聖書の言葉 20:1 それから神は次の全ての言葉を告げられた。20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記 20章1節~3節 メッセージ 私たちは、人が生きる上での大切な規範として、天と地と私たち人間を創られた真(まこと)の神が人間に与えられた十戒を学び始めました。そしてまず、十戒を守る上で留意すべき、十戒の大切な目的と役割、次に十戒の心とでも言うべきものを学びました。 今日から十戒の内容に入ります。で、その内容と関係しますが、十戒の数え方は、実はユダヤ教、ローマ・カトリック教会、ギリシア正教、ルーテル教会、改革派教会で少し違います。例えば、ローマ・カトリックでは、私たちの言う第一戒と二戒をまとめて第一戒とし、私たちの言う第十戒を「隣人の家を欲してはならない」という所と、その後の「隣人の妻を」という所からの二つに分けます。 殆どのプロテスタントは改革派と同じであり、日本基督教団出版局『讃美歌21』の交読文93-3に記されているものが、それに当ります。この数え方は、古代教会時代から支持され、宗教改革者カルヴァンも支持し、現代の多くの神学者たちも同じです。ただ、数え方に違いのあることを、一応知っておきたいと思います。 さて十戒の内容ですが、内容と言いますと、出エジプト記20:3の「あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない」という第一戒から、17節の「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない」という第十戒までを、普通は考えると思います。それも間違いとは言えませんが、それらだけを取り上げますと、十戒は規則集のように受け取られかねません。 実は、十戒には大切な序文があります。ユダヤ教、ローマ・カトリック、ギリシア正教、ルーテル派、改革派のどれも、序文をキチンと含めており、この点では同じです。とにかく、序文のあることとそれが大切だという点を覚えておきたいと思います。 1647年に作られましたウェストミンスター小教理問答では、問43で「十戒の序言は、何ですか」とわざわざ問い、「十戒の序言は、次の言葉にあります」と言い、出エジプト記20:2「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」という神の言葉を引用します。また問44でも「十戒の序言は、私たちに何を教えていますか」と問い、「十戒の序言が私たちに教えていることは、神が主、また私たちの神でも贖い主でもあられるので、私たちはその全ての戒めを守る義務がある、ということです」と答えます。 これは、私たちが十戒を適切に理解し、正しく生きる上で、大切な前提を教えています。すなわち、元々、十戒は、古代イスラエル民族がエジプトでの悲惨な奴隷状態から、天地の創り主なる真の神、主に救われ、恵みの契約により神の民とされ、その後も神と親しい関係を保ち、神の栄光を表し、全世界の祝福となるために、神が与えられたものなのです。 従って、十戒を守るか守らないかで、自分の永遠の救いか永遠の滅びかを自分の力で決定するというような、いわゆる律法主義的なものではない、ということです。かつて、イスラエルの先祖であるアブラハムを選び、祝福を約束された主なる神が、ただ愛と憐れみにより、イスラエルを滅びに至る悲惨な状態から贖って下さいましたので、その感謝の表明として、また全世界の祝福の源となるために、十戒を守るということなのです。十戒の序文はそのことを常に示してきました。 このことは、今日の私たちにも大事な点を自覚させます。すなわち、十戒は、ただ神の御子イエス・キリストへの信仰により罪と滅びから救われ、神の子とされた私たちが、神と親しい交わりを保ち、祝福され、神の栄光を表し、隣人にイエス・キリストによる救いと神の愛を証しするために、神が下さったということです。ですから、私たちも心から救いの感謝と喜びをもって十戒を守ることを忘れたくないと思います。 ウェストミンスター小教理問答の問44は、「神が主、また私たちの神でも贖い主でもあられるので、私たちはその全ての戒めを守る義務がある」と言います。しかし、ここの言う義務は、律法主義的義務ではなく、ただ主イエスの十字架の死により罪と永遠の死から贖われ、神の民とされた感謝と自覚から、私たちは十戒をしっかり守るということです。 十戒により、私たちは繰り返し自分の罪と不信仰を覚えて、へりくだり、悔い改め、主イエスに赦しを願い、赦され、そうしてまた神への愛と人への愛という十戒の心に生き、神を喜び、主を賛美したいと思います。エジプトでの奴隷状態ならぬ「罪と死の奴隷状態」から私たちを、ただ恵みにより、ご自分の命をもって贖って下さった主イエスの計り知れない愛を覚え、喜んでご一緒に十戒を守っていきたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『出エジプト記』
