主の祈りの学び 5 第一祈願 2
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章9節~13節
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
(新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節
前回から主の祈りの第一の祈願を見ています。今日はもう少し詳しく学びます。
「御名が聖なるものとされますように」とイエスはお教えになります。「御名」とは神のお名前のことであり、神御自身を指します。「聖なるものとされますように」は元のギリシア語を直訳したものです。また「聖」とは、元は区別されるという意味だそうです。この祈願は、要するに、天地の造り主なる真の神が、他のどんなものとも明確に区別され、崇められるようにということです。
「何だ。キリスト教では、まず神を崇めよか。そんなの変だ。宗教は我々人間のためのものではないのか」という声も一般の人からはありそうですね。けれども、これがキリスト教です。
人間が自分のために自分で造った宗教では、当然人間中心、人間優先です。神仏を崇めるなどと言っても、所詮、それは人に益を与えてくれる限りにおいてです。
最近は電車の中でも人目をはばかることなく、化粧をする女性が多いですね。私などは昔人間ですから、驚きます。それはともかく、用がすめば、女性は化粧道具をバッグに仕舞い込みます。同様に、人間の作った宗教では、神仏は用のある時だけ取り出され、用が済めば引込んでもらう。いわば人間に仕える道具、召使、便利屋です。人間が第一です。
しかし、私たちを造られた真(まこと)の神を畏れ敬うキリスト教では全く違います。論理的にも神が第一です。
しかし、これに尚抵抗を覚える人もあるでしょう。そこで試しに、真の神以外の何かが崇められるようにとすると、分りやすいと思います。例えば、「私の名声が広まり、私が有名になり、私が崇められるように!他の企業や他の国はどうでもよい。とにかくわが社、わが国が繁栄し、崇められるように!」という祈りならどうでしょうか。何と自己中心的な願いかと非難されるでしょう。要点はそこです。万物の造り主なる神が第一に来ないといけない理由が、多少とも理解できると思います。
では、私たちのことはどうでも良いのでしょうか。キリスト教では、日本の戦前戦中の滅私奉公思想のように、つまり、ただ神のことだけで、私たちのことは全て排除され、私たちのことはお構いなしで、どうでもいいのでしょうか。違います。この祈りは決して私たち自身の幸せを否定しません。
「御名が崇められますように」と主イエスはお教えになります。では、誰によって崇められるのでしょうか。まず、これを祈る私たちによってであることは、当然です。「私自身は神を崇めるつもりはない。だが、他の人によって崇められるように」という祈りなど、あり得ません。神を崇めるのは、まず私たちです。
しかし、私たちが心から神を崇めることができるためには、私たち自身が神の愛と恵みを喜び、感謝し、神の造られた被造物を見て神の素晴らしさに感動するなど、幸せを味わっていることが不不可欠です。自分をひどく不幸で惨めだと思い、人や社会や神を恨み、自暴自棄の状態であっては、「御名が崇められますように」とは祈れません。
結局、これは「神様、私を自己中心の罪と悲惨からイエス・キリストによって救い、清めて下さることにより、私があなたの赦しの愛と恵みに絶えず気づき、感謝でき、そんな私により、あなたが崇められますように!」という祈りなのです。これはキリストによる私たち自身の永遠の救いと喜び、魂の幸せを含む祈り以外の何ものでもありません。ですから、この祈りを膨らませるとこうなります。「神様、今日も私があなたの豊かな救いの愛と恵みを覚え、御名を賛美できますように!辛いことがあってもヤケを起さず、自分を失わず、苦しいことがあっても、その意味を考えることができ、ついには、あなたを崇めることができますように。」
そして事実、あらゆることにおいて神を崇めるのです。例えば、今日も食事が喉を通るというだけで神を称え、小さな花一つを見て「何と美しいか」と感動したり、人の優しさを感じるなら、そのことでも神を崇め、自分の小さな働きや奉仕、祈りについても、それをさせて下さる神の恵みに感謝し、神を讃えるのです。
更に言うなら、私の微笑みや呼吸一つ、生きることそれ自体によっても神が崇められるように、という祈りと言えます。原崎百子さんは、癌末期のご自分の残り少ない命を意識しつつも、「わが涙よ、わが歌となれ(つまり、神を賛美する歌となれ)」と、日記に残されました。それどころか、使徒パウロはピリピ1:20で「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです」と言いました。それ程までのことが、主イエスのお教え下さったこの短い祈りには込められている!一体、何という豊かな祈りでしょう!驚かないではおられません。
どうか、私たちの信仰が更に純化され、私たちの内にイエス・キリストの形がますます現れ、正に(まさに)私たちが生きるにしても死ぬにしても、素晴らしい神がもっと崇められますように!