2022年05月29日「信仰と救い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。
9:20 すると見よ。12年の間、長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒された。
9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
9:26 この話はその地方全体に広まった。マタイによる福音書 9章18節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 5月15日にお話しましたこの場面を、前にも申しましたが、マルコ5:22以降とルカ8:40以降も伝えています。この場面に関しては、マタイの記述が一番短く、伝えたい点を明確にするために、マタイは細かい点は省き、あと先のことをまとめて書いてもいます。念のために確認します。マルコとルカによれば、会堂司の名はヤイロであり、彼が、12歳の一人娘の救いをイエスに願った時、実は娘はまだ生きていました。そしてイエスが長血の女性に関っておられる間に死にます。

 以上のことを念頭に置き、今朝は会堂司ヤイロと彼の一人娘のことに注目します。ここから、私たちはどんなことを教えられるでしょうか。大きく三つの点を見ます。

 一つは、死は誰にも臨み、いつ臨むかも分らないということです。

 死は決して年齢順でも高齢者からでもありません。ヤイロの娘は12歳でした。昔のユダヤでは、女性は12歳半から婚約し結婚できました。ですから、彼女は両親が大切に育ててきて、まさに今から!という時でした。ところが、死は彼女を襲いました。

 死は人を選びません。会堂司という裕福で良家の、それも一人娘であろうと、関係ありません。このことを私たちも肝に銘じたいと思います。自分であれ家族であれ愛する者であれ、無論、神の御心の中でのことですが、死はいつ訪れるか分らず、病気、事故、自然災害、事件に巻き込まれるなど、形も選びません。この死に対して、私たちは本当に今備えができているでしょうか。この問いかけ程、重要なものはありません。

 二つ目は、信仰は試されるということです。前回学んだ長血の女性もそうですが、ヤイロも信仰を試されました。第一に、彼は自分の社会的な地位や世間体やプライドを捨て、18節「平伏し」、イエスに娘の救いを願いました。この頃になりますと、イエスはユダヤ教権威者たちから少し危険視され始めていました。しかし、会堂司という務めはユダヤ教の中で指導的立場にありました。そんなヤイロが人目もはばからず、地面に平伏し、イエスにすがったのです。彼の信仰は試されたでしょう。

 このことは、今の私たちにも無関係ではありません。自分の救いは勿論ですが、自分の家族、また愛する人が本当に永遠に救われてほしいのであるなら、恥も外聞も見栄もありません。主イエス・キリストへの信仰の一途さが問われるのです。

 第二に、彼はイエスの時を待つという点でも信仰を試されました。

 頼まれてイエスは、19節「立ち上がり、彼について行か」れました。ヤイロの中で、娘は助かるという期待と希望が一挙に大きくなったでしょう。あと、もう少しの辛抱です。

 ところが、全く思いがけないことに、長血を患っている女性がここに割り込んで来て、何やら状況が変って来ました。イエスは彼女に関られ、彼女に気持を移し、時間を割いておられます。無論、彼女のこともすごく大切です。しかし、自分の娘はどうなるのか。ヤイロがヤキモキし、焦ったとしても変ではありません。

 他の人が先に主の恵みに与り、自分や自分の家族のことは、あと回しになる!何とも複雑なものですね。今の私たちにも、こういう面での信仰の試練も、時としてあると思います。

ヤイロの焦りは伝えられていません。けれども、彼はイエスを、主の時を待ちました。そして主の素晴らしい恵みを体験できました。このことにも、私たちは教えられると思います。

 第三に、ヤイロにはもう一つ大きな試みがありました。

 マタイは、18節で、ヤイロの娘が死んものとして伝えていますが、先程も申しましたように、マルコとルカによりますと、実は娘はイエスが長血の女に関っておられる間に死んだのでした。ヤイロにとって、最も恐れていたことがとうとう起ってしまった!この時、彼はどんな気持だったでしょう。頭の中は真白!一挙に力が抜け、同時に長血の女と特にイエスに対する恨みというか、怒り、悔しさが爆発しそうになったとしても変ではないと思います。そして、「もうこれで何もかも終った」と、信仰もヘナヘナとなりかけたのではないでしょうか。これは何と大きな試みでしょう。

