聖書の言葉 20:1 それから神は次の全ての言葉を告げられた。20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記 20章1節~3節 メッセージ 前回から十戒の第一戒、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」(出エジプト記20:3)の学びに入りました。前回は、第一戒が「真(まこと)の神を神とすること」を教えていること、また神を神とするのは当然のことなのですが、そこに私たちにとって益となり祝福となるものがあるとお話したところで、時間が来ました。今日はその続きです。 真の神を神とすることには益があり祝福がある!では、どういう益また祝福でしょうか。これは真の神を神としないことと比較してみると分ります。で、その一つに無神論があります。 無神論にも、理論的無神論と実践的無神論の二つがあります。 理論的無神論は、徹底して研究した上で、神は存在しないと結論します。しかし、人間の脳細胞数は高々140億個(これは物事を記憶し、考え、判断したりする大脳皮質のみ)であり、決して無限ではありません。そして科学には限界があります。科学は、科学の限界を超えるものについては判断できません。ですから、理論的無神論に立つ人は、実際には殆どいません。というより、元々無理なのです。有限は無限を把握できないからです。 私も元はそうでしたが、「自分は無神論だ」と言う人の殆どは実践的無神論者です。どうも信じられないとか、分らないとか、信じるのが面倒なので信じないといった具合です。信じない理由は、後でつけているのが多いでしょう。いずれにせよ、詩篇14:1などは「愚かな者は心の中で『神はいない』と言う」と言い、聖書は無神論を愚かとして、元より相手にしません。 ところで、無神論が私たちにもたらすものは何でしょうか。突き詰めますと、一切は無意味だという虚無感でしょう。無神論では、この宇宙や生命が存在することは偶然でしかありません。私たちが生れたことも偶然の悪戯であり、意味や目的などありません。従って、正しく善く生きるなどということも、本当は意味がなく、意味があると言うなら、そう思いたい人たちに対してだけであり、客観的には無意味となります。 これではたまりませんので、実際には途中で考えること、思考を放棄しています。それでは欺瞞です。が、そうでもしなければ、やっていられない程、無神論に徹底して立つことは難しいと思います。恐ろしい程の虚無感に陥らざるを得ないからです。 しかし、もし私たちが、この天と地と私たち人間を永遠のご計画と熟慮によって造られた全知全能の真の神がおられることを知り、信じることができるなら、私たちは一変するでしょう。私という一人の人間がこの世に生れ、今まで生きてこられたことは決して偶然でもたまたまでもありません。色々恥ずかしい失敗や間違いをし、神の嫌われることもし、人を傷つけ、自分をも卑しめる利己的で不信仰なこともいっぱいして来た私たち。しかし、それにも関らず、私たちが生きて来られたのは、眠っている時も私たちの心臓を動かし、呼吸できるように自律神経を支え、色々な事故や災害から守り、良いものや楽しみをも与えて生かして下さっている神の憐れみと守りがあったからに他なりません。 また主イエスへの信仰の故に、私たちの将来のことにも、親が子供を思って計画を立てる以上に、よく配慮し、前もって私たちに必要な物を備え、不要なものは取り除き、私たちの手を取って導こうとしておられる神を信じられるなら、どんなに勇気や力、希望や喜びを与えられることでしょう。私たちの生きることは無意味でなく、神が全て備えていて下さるのです。 特に神が私たちの救い主として遣わされた御子イエス・キリストを心から信じ、寄り頼んで生きようとするならば、知っていて、あるいは知らないで神と人に対して犯した私たちのどんな醜い罪も赦され、生れた赤ちゃんが産湯につかってきれいに洗われるように、私たちも罪から洗い清められ、神の子とされ、やがて永遠の神の国を受け継ぐことを許されるのです。 どんなに涙を流し、努力したことも、また私たちがそもそも生れ、成長し、働き、誰かを愛し、家庭を築き、大切と思えることに命と人生を献げたとしても、無神論では意味はありません。 しかし、真の神を神とするならば、私たちのどんな苦労も涙も悲しみも祈りも、無意味などあり得ません。それどころか、全知全能の真の神は、私たちがどんなに大きな問題に直面しても、私たちが神を愛しているなら、いつか必ず万事を益として下さいます。ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…」と。何という恵みでしょうか。 「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」 さて、真の神を神としないことに、もう一つ、偶像崇拝があります。これは次回扱います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
