聖書の言葉 20:1 それから神は次の全ての言葉を告げられた。20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記 20章1節~3節 メッセージ 十戒の第一戒を続けて学んでいます。第一戒は、真(まこと)の神を神とすることを教え、またそれは無神論と比べて恵みや祝福のあることを見ました。尚、無神論も一つの信仰、或いは宗教と言えます。科学的に証明できないのに、神は存在しないと結局、信じるからです。 今日は偶像崇拝を見てみます。 偶像を崇拝することは色々な形で見られます。死者を神仏として拝み、手で作った像を拝み、木や紙のお札を大事にし、山や大木や岩を恭(うやうや)しく奉(たてまつ)るものもあります。お金や快楽を全てとする拝金主義や快楽主義、学歴・地位・名声、特定の人物や政治思想やイデオロギーを信奉するものもあります。真の神に代えて自分を偶像視する人もいます。 しかし神は、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」とハッキリ命じられます。実は偶像崇拝は神が最も嫌われる罪なのです。真の神からすれば、当然でしょう。 それに、偶像崇拝は大変不幸です。第一に、偶像は元より存在しないのですから、何の力もありません。2千数百年も前に詩篇115は偶像とそれに頼る愚かさをこう述べました。4~8節「彼らの偶像は銀や金。人の手の業に過ぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も、信頼する者も皆、これと同じ。」本当にこの通りですね。 第二に、偶像は人を恐怖心で縛る怖い面を持っています。偶像に災いを下す力などありません。しかし、真の神を知りませんと、不気味で祟(たた)りが怖いなどの理由で恐怖心に縛られ、精神に害を受ける人もいます。しかし、エレミヤ10:3~5は偶像についてこう述べます。「それは、林から切り出された木、木工がなたで作った物に過ぎない。それは銀と金で飾られ、釘や槌(つち)で、ぐらつかないように打ち付けられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」 第三に、偶像崇拝にはしばしば倫理問題が伴います。聖書には、偶像崇拝と不道徳が一緒に非難されている所が多いですね。拝金主義や快楽主義を考えると分りますが、偶像崇拝はどうしても人間の欲望の充足が中心であるため、倫理感が薄れ、堕落しやすいのです。 これに比べますと、真(まこと)の神を神とすることは、やはり幸いです。第一に、真の神は私たち罪人を救う力を、事実お持ちだからです。人間の究極の問題は罪とそれがもたらす永遠の死ですが、人間に自分を救う力は全くありません。「兄弟さえも、人は贖いだすことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7、8)まして偶像には何の力もありません。 しかし、真の神、主は違います。神は御子を世に送り、御子を私たち罪人の身代りとして十字架につけ、私たちの罪を全て償わせられました。ですから、イエス・キリストを心から信じて、尚、罪と永遠の死から救われない人など、一人もいません。 第二に、神はご自分を信じる者を愛し、強めて下さいます。神を信じても私たちはこの世で試練に遭います。私たちは動揺し、不安になります。しかし、私たちが神を愛しているなら、先週の祈祷会でも確認しましたが、最後には神が万事を益として下さいます。ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…。」 従って、真の神を神とする者は、特に忍耐力の点で強くされます。忍耐力とは、聖書によると、失望させられる状況でも、尚、前進できる力です。今は起っていることの訳(わけ)が分らなくても、神を愛しているなら、最終的には万事が益とされることを知っていますから、忍耐強くされないではおれません。 第三に真の神を神とすることは、私たちを全人格的にきよめ高めます。人生の意味は、ただ何年生き、何々をした、ではありません。私たちが一生を通じて、自己満足ではなく、真(しん)に神に喜ばれる者となり、神のきよいご性質に少しでも似る者とされ、天の御国に入るのに相応しい者へと全人格的にきよめられ、完成させられることです。正にそれを、神は御子イエスを信じる者に実現して下さいます。常に主イエスを仰ぎ、主イエスと交わっている人は、主に似てそのきよさに与らないではおられません。 第四に真の神を神とする者には、罪、弱さ、欠けがあっても、神との間に平和があります。御子イエスがいつも仲保者でいて下さるからです。 第五に、真の神は全知全能の神ですから、クリスチャンは神の栄光に与る希望を持つことができます。この希望は、ローマ5:5が言うように、失望に終ることがありません。 「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」幸いへの約束でもある第一戒を、改めて心に深く刻み、これに生きる者でありたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の第一戒を続けて学んでいます。第一戒は、真(まこと)の神を神とすることを教え、またそれは無神論と比べて恵みや祝福のあることを見ました。尚、無神論も一つの信仰、或いは宗教と言えます。科学的に証明できないのに、神は存在しないと結局、信じるからです。