 しかし、マタイは伝えていませんが、ルカ8:50やマルコ5:36が伝えているイエスの言葉、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます」を、ヤイロは信じたのです。実際には、これも大きな試みだったと思います。イエスは「ただ信じなさい」と言われましたが、今見て来たような状況で、本当に信じられるでしょうか。

 私たち現代人は色々理屈を並べ、「ただ信じる」ことを低次元のものと考え、なかなか信じようとしない傾向があると思います。いいえ、現代人だけではありません。Ⅱ列王記5章が伝えますが、アラム、つまりアッシリアの王の軍の長であったナアマンもそうでした。彼はツァラアト(重い皮膚病)を患い、そこでイスラエルの預言者エリシャの所へ行きました。ところが、ヨルダン川で7回身を洗うなら、体は癒されると言われて、ナアマンは激怒しました。馬鹿げていると思ったのです。しかし、部下になだめられ、そこで自分の気持と戦い、言われたことに従った所、本当に癒されたのでした。

 イエスはヤイロに「ただ信じなさい」と言われました。状況は全く不利で人間的には可能性は全くありません。しかし、ヤイロは信じました!イエスとその御言葉に従い、信じました!娘は生き返り、救われました!

 私たちはここに、人間的にはもう駄目で全てが手遅れと思えても、なお、最後まで望みを持ち続けること、断念しないことの大切さを教えられ、「信じること」を改めて励まされます。試みを受ける中で、マタイ18:3「まことに、あなた方に言います。向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と言われたイエスの言葉を心に留め、「ただ信じなさい」と言われた主イエスに是非、従い、委ねたいと思います。

 マタイ9章に戻ります。大きな第三点として、ここでもう一つ、改めて教えられることがあります。それは、クリスチャンにとって、死はもはや永遠の死、永遠の滅びではなく、やがて目覚めの時が来るということ。つまり、眠りと同じものに変えられているということです。

 イエスがヤイロの家に行かれますと、9:23が伝えますように、笛吹く者たちや騒いでいる群衆もいました。笛吹く者たちとは、当時、葬式の時に、泣き女と共に雇われた職業的な笛吹きたちのことでしょう。とにかく、その彼らにイエスは、9:24「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われました。

 一部の聖書註解者は、これを文字通りに取り、少女はまだ死んではいなくて、イエスにはそれが分ったのだと言います。そうではないでしょう。医者のルカはその8:55で「すると少女の霊が戻って、彼女は直ちに起き上がった」と伝えています。明らかに少女は死に、そしてイエスによって生き返らされたのでした。

 大事なことは、人の死は、神の御子イエスの救いの力の前では、眠りに過ぎないということです。ヨハネ11:11でもイエスは、若者ラザロが死んだ時、弟子たちにこう言われました。「私たちの友ラザロは眠ってしまいました。私は彼を起こしに行きます。」使徒7:60は、キリスト教会最初の殉教者ステパノのことを「眠りについた」と伝えています。パウロも、先に死んだ人たちのことをⅠテサロニケ4:13で「眠っている人たち」と述べています。

 死と眠りには大変な違いがあります。聖書では、死の基本概念は「分かれ、分離」です。実際、死は永遠の別離であり、人と人との間を断ち切ります。一方、眠りは、やがて朝が来て、愛する者や家族と相まみえます。次の日に笑顔で顔と顔とを合わせ、言葉を交わします。その意味で、主イエスと聖書が、神の子とされた信仰者の死を、眠りと表現することは、とても意義深いと思います。

 私たち罪人のために十字架につかれ、また永遠の救い主として復活された主イエスと、その主を心から信じ、主に固く結びついている真(まこと)の信仰者との関係においては、死はもはや眠りでしかありません。やがて目覚めます!必ずその時が来ます!何と感謝なことでしょう!嬉しさ、喜びがこみあげて来ます!

 ここにいる私たちも皆やがて死にます。しかし、私たちが信仰によって励むどんな労苦も主の業(わざ)も、そして人知れず流した涙も、決して無駄になることはありません。ここに、この世が与えることも奪うこともできない希望と慰めがあります。これが主イエス・キリストの下さる救いです。

 ですから、Ⅰコリント15:54、55、58は次のように言って私たちを励まします。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着る時、このように記された御言葉が実現します。『死は勝利に呑み込まれた。』『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』…ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

 世の終りの時のことを伝えるヨハネ黙示録21:3、4を読んで、説教を終ります。

 「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から、涙を悉く拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

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