2022年06月12日「コミュニケーションの回復」

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コミュニケーションの回復

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章27節~34節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい」と叫びながらついて来た。
9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「私にそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなた方の信仰の通りになれ」と言われた。
9:30 すると、彼等の目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「誰にも知られないように気をつけなさい」と言われた。
9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。
9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。
マタイによる福音書 9章27節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は「コミュニケーションの回復」と題してお話致します。

 9:27以降の出来事は、マルコもルカも伝えず、マタイだけが伝える内容です。マタイはこれらを是非伝えたかったのでしょう。まず二つの奇跡を見ます。

 最初の奇跡は、二人の盲人の癒しです。27、28節「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、『ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい』と叫びながらついて来た。イエスが家に入られると、その人たちが御許(みもと)に来た。イエスが、『私にそれができると信じるのか』と言われると、彼らは、『はい、主よ』と言った。」

 昔のユダヤでは、砂漠から砂が飛来し、昼は太陽光線が強く、また羊を飼うことなどに伴う不潔さもあり、目を患う人が多かったようです。

 それはともかく、ここでのイエスはやや素気ない感じがします。二人の盲人が叫んでも答えず、彼らがイエスを追って家にまで入って来て、ようやく、「私にそれができると信じるのか」と質問されます。どうしたことでしょう。

 これは、彼らがイエスを「ダビデの子」と呼んだことと関係があるようです。Ⅱサムエル7章が伝えますように、昔、神はダビデ王の家系から、メシア、すなわち、救い主が出ると約束され、ユダヤ人たちはそれを待ち続けました。しかし、長い時を経て色々な大国に脅かされ支配される内に、段々、ユダヤ人たちはメシアを軍事的解放者のように考え、その意味で「ダビデの子」と呼ぶことが多くなりました。

 そこで、何より魂の救い主であられるイエスは、盲人たちの求めにすぐには答えず、群衆を避けて家に入り、彼らをご自分と直に向き合えるようにしてから、「私にそれができると信じるのか」と尋ねられたのです。

 ここに私たちは、信仰の本質的あり方を教えられます。それは周囲の意見や考えに流されず、イエスと一対一で向き合う中で、イエスを本当にどう信じ、どう告白できるかなのです。

 盲人たちは答えました。28節「はい、主よ。」元のギリシア語では「はい、確かに。主よ」という感じの返事です。彼らには「私たちを憐れんで下さい」とイエスに懇願するへりくだりと共に、イエスへの確かな信仰がありました。これをイエスは喜ばれ、彼らの目に触り、29節「あなた方の信仰の通りになれ」と言われ、彼らは癒されました。イエスには、彼らを癒すために目に触る必要はありません。これは、ご自分に信仰告白をした彼らへのイエスの優しさでしょう。

 「あなた方の信仰の通りに」は、「あなた方の信仰に比例して」という意味です。信仰は神からの頂きものですが、それを私たちがどう生かすか、その意味での信仰の本気度、真剣さに、主は応えられるのです。マタイ7:7「求め(ギリシア語=求め続け)なさい。そうすれば与えられます。探し(ギリシア語=探し続け)なさい。そうすれば見出します。叩き(ギリシア語=叩き続け)なさい。そうすれば開かれます」という、イエスの励ましに満ちた約束を、改めて教えられます。

 次の奇跡は、口の利けない人の癒しです。32節「その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスの許に、悪霊に取りつかれて口の利けない人を連れて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言うようになった。」マタイは、癒された人の信仰については伝えていません。悪霊につかれていたために信仰を持てる状態ではなく、この奇跡は、ただイエス・キリストの憐れみと力による、ということなのでしょう。

 興味深いのは、口の利けない人をイエスが癒されたことへの人々の反応です。盲人の目もイエスが癒されたことを知っていた彼らの反応に、二つありました。

 一つは群衆の反応です。33節「群衆は驚いて、『こんなことはイスラエルで未だかつて起こったことがない』」と言いました。

 これは少し大袈裟ではないでしょうか。昔、エジプトからイスラエルが救われた時には、葦の海が真っ二つに分かれるすごい奇跡がありました。カナンの地では、イスラエルの民が大声で鬨(とき)の声を上げますと、エリコの城壁がガラガラと崩れ落ちた奇跡もありました。他にもすごい奇跡が旧約時代にありました。それらに比べますと、目の見えない人や口の利けない人が癒されたことに人々が驚き、「こんなことはイスラエルでいまだかつて起こったことがない」と言ったのは、大袈裟ではないでしょうか。

 いいえ、そうではありません。実は、盲人の目が見えるようになる奇跡とか、口の利けない人が話せるようになるという癒しの奇跡は、旧約聖書のどこも伝えていません。そしてイザヤ35:5、6などは、メシアの到来の時、「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない人の耳は開かれる。その時、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口の利けない者の舌は喜び歌う」と預言していました。見えない人が見え、聞こえない人が聞こえ、口の利けない人が話せるようになることは、正(まさ)にメシアこそが行える素晴らしい恵みの奇跡なのです。のちにイエスは、ご自分が救い主であることを、牢に捕らえられていた洗礼者ヨハネに伝えるため、こう言われました。マタイ11:5「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が告げ知らされています。」イエスは、見えない人が見え、聞こえない人が聞こえるというコミュニケーションの回復は、死者が生き返るのと同じ位、素晴らしい恵みの奇跡だと言われるのです。

 群衆がこの時、どこまで分っていたかは別として、二つの奇跡は、正にイエスが神からの救い主・メシアであることを立証しているのです。

 それだけに、34節が伝えるパリサイ人たちの反応、「彼は悪霊どもの頭によって悪霊どもを追い出している」と言ったことは、非常に不信仰なものと言わざるを得ません。ここに私たちは、同じように目でイエスの素晴らしい御業(みわざ)を見、耳でイエスの教えや群衆の声を聞き、同じように口で言葉を発するにしても、人間の罪と不信仰の持つ醜さ、邪悪さを思わないではおられません。

 堕落による人間の罪と悲惨さは、人間の色々な点に現れています。その最たるものの一つは、自分が人から何を受け取り、また自分が人に何を発信するかというコミュニケーションの問題です。

 これは実に厄介な問題です。癒された盲人たちに、イエスは30節「誰にも知られないように」と厳しく命じられましたが、31節「彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。」これでイエスについての誤解や偏った理解が更に広がりかねません。

 パリサイ人たちは、人間にとって非常に大切なコミュニケーションの内容を、悪意のある捻じれた状態のまま放置したため、やがてサタンに利用され、イエス殺害にまでエスカレートしていきます。大変怖いことです。

 しかし、だからこそ旧約聖書の預言通り、イエスは真(まこと)の救い主・メシアとして、目、耳、口など、コミュニケーションの手段となるものを癒されたのです。

 お分りのように、イエスの癒しは単に身体上のコミュニケーション手段の癒しである以上に、コミュニケーションの根底にある人間の心の癒し、回復を、イエスがおできになる救い主であることを示しています。

 目や耳や口は正常でも、情報を受け取り、受け留め、発信する心が罪と不信仰で歪(ゆが)んでいるために、何と多くの衝突や争いや断絶が人と人、国と国との間で起っているでしょう。逆に、身体上の目や耳や口に問題があっても、誠実な良いコミュニケーションを通して、人を慰め励まし、自らも色々なことに感謝し、爽やかに幸せに生きる人もいます。コミュニケーションの根底にある心が、何より大切なのです。

 しばしば言われますが、人は自分の見たいものは見、見たくないものは見えず、聞きたいものは聞こえ、聞きたくないものは聞こえません。口もそうです。話したい人には自分から話しかけ、親切で優しい言葉も出ますが、話したくない相手には言葉も出ません。それどころか、パリサイ人たちのように毒を含む言葉も発します。問題は心です。

 では、コミュニケーションの根底にある心が真に癒されるには、どうすれば良いでしょうか。

 第一は、私たちのような罪人を憐れみ、イザヤ43:4「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言われる、神の絶大な愛を繰り返し覚えることです。神の愛と眼差しをよく覚えることほど、多くのことで傷つき、また自分で自分を歪めることも多い私たちの心を真に癒すものはありません。

 第二は、恵みの手段である神の言葉に真剣に、かつ畏れをもって触れ、またピリピ4:6が言いますように、特に「感謝」から始める祈りにより、神との交わりを頻繁に持つことです。御言葉と祈りによる神との親しい清い交わりは、人との私たちの真実なコミュニケーションを必ず生み出します。

 第三は、ガラ5:22、23が言う「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を結んで下さる御霊が、私たちの心に働かれるように、御霊を求め、御霊に自分を明け渡すことです。

 どうか、主イエスが私たちの心を清め、大切な目と耳と口の真実なコミュニケーション力を回復させ、神の栄光と隣人の救いと私たち自身の霊的成長のために、これらを豊かに生かして下さいますように!

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