私たちは、人が生きる上での大切な規範として、天と地と私たち人間を創られた真(まこと)の神が人間に与えられた十戒を学び始めました。そしてまず、十戒を守る上で留意すべき、十戒の大切な目的と役割、次に十戒の心とでも言うべきものを学びました。
今日から十戒の内容に入ります。で、その内容と関係しますが、十戒の数え方は、実はユダヤ教、ローマ・カトリック教会、ギリシア正教、ルーテル教会、改革派教会で少し違います。例えば、ローマ・カトリックでは、私たちの言う第一戒と二戒をまとめて第一戒とし、私たちの言う第十戒を「隣人の家を欲してはならない」という所と、その後の「隣人の妻を」という所からの二つに分けます。
殆どのプロテスタントは改革派と同じであり、日本基督教団出版局『讃美歌21』の交読文93-3に記されているものが、それに当ります。この数え方は、古代教会時代から支持され、宗教改革者カルヴァンも支持し、現代の多くの神学者たちも同じです。ただ、数え方に違いのあることを、一応知っておきたいと思います。
さて十戒の内容ですが、内容と言いますと、出エジプト記20:3の「あなたには、私以外に、ほかの神があってはならない」という第一戒から、17節の「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない」という第十戒までを、普通は考えると思います。それも間違いとは言えませんが、それらだけを取り上げますと、十戒は規則集のように受け取られかねません。
実は、十戒には大切な序文があります。ユダヤ教、ローマ・カトリック、ギリシア正教、ルーテル派、改革派のどれも、序文をキチンと含めており、この点では同じです。とにかく、序文のあることとそれが大切だという点を覚えておきたいと思います。
1647年に作られましたウェストミンスター小教理問答では、問43で「十戒の序言は、何ですか」とわざわざ問い、「十戒の序言は、次の言葉にあります」と言い、出エジプト記20:2「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」という神の言葉を引用します。また問44でも「十戒の序言は、私たちに何を教えていますか」と問い、「十戒の序言が私たちに教えていることは、神が主、また私たちの神でも贖い主でもあられるので、私たちはその全ての戒めを守る義務がある、ということです」と答えます。
これは、私たちが十戒を適切に理解し、正しく生きる上で、大切な前提を教えています。すなわち、元々、十戒は、古代イスラエル民族がエジプトでの悲惨な奴隷状態から、天地の創り主なる真の神、主に救われ、恵みの契約により神の民とされ、その後も神と親しい関係を保ち、神の栄光を表し、全世界の祝福となるために、神が与えられたものなのです。
従って、十戒を守るか守らないかで、自分の永遠の救いか永遠の滅びかを自分の力で決定するというような、いわゆる律法主義的なものではない、ということです。かつて、イスラエルの先祖であるアブラハムを選び、祝福を約束された主なる神が、ただ愛と憐れみにより、イスラエルを滅びに至る悲惨な状態から贖って下さいましたので、その感謝の表明として、また全世界の祝福の源となるために、十戒を守るということなのです。十戒の序文はそのことを常に示してきました。
このことは、今日の私たちにも大事な点を自覚させます。すなわち、十戒は、ただ神の御子イエス・キリストへの信仰により罪と滅びから救われ、神の子とされた私たちが、神と親しい交わりを保ち、祝福され、神の栄光を表し、隣人にイエス・キリストによる救いと神の愛を証しするために、神が下さったということです。ですから、私たちも心から救いの感謝と喜びをもって十戒を守ることを忘れたくないと思います。
ウェストミンスター小教理問答の問44は、「神が主、また私たちの神でも贖い主でもあられるので、私たちはその全ての戒めを守る義務がある」と言います。しかし、ここの言う義務は、律法主義的義務ではなく、ただ主イエスの十字架の死により罪と永遠の死から贖われ、神の民とされた感謝と自覚から、私たちは十戒をしっかり守るということです。
十戒により、私たちは繰り返し自分の罪と不信仰を覚えて、へりくだり、悔い改め、主イエスに赦しを願い、赦され、そうしてまた神への愛と人への愛という十戒の心に生き、神を喜び、主を賛美したいと思います。エジプトでの奴隷状態ならぬ「罪と死の奴隷状態」から私たちを、ただ恵みにより、ご自分の命をもって贖って下さった主イエスの計り知れない愛を覚え、喜んでご一緒に十戒を守っていきたいと思います。