今日は偶像崇拝を見てみます。
偶像を崇拝することは色々な形で見られます。死者を神仏として拝み、手で作った像を拝み、木や紙のお札を大事にし、山や大木や岩を恭(うやうや)しく奉(たてまつ)るものもあります。お金や快楽を全てとする拝金主義や快楽主義、学歴・地位・名声、特定の人物や政治思想やイデオロギーを信奉するものもあります。真の神に代えて自分を偶像視する人もいます。
しかし神は、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」とハッキリ命じられます。実は偶像崇拝は神が最も嫌われる罪なのです。真の神からすれば、当然でしょう。
それに、偶像崇拝は大変不幸です。第一に、偶像は元より存在しないのですから、何の力もありません。2千数百年も前に詩篇115は偶像とそれに頼る愚かさをこう述べました。4~8節「彼らの偶像は銀や金。人の手の業に過ぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も、信頼する者も皆、これと同じ。」本当にこの通りですね。
第二に、偶像は人を恐怖心で縛る怖い面を持っています。偶像に災いを下す力などありません。しかし、真の神を知りませんと、不気味で祟(たた)りが怖いなどの理由で恐怖心に縛られ、精神に害を受ける人もいます。しかし、エレミヤ10:3~5は偶像についてこう述べます。「それは、林から切り出された木、木工がなたで作った物に過ぎない。それは銀と金で飾られ、釘や槌(つち)で、ぐらつかないように打ち付けられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」
第三に、偶像崇拝にはしばしば倫理問題が伴います。聖書には、偶像崇拝と不道徳が一緒に非難されている所が多いですね。拝金主義や快楽主義を考えると分りますが、偶像崇拝はどうしても人間の欲望の充足が中心であるため、倫理感が薄れ、堕落しやすいのです。
これに比べますと、真(まこと)の神を神とすることは、やはり幸いです。第一に、真の神は私たち罪人を救う力を、事実お持ちだからです。人間の究極の問題は罪とそれがもたらす永遠の死ですが、人間に自分を救う力は全くありません。「兄弟さえも、人は贖いだすことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7、8)まして偶像には何の力もありません。
しかし、真の神、主は違います。神は御子を世に送り、御子を私たち罪人の身代りとして十字架につけ、私たちの罪を全て償わせられました。ですから、イエス・キリストを心から信じて、尚、罪と永遠の死から救われない人など、一人もいません。
第二に、神はご自分を信じる者を愛し、強めて下さいます。神を信じても私たちはこの世で試練に遭います。私たちは動揺し、不安になります。しかし、私たちが神を愛しているなら、先週の祈祷会でも確認しましたが、最後には神が万事を益として下さいます。ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…。」
従って、真の神を神とする者は、特に忍耐力の点で強くされます。忍耐力とは、聖書によると、失望させられる状況でも、尚、前進できる力です。今は起っていることの訳(わけ)が分らなくても、神を愛しているなら、最終的には万事が益とされることを知っていますから、忍耐強くされないではおれません。
第三に真の神を神とすることは、私たちを全人格的にきよめ高めます。人生の意味は、ただ何年生き、何々をした、ではありません。私たちが一生を通じて、自己満足ではなく、真(しん)に神に喜ばれる者となり、神のきよいご性質に少しでも似る者とされ、天の御国に入るのに相応しい者へと全人格的にきよめられ、完成させられることです。正にそれを、神は御子イエスを信じる者に実現して下さいます。常に主イエスを仰ぎ、主イエスと交わっている人は、主に似てそのきよさに与らないではおられません。
第四に真の神を神とする者には、罪、弱さ、欠けがあっても、神との間に平和があります。御子イエスがいつも仲保者でいて下さるからです。
第五に、真の神は全知全能の神ですから、クリスチャンは神の栄光に与る希望を持つことができます。この希望は、ローマ5:5が言うように、失望に終ることがありません。
「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」幸いへの約束でもある第一戒を、改めて心に深く刻み、これに生きる者でありたいと思います。