聖書の言葉 20:1 それから神は次の全ての言葉を告げられた。20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記 20章1節~3節 メッセージ 十戒の第一戒を続けて学んでいます。今日は、宗教改革時代の信仰の先輩たちが、聖書に基づいて信仰の遺産として残したものの中から見てみます。 今日取り上げるのは、1563年にドイツのハイデルベルクで作られたハイデルベルク信仰問答です。読みます。 「問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。 答 私が自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを、避けて逃れること。 唯一の真の神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみ全てのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。 すなわち、私が、ほんの僅かでも、神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろ全ての被造物の方を放棄する、ということです。」 「問95 偶像崇拝とは何ですか。 答 御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。」 これは特に解説がなくても分るでしょう。元々普通の信徒を教育する目的で、これは作られたからです。とはいえ、折角の機会ですので、少しだけ見ておきます。 まず、問94は、「第一戒で、主は何を求めておられますか」と問い、答では「私が自分の魂の救いと祝福とを失わないために」と、第一戒の狙いの消極的な面を述べます。 信仰問答の作成者たちは、私たちに信仰があっても、尚残る罪の性質が私たちにもたらす「魂の救いと祝福とを失う危険性」を熟知しています。ですから、こういう言葉で答を始めたのです。 そして、私たちがよく注意して避けるべきこととして、「あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを、避けて逃れること」と言います。終りの方の「諸聖人や他の被造物への呼びかけ」というのは、中世のローマ・カトリック教会で長い間行われて来た問題行為を具体的に上げ、避けるように教えます。 次に、努力すべき積極的な面をこう語ります。「唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみ全てのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」全くこの通りであり、大変よく教えられていると思います。 しかし私たちには、まことの神以外のものを神とする傾向が常にあります。ですから、答の最後の部分では、強い言葉で私たちにこう決断を促します。「私が、ほんの僅かでも、神の御旨に反して何かをする位ならば、むしろ全ての被造物の方を放棄する、ということです。」 「全ての被造物の方を放棄する!」この表現に、私たちは改めて襟をピシッと正されるのではないでしょうか。真の神を神とするとは、本当はこれ程のことなのであり、宗教改革者たちはこういう真剣な思いで、自分の心を探り、自分を見つめ、自分自身にも説教をしたのです。 結局、問われているのは、自分に固執し、自分を第一とし、自分を自分の主人とし、自分に信頼を置き、自分を喜ばせたい気持で満ちている、私たちの古い自我を捨てることです。主イエスの教えを思います。マタイ7:13「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」自我でパンパンに膨れ上がったままでは、私たちは天国への狭い門と道を通れないのです。 イエスはこうも言われました。マタイ16:26「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。」ここで「命」と訳されている元のギリシア語プシュケーは、身体的生命という意味以上に、大切な「内なる命」、つまり、「魂」という意味を持ちます。信仰問答が「むしろ全ての被造物の方を放棄する」と強く教え、告白する意味がよく分ると思います。 以上を理解しますと、問95の偶像崇拝についての説明も一層よく分るでしょう。もう一度読みます。「問95 偶像崇拝とは何ですか。答 御言葉において御自身を啓示された、唯一の真の神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。」 物質で作られた偶像だけでなく、真の神に代えて、あるいは真の神と並べて、私たちが崇め、信奉し、信頼しようとするものなら、国家であれ、特定の政党や特定の政治思想、イデオロギー、また特定のある人物を崇拝すること、それどころか、自分を信頼し、神のこと以上に自分の考えにこだわるという自己偶像化も、私たちは拒否するのです。 主は言われます。「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」(出エジプト20:3) 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の第一戒を続けて学んでいます。今日は、宗教改革時代の信仰の先輩たちが、聖書に基づいて信仰の遺産として残したものの中から見てみます。
今日取り上げるのは、1563年にドイツのハイデルベルクで作られたハイデルベルク信仰問答です。読みます。
「問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。
答 私が自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを、避けて逃れること。
唯一の真の神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみ全てのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。
すなわち、私が、ほんの僅かでも、神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろ全ての被造物の方を放棄する、ということです。」
「問95 偶像崇拝とは何ですか。
答 御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。」
これは特に解説がなくても分るでしょう。元々普通の信徒を教育する目的で、これは作られたからです。とはいえ、折角の機会ですので、少しだけ見ておきます。
まず、問94は、「第一戒で、主は何を求めておられますか」と問い、答では「私が自分の魂の救いと祝福とを失わないために」と、第一戒の狙いの消極的な面を述べます。
信仰問答の作成者たちは、私たちに信仰があっても、尚残る罪の性質が私たちにもたらす「魂の救いと祝福とを失う危険性」を熟知しています。ですから、こういう言葉で答を始めたのです。
そして、私たちがよく注意して避けるべきこととして、「あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを、避けて逃れること」と言います。終りの方の「諸聖人や他の被造物への呼びかけ」というのは、中世のローマ・カトリック教会で長い間行われて来た問題行為を具体的に上げ、避けるように教えます。
次に、努力すべき積極的な面をこう語ります。「唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみ全てのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」全くこの通りであり、大変よく教えられていると思います。
しかし私たちには、まことの神以外のものを神とする傾向が常にあります。ですから、答の最後の部分では、強い言葉で私たちにこう決断を促します。「私が、ほんの僅かでも、神の御旨に反して何かをする位ならば、むしろ全ての被造物の方を放棄する、ということです。」
「全ての被造物の方を放棄する!」この表現に、私たちは改めて襟をピシッと正されるのではないでしょうか。真の神を神とするとは、本当はこれ程のことなのであり、宗教改革者たちはこういう真剣な思いで、自分の心を探り、自分を見つめ、自分自身にも説教をしたのです。
結局、問われているのは、自分に固執し、自分を第一とし、自分を自分の主人とし、自分に信頼を置き、自分を喜ばせたい気持で満ちている、私たちの古い自我を捨てることです。主イエスの教えを思います。マタイ7:13「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」自我でパンパンに膨れ上がったままでは、私たちは天国への狭い門と道を通れないのです。
イエスはこうも言われました。マタイ16:26「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。」ここで「命」と訳されている元のギリシア語プシュケーは、身体的生命という意味以上に、大切な「内なる命」、つまり、「魂」という意味を持ちます。信仰問答が「むしろ全ての被造物の方を放棄する」と強く教え、告白する意味がよく分ると思います。
以上を理解しますと、問95の偶像崇拝についての説明も一層よく分るでしょう。もう一度読みます。「問95 偶像崇拝とは何ですか。答 御言葉において御自身を啓示された、唯一の真の神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。」
物質で作られた偶像だけでなく、真の神に代えて、あるいは真の神と並べて、私たちが崇め、信奉し、信頼しようとするものなら、国家であれ、特定の政党や特定の政治思想、イデオロギー、また特定のある人物を崇拝すること、それどころか、自分を信頼し、神のこと以上に自分の考えにこだわるという自己偶像化も、私たちは拒否するのです。
主は言われます。「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」(出エジプト20:3)