代の1563年にドイツのハイデルベルクで作られたハイデルベルク信仰問答を見ました。今日はその約80年後、1643~47年に英国で開かれたウェストミンスター神学者会議で作られたウェストミンスター小教理問答を見ます。
会議では、教職者用の大教理問答が作られた後、一般信徒用の小教理が作られました。大教理には大切なことが具体的に網羅的に見事に書かれています。当時のプロテスタントの教職者たちがどんなに熱い思いで主を告白し、神の御心に沿った教会形成をし、信徒を育てようとしたかが伺われて、興味深いです。
しかし、今回は小教理を見ます。日本キリスト改革派教会・大会出版委員会編のものです。
問46 第一戒では、何が求められていますか。
答 第一戒が私たちに求めていることは、神を唯一のまことの神また私たちの神として
知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光を表すことです。
問47 第一戒では何が禁じられていますか。
答 第一戒が禁じていることは、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼
拝せず栄光を表さないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもさ
さげることです。
問48 第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉で、私たちは特に何を教えられていま
すか。
答 第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉が私たちに教えることは、万事を見て
おられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いに嫌われる、という
ことです。」
ハイデルベルク信仰問答の問94も「第一戒で、主は何を求めておられますか」と尋ね、それに答えています。しかし、ウェストミンスター小教理問答では、問46「第一戒では、何が求められていますか」と積極面と共に、問47「第一戒では何が禁じられていますか」と消極面からも論じます。積極面と消極面の二面から分析し論じるというのが、ウェストミンスター大・小教理問答の特徴であり、十戒を全部この方法で論じています。物事を見る時の大切な視点を教えられます。
もっとも、ハイデルベルク信仰問答では、前回見た通り、問94の答の中で、私たちが避け、放棄すべき消極面もキチンと論じていました。その辺は見事ですね。
さて、ウェストミンスター小教理問答を少しだけ見ます。
第一に、問46の答に「神を唯一のまことの神また私たちの神として」とあり、問47にも「神また私たちの神として」とあります。特別啓示の書・聖書においても、自然や歴史や宇宙という自然啓示においても、ご自分を証ししておられる神は、人間が認めようが認めまいが、客観的に唯一まことの神です。しかし、それを認めると共に、私たち自身の神として、主観的というか主体的にも認め、仕えることを忘れてはならないことを教えられます。
割合多くの人が真(まこと)の神の存在を否定はしませんが、自分の神とまではしません。逆に主観的に自分が信じていれば十分という人もいます。しかし、第一戒は、客観的にも主観的にも、真の神を明確に認め、仕えるべきことを求めます。特に私たちが、唯一・真の神を「私の神」と信じ、告白し、仕えることが、とても大切です。
第二に、問46でも問47の答でも、真の神を「ふさわしく礼拝し、神の栄光を表す」という、重要な二つの具体的なものに言及します。例えば、私たちが日曜礼拝を軽んじ怠り、礼拝中にふさわしくない他のことに意識が飛び、他のことをし、また「食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を」(Ⅰコリント10:31)表すのではなく、自分の栄光を求めるような生き方をしているなら、それは第一戒を破っています。第一戒を覚える時、神を「ふさわしく礼拝し、神の栄光を表す」という重要なこれら二点を決して外さないようにしたいと思います。逆に言うなら、この二点をしっかり自覚する時、感謝なことに、私たちは、大切な第一戒にかなりキチンと生きることができるということです。
第三に、問48の答も重要です。第一戒は出エジプト20:3「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」ですが、「私以外に」は、元のヘブル語では「私の顔の上に、私の顔に対して」であり、「面前に」という意味です。こういう言葉が入っているのは第一戒だけです。それ程、第一戒が重要だということを改めて教えられます。問48の答をもう一度読みます。「第一戒の『私のほか(面前)に』という言葉が私たちに教えることは、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つことにも注目し、これを大いに嫌われる、ということです。」
真の神を私たちが真(しん)に神として生きる上で決して忘れてはならない大事なことの一つは、神の眼差しです。神は万事を見ておられます。ヘブル4:13「神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。」私たちの心と姿勢を鋭く問われます。でも逆に言うなら、これを自覚することで、第一戒の求めるものを私たちはかなり満たすことができるのです。感謝なことですね。改めて神の眼差しを繰り返し覚えたいと思います。