前回から十戒の第一戒、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」(出エジプト記20:3)の学びに入りました。前回は、第一戒が「真(まこと)の神を神とすること」を教えていること、また神を神とするのは当然のことなのですが、そこに私たちにとって益となり祝福となるものがあるとお話したところで、時間が来ました。今日はその続きです。
真の神を神とすることには益があり祝福がある!では、どういう益また祝福でしょうか。これは真の神を神としないことと比較してみると分ります。で、その一つに無神論があります。
無神論にも、理論的無神論と実践的無神論の二つがあります。
理論的無神論は、徹底して研究した上で、神は存在しないと結論します。しかし、人間の脳細胞数は高々140億個(これは物事を記憶し、考え、判断したりする大脳皮質のみ)であり、決して無限ではありません。そして科学には限界があります。科学は、科学の限界を超えるものについては判断できません。ですから、理論的無神論に立つ人は、実際には殆どいません。というより、元々無理なのです。有限は無限を把握できないからです。
私も元はそうでしたが、「自分は無神論だ」と言う人の殆どは実践的無神論者です。どうも信じられないとか、分らないとか、信じるのが面倒なので信じないといった具合です。信じない理由は、後でつけているのが多いでしょう。いずれにせよ、詩篇14:1などは「愚かな者は心の中で『神はいない』と言う」と言い、聖書は無神論を愚かとして、元より相手にしません。
ところで、無神論が私たちにもたらすものは何でしょうか。突き詰めますと、一切は無意味だという虚無感でしょう。無神論では、この宇宙や生命が存在することは偶然でしかありません。私たちが生れたことも偶然の悪戯であり、意味や目的などありません。従って、正しく善く生きるなどということも、本当は意味がなく、意味があると言うなら、そう思いたい人たちに対してだけであり、客観的には無意味となります。
これではたまりませんので、実際には途中で考えること、思考を放棄しています。それでは欺瞞です。が、そうでもしなければ、やっていられない程、無神論に徹底して立つことは難しいと思います。恐ろしい程の虚無感に陥らざるを得ないからです。
しかし、もし私たちが、この天と地と私たち人間を永遠のご計画と熟慮によって造られた全知全能の真の神がおられることを知り、信じることができるなら、私たちは一変するでしょう。私という一人の人間がこの世に生れ、今まで生きてこられたことは決して偶然でもたまたまでもありません。色々恥ずかしい失敗や間違いをし、神の嫌われることもし、人を傷つけ、自分をも卑しめる利己的で不信仰なこともいっぱいして来た私たち。しかし、それにも関らず、私たちが生きて来られたのは、眠っている時も私たちの心臓を動かし、呼吸できるように自律神経を支え、色々な事故や災害から守り、良いものや楽しみをも与えて生かして下さっている神の憐れみと守りがあったからに他なりません。
また主イエスへの信仰の故に、私たちの将来のことにも、親が子供を思って計画を立てる以上に、よく配慮し、前もって私たちに必要な物を備え、不要なものは取り除き、私たちの手を取って導こうとしておられる神を信じられるなら、どんなに勇気や力、希望や喜びを与えられることでしょう。私たちの生きることは無意味でなく、神が全て備えていて下さるのです。
特に神が私たちの救い主として遣わされた御子イエス・キリストを心から信じ、寄り頼んで生きようとするならば、知っていて、あるいは知らないで神と人に対して犯した私たちのどんな醜い罪も赦され、生れた赤ちゃんが産湯につかってきれいに洗われるように、私たちも罪から洗い清められ、神の子とされ、やがて永遠の神の国を受け継ぐことを許されるのです。
どんなに涙を流し、努力したことも、また私たちがそもそも生れ、成長し、働き、誰かを愛し、家庭を築き、大切と思えることに命と人生を献げたとしても、無神論では意味はありません。
しかし、真の神を神とするならば、私たちのどんな苦労も涙も悲しみも祈りも、無意味などあり得ません。それどころか、全知全能の真の神は、私たちがどんなに大きな問題に直面しても、私たちが神を愛しているなら、いつか必ず万事を益として下さいます。ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…」と。何という恵みでしょうか。
「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」
さて、真の神を神としないことに、もう一つ、偶像崇拝があります。これは次回扱います。