2019年10月16日「主の祈りの学び 4 第一祈願 1」

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主の祈りの学び 4 第一祈願 1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
    (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 主の祈りの「天にいます私たちの父よ」という神への呼び掛けの言葉を学んできました。今日は第一の祈願「御名が聖なるものとされますように」に進みます。

 今、祈願と申しました。この表現に少し違和感や抵抗を覚える方があるかも知れません。「キリスト教の祈りは、世間一般の宗教に見られるような神仏への祈願で終始する類(たぐい)のものではない。むしろ、神への感謝や讃美など、高い次元の内容が中心で、祈りのレベルが違う」と考える人もあるでしょう。しかし、こういう考え方は他宗教にもあります。例えば、浄土真宗の中でも自覚的な方々は、そもそも祈りを禁じます。広島駅の2、3km西に浄土真宗のお寺が沢山ある地域があり、安芸門徒と呼ばれる方々がおられます。相互扶助の精神が強く、死を前にした人を互いに支える「ビハーラ安芸」という組織を作り、努力しておられます。私は15年前、心のケアについて牧師としての話でいいからと頼まれて行ったことがあります。熱心な仏教徒と僧侶を前に、『やすらぎ-病める人に仕えて-』という講演をしました。

 質疑応答の中で「仏教も色々ですが、我々は祈りません。祈りは自分の願いと欲が中心ですから」という発言があり、私は興味深く思いました。

 しかし、神の御子イエスの教えられた主の祈りは、最初の呼び掛け以外、後は全て祈願です。従って、祈願それ自体が悪いのではありません。弱さと欠けのある私たちは、主イエスによれば、願い事をして良く、主はそれを励ましておられます!この点をまずしっかり確認しておきたいと思います。

 ただ、次の点も確認しておきます。それは、まず神に関することから祈り始めるという点です。イエスはお教えになります。9、10節「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」これらは全て神に関する祈願です。そしてその後に、11~13節「私たちの日毎の糧を、今日もお与え下さい。私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。私たちを試みに遭わせないで、悪からお救い下さい」と、私たち自身の必要に関する祈りを、イエスはお教えになります。これは実はとても大切な点です。

 私たちは神に願い事をして構いません。しかし、初めからいきなり、あるいは私たちのことばかり、ひたすら神に祈り願うのではないことを教えられます。私たちをご自身との交わりの相手またパートナーとしてご計画によってお選びになり、しかも不信仰で罪深い私たちを、御子イエスを救い主として賜った程に愛しておられる、天の父なる神に関することからまず祈り始める、という優先順位を教えられます。

 本来祈りは、天地の創り主なる神に呼びかけ、話しかけ、それを通して神と人格的に交わる素晴らしい恵みであり特権です。しかし、私たちの内に生れながらに宿っている罪の性質には、すさまじい力があります。祈りすらも本来神が与えておられるあり方から逸脱させ、ご利益宗教に典型的に見られるように、自己中心なものに堕落させることができます。自覚的な浄土真宗の方々が言うように、利己的なものになり得ます。クリスチャンだから大丈夫とは、決して言えません。イエス・キリストを自分の唯一、絶対の救い主だと信じ、受け入れ、依り頼んでいても、私たちはこの世にいる間、罪の汚れと力から完全には解放されておらず、本当に不完全な者です。こういうことを私たちの主は良くご存じですからこそ、わざわざ祈りの模範として「主の祈り」を教え、その中で、祈りの順序、祈りの優先順位という大切なこともお教え下さるのです。

 しかも、こういう順序で祈ることに、神は祝福を用意しておられます。例えば、私たちが辛くてひどく混乱している時でも、敢えて神への感謝と讃美から祈り始めると、どうでしょうか。不思議と気持が落ち着き、自分を離れて客観的になれます。ですから、ピリピ4:6、7は「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって献げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知って頂きなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と教えます。

 つい、自分や身近なことから願い始め、それに終始しやすい私たちです。でも、主イエスはこんな私たちをよくお分りです。ですから、主の祈りをお教え下さっています。

 私たちを今この時も愛と憐れみによって生かし、様々な良いものを与え、私たちを天に召される時まで必ず背負って下さる神を見上げ、まず神のことから、特に神を崇め感謝することから祈り始めたいと思います。そしてその後、私たち自身の必要についても、主に励まされて熱心に大胆に祈りたいと思います